【第21話】従姉妹という他人
クリスを見つけたのは、その日の夜、学院の裏庭だった。
彼女は、焼却炉の前にしゃがみ込んでいた。
何かを燃やそうとして、火のつけ方がわからなくて、失敗している。手には、便箋の束。
「そこ、風が入るから火がつきませんわよ。もっと奥にお入れなさい」
クリスが、跳ね上がるように振り返った。
「……なんで、あなたが」
「散歩ですわ。夜風が気持ちいいでしょう」
私は、少し離れた石段に腰を下ろした。逃げ道を塞がない距離。前世で、追い詰められた人に話を聞く時の鉄則よ。
長い沈黙が落ちた。
焼却炉の中で、燃え損なった紙が、ぱさりと崩れた。
「……なぜ、審問会で言わなかったのですか」
「何を?」
「わたくしの名前を!」
クリスが叫んだ。声が裏返っていた。
「わたくしが教官室から紙を盗んだことを、あなたは知っていたのでしょう!? ブライアン様を助けたいなら、わたくしを差し出せばよかったじゃない! そうすればあなたは正義の人で、わたくしは罪人で、それで話は終わったのに!!」
「終わりませんわ」
「なぜ!」
「だって、あなたは紙を運んだだけで、黒幕ではありませんもの」
クリスの顔が、こわばった。
「……わたくしは、罪人です」
「ええ、盗みは罪ですわ。それは償いなさい」
私は、静かに続けた。
「でも、あなたは答案に触れていない。触れられるはずがないんですのよ。あの日、あなたは私と同じ教室で試験を受けて、私と同じ廊下を通って出てきた。……あなた、ご自分が何をしたと思っていますの?」
クリスの唇が、震えた。
「わたくしは……あの方を、お守りするつもりでした」
「守る?」
「ヴィオラ様が、仰ったのです。ブライアン様がエミリア様に首席を奪われれば、お父様に家を追われてしまう。……だから、正答を写したものを、あの方のお手元にそっと届くよう手を回して差し上げる、と。あの方は何もご存じないまま、守られるだけだと」
「……それで、あなたに何を頼みましたの」
「写すには、教官の書式の紙が要る、と仰いました。よその紙では、一目で偽物と知れてしまうから、と」
彼女は、震える手で、何もない宙をつまむ仕草をした。
「……白紙の答案用紙を、一枚。教官室にしかない、あの、真っ白な紙を」
私は、目を閉じた。
なんて、むごい嘘。
「だからわたくしは、掃除当番を装って教官室に入って、白紙の答案用紙を一枚、盗みました。あの方のために。三年間、何もして差し上げられなかったから、初めて、役に立てると思って」
彼女の声が、崩れた。
「……なのに、その紙は。わたくしが盗んだ、あの真っ白な紙が。あの方の筆跡で埋められて、あの方の答案の裏に貼りつけられて。……あの方を、陥れる道具に、使われたのです」
——ああ。
これが、この事件の一番深いところだったのね。
クリスは、恋する人を救うつもりで、恋する人を殺しかけた。
しかも、その凶器は、彼女自身の手で運ばれた。
「訊かなかったのね。ヴィオラ様が、その紙を本当に何に使うのかを」
「……訊けば、あの方を守れなくなる気がして」
その沈黙が、この子が背負ってしまったものの重さだった。
私は、袖から半分焦げた手紙を取り出して、彼女に見せた。
「これ、あなたが焼こうとして失敗したものですわね。焼却炉って、意外と難しいんですのよ。紙は、丸めずに一枚ずつ入れないと燃えませんの」
「返して!!」
「差し上げますわ。私はもう、中身を覚えていますから」
私は、その紙を彼女の足元に放った。
クリスは震える手でそれを拾い上げ、胸に抱えて、そのまま地面に座り込んだ。
「クリス。ひとつだけ、聞かせてくださいます?」
「……」
「ヴィオラ・ハーグレイヴ様は、あなたに何と言って、この計画を持ちかけましたの?」
クリスは、答えなかった。
代わりに、ぽつりと言った。
「……お茶に、誘われたのです」
「お茶?」
「演習の後です。わたくしが罠で吊るされて、学院中の笑い者になって、取り巻きが半分に減って。誰も、わたくしと口をきかなくなった時に」
彼女の声は、ひどく平坦だった。
「三年生のヴィオラ様が、『可哀想に』と仰って、わたくしをお茶に誘ってくださったのです。あの方は、わたくしの話を三時間も聞いてくださいました。父のことも、母のことも、あなたのことも。……あの日、わたくし、生まれて初めて、誰かに話を聞いてもらいました」
私は、目を閉じた。
——ああ、うまいわね。
心が折れた人間の前に現れて、ただ話を聞く。それだけで、人は堕ちる。前世で、宗教にも、悪徳商法にも、詐欺にも、そうやって落ちていく人を何人も見た。
「その後、手紙をくださるようになりました。少しずつ、少しずつ。……気がついたら、わたくしは教官室の前に立っていました」
「クリス。二通目の手紙には、何と書いてありましたの」
クリスの肩が、跳ねた。
「……言えません」
「言わなくて結構よ。当ててみせますわ」
私は、焼却炉の灰を見つめたまま言った。
「とても恐ろしいことが書いてあったのでしょう。あなたが、絶対にできないようなことが」
彼女は、答えなかった。答えないことが、答えだった。
「そして三通目で、あの人はこう言った。冗談ですわ、と。もっと簡単な方法がありますわ、と」
「……どうして」
「そういう手口だからですわ」
前世でも、あった。
最初に法外な額を吹っかけて、断られたところで「では半額で」と切り出す。断った相手は、譲歩されたと思って呑んでしまう。最初の額が、そもそも呑ませるための道具だったとも知らずに。
「先に恐ろしいものを見せられると、その次に出されたものが、優しく見えるんですのよ。……紙が一枚汚れるだけ、とでも仰ったのかしら」
クリスが、両手で顔を覆った。
肯定だった。
「あの人は、あなたを守ってくれまして?」
クリスは、笑おうとして、失敗した。
「今日、審問会が終わったあと、廊下ですれ違いました。目も合わせてくださいませんでした」
「そうでしょうね」
「わたくし、捨てられたのですわね」
「ええ」
私は、はっきりと肯定した。慰めるつもりはなかった。
「クリス。ひとつ、教えて差し上げますわ。……あの人が本当に潰したかったのは、ブライアン様ではありません」
彼女が、涙で腫れた目を上げた。
「……では、誰を」
「私ですわ」
焼却炉の中で、燃え残りが、ぱさりと崩れた。
「あの方は、私が何を選んでも落ちるように、組んでおいでだった。……あなたは、そのための道具でしたのよ」
クリスの唇が、わなないた。
「ブライアン様も、あなたの三年間も、あの方にとっては、私を刺すための刃物の柄。それだけですわ」
「そんな……」
「もし審問会であなたの名前が出ていたら、あの方は『そういえばあの娘、あの悪評高い女狐の従姉妹だとか』と言って、全部あなたに被せて終わりだったでしょうね」
クリスの肩が、震え始めた。
「……どうして」
彼女は、自分の赤い髪を、一房、掴んだ。
「わたくしにも、フォックスの血が流れているのに」
「クリス?」
「どうして、あなたにだけ出て、わたくしには出なかったのかしら」
——出た。
私はその言葉に、少しだけ引っかかった。
血が流れている、ではなく。この子は、「出た」と言ったのだ。
まるで、それが、血の中から何かが「出てくる」ものであるかのように。
その意味を、私はこの時、まだ知らなかった。
「わたくし……わたくしは、ブライアン様を」
「知っておりますわ」
「三年前から、お手紙を書いていました。返事は一度も来ませんでした。それでも、書いていました」
「あの方、覚えていらっしゃいましたわ」
クリスが、顔を上げた。
「え……?」
「差出人の名前のない手紙をくれた女の子のことを、ブライアン様は、ずっと覚えていました。『あの筆跡は忘れない』と仰っていましたわ」
彼女の目から、涙が一気に溢れた。
「それなのに、わたくしは」
「ええ。あなたは、あの方の人生を終わらせようとしましたわ」
私は、容赦しなかった。
ここで「仕方なかったのよ」と言ってしまったら、この子は一生、自分の足で立てない。
「クリス。私は、あなたを許しません」
彼女は、殴られたような顔をした。
「私を階段から突き落としたことも、私の食事に悪戯をしたことも、社交界に噂を流したことも、そしてブライアン様を陥れたことも。全部、許しませんわ」
「……はい」
「でも、私は、あなたを差し出しもしません」
クリスが、涙でぐしゃぐしゃの顔で私を見た。
「なぜ……」
「あなたを潰しても、ヴィオラ・ハーグレイヴは無傷ですもの。あの人は次の駒を探すだけ。……私、そういう決着の付け方が、心底嫌いですのよ」
私は立ち上がって、ドレスの裾を払った。
「それに、あなたが罪を償う相手は、私じゃありませんわ」
「……ブライアン様、ですか」
「いいえ」
私は、彼女を見下ろした。
「あなた自身ですわ」
裏庭の風が、焼却炉の灰を巻き上げた。
「あなたはまだ十二歳よ。今日、道具にされたことを覚えておきなさい。そして、次に誰かがあなたに優しく近づいてきたら、その人が何を欲しがっているのかを、一度でいいから考えなさい」
クリスは、しゃくり上げながら、何度も何度も頷いた。
私は背を向けて、寮へ歩き出した。
——正直に言えば、この子のことは、まだ嫌いよ。
明日から急に仲良しになれるわけでもないし、この子が私にした仕打ちは消えない。
でも。
八年間、あの屋敷で人形にされていた本物のエミリアと、八年間、その扉の前で立ちすくんでいたこの子と。
あの屋敷は、いったい何人の子供を壊したのかしら。
「エミリア様」
背中に、声がかかった。
振り返ると、クリスが立ち上がって、こちらを見ていた。
「わたくし、明日、教官に自首いたします」
「……お好きになさいませ」
「あなたが庇ってくださったのに、勝手に自首するなんて、と怒りますか」
「怒りませんわ。ただ」
私は、少しだけ考えて、言った。
「ひとつだけ、条件があります。ヴィオラ様の名前は、絶対に出さないこと」
「なぜ!?」
「まだ早いからですわ。あの人を告発するのは、あの人が絶対に言い逃れできない証拠を掴んでからでないと、次に潰されるのはあなたです」
私は、にっこり笑った。
「大丈夫。私、そういうのを準備するのが本職ですの」
クリスは、その日初めて、泣き笑いのような顔をした。
「……あなたって、本当に、性悪な方ですのね」
「あら。褒め言葉として受け取っておきますわ」




