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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第20話】インクは、乾く

審問会は、学院の小講堂で開かれた。


正面に教官が五人。壁際にシリル侯爵家の代理人。傍聴席には、噂を聞きつけた生徒たちがぎっしり詰めかけている。


被告席に立つブライアン様は、青白い顔をして、まっすぐ前を見ていた。


そして傍聴席の最前列に、クリスが座っていた。


彼女の隣には、上級生の令嬢が三人。真ん中の一人が、扇で口元を隠して、退屈そうに欠伸をしている。栗色の髪に、灰色の目。三年生の、ヴィオラ・ハーグレイヴ伯爵令嬢。


——王妃の実家、ハーグレイヴ家の縁者。


昨夜、マリーが一晩で調べてきてくれた名前だ。あの子の情報網、そろそろ王宮に売れるんじゃないかしら。


「これより、ブライアン・シリルの不正行為に関する審問を行う。……傍聴人の中に、証言を希望する者はいるか」


私は、すっと立ち上がった。


「エミリア・フォックスと申します。証言いたします」


講堂がざわめいた。


法学の教官が眉をひそめる。


「フォックス嬢。君はブライアン・シリルの友人だ。友人の弁護は証言とは呼ばん」


「弁護には参りませんでした」


私は、微笑んだ。


「私は、答案の話をしに参りましたの」


証拠品として、机の上に問題の答案が置かれた。


ブライアン様の答案用紙。その裏に、もう一枚の紙が糊で貼り付けられている。


教官用の答案用紙——教官室にしか置かれていない、白紙の書式の紙。


そこに、法学第七問の模範解答が、ブライアン様の筆跡で書き写されていた。


「教官。三点、伺います」


「言ってみたまえ」


「一点目。この模範解答が書かれたのは、いつですか」


「答案回収後に発見された。試験中に書かれたものと見るのが自然だろう」


「では二点目。試験当日、教室のインク壺は、どなたが用意なさいましたか」


教官が、少し面食らった。


「……教室係の生徒だ。試験の一時間前に、全席に新しいインクを配る」


「新しいインク。つまり、全員が同じインクを使いましたのね」


「そうなるな」


「では三点目」


私は、答案を光にかざした。


「このインクの色は、なぜ他の生徒の答案と違うのですか」


しん、とした。


「……なんだと?」


「私、今朝、法学の答案を三十枚、教官室からお借りしましたの」


「借りた?!」


「ええ。夜明け前に学院長を叩き起こして、借用の許可をいただきました。……マリー、お願い」


扉が開いて、赤毛のメイドが答案の束を抱えて入ってきた。


——ちなみに、学院長は、一言も渋らなかったわ。


寝間着のまま、黙って筆を執って、判をひとつ。それだけ。


……私、いつから、こんなに頼み上手になったのかしら。


私は、答案を一枚ずつ、机に並べていった。


「ご覧ください。試験当日に使われたインクは、乾くと、こうしてわずかに紫がかった黒になります。この学院が今期から仕入れを変えた、新しいインクですわ。三十枚、全部そうです」


「……」


「ところが、この模範解答の文字だけが、青みがかった黒。前期まで使われていた、古いインクの色ですのよ」


傍聴席がざわついた。


「では、この模範解答は、いつ、どこで書かれたのでしょう」


私は、答案を教官に手渡した。


「少なくとも、あの教室では書かれておりませんわ。試験中でもない。——古いインクが残っている場所で、事前に書かれ、あとから貼り付けられたのです」


「し、しかし、筆跡は」


「筆跡は真似られます。インクの化学は真似られません」


——ありがとう、前世の刑事ドラマ。


そして、ありがとう、うちの局の科学捜査担当の考証の先生。あなたの三十分の講義が、まさか異世界で人ひとりの人生を救うとは思わなかったわ。


「そして、もうひとつ」


私は、貼り付けられた紙を、そっと爪でめくった。


「この糊。乾いて、硬くなっておりますわね。……この手の膠が、こうして完全に硬くなるまでには、丸一日かかりますのよ」


「それが、どうした」


「では、伺いますわ」


私は、答案を教官たちのほうへ向けた。


「この答案が提出されたのは、一昨日。皆の目の前で、教室で、一枚ずつ重ねられて回収されました。……もし、その時にこの紙が貼られていたのなら、糊は、まだ濡れていたはずですわね?」


「……む」


「濡れた糊のついた紙を、束の中に重ねたら、どうなりまして?」


私は、机に並べた三十枚の答案を、手のひらで示した。


「上に載せられた答案の裏に、必ず、糊が移りますわ。にじむか、貼りつくか、剥がした跡が残るか。……ですけれど」


私は、一枚を摘み上げた。


「ブライアン様の答案の、すぐ上に重ねられていた一枚。ご覧ください。糊の跡が、ひとつもございません。三十枚、全部あらためましたわ。どの一枚にも、ありません」


しん、とした。


教官たちが、顔を見合わせた。


「答案は、束が積み上がったあとで細工されたのです。——教官室で」


講堂が、爆発したようにざわめいた。


「静粛に! 静粛に!」


騒ぎが収まるのを待って、私は言葉を継いだ。


「ここから導かれることが、ひとつございます」


私は、傍聴席をゆっくりと見渡した。


最前列で、クリスが凍りついている。


「答案の束は、試験終了と同時に教官室へ運ばれ、翌朝まで施錠された部屋にありました。……ですから、この細工ができたのは、答案を提出したあとに教官室へ入れた人だけ。生徒には、不可能ですわ」


クリスの目が、大きく見開かれた。


彼女は、たぶん今の今まで、自分が友人の人生を壊した張本人だと思っていたのだ。


「試験を受けた生徒は、全員、答案を出して教室を出ました。誰ひとり、あの束には触れておりません。——たとえ、その前に何をしていたとしても」


私は、そこで言葉を切った。


これ以上は言わない。


でも、あの子には届いたはずよ。


あなたは、人ひとりを退学させた犯人ではない、と。


クリスが、両手で口を覆った。声を殺して泣いているのが、離れていてもわかった。


私の視線は、そのまま、隣の席へ滑った。


ヴィオラ様は、まだ扇で口元を隠したまま、まったく表情を変えていなかった。


隣で娘がひとり泣き崩れても、講堂がこれだけざわめいても、その灰色の目だけが、静かに私を見返している。


——ああ、そう。


あなた、驚いてすらいないのね。


「エミリア嬢。答案に触れることができた者は、限られる。……君は、誰が細工をしたと言うのかね」


私は、正面に向き直った。


——来た。


ここが、この事件の本丸だ。


私は、昨夜からずっと、この問いのことだけを考えていた。


だって、おかしいでしょう?


ヴィオラ・ハーグレイヴがブライアン様を憎む理由なんて、どこにもない。あの人は、ブライアン様と口をきいたことすら、たぶん一度もない。


なのに、なぜ、彼を狙ったのか。


——狙われていたのは、彼ではないからよ。


考えてもごらんなさい。


ブライアン様が退学になれば、私は友人を一人失う。それだけじゃない。「あの女に近づくと破滅する」という噂が学院を這い回って、残りの三人からも、ソフィアからも、人が引いていく。私は、きれいに独りになる。


そのうえ、紙を盗んだのは、私の従姉妹。フォックス家の身内の泥沼として、泥は私の顔にも飛ぶ。


そして、私は二つにひとつを選ばされる。


クリスを庇えば——「不正を隠した女」。


クリスを差し出せば——「身内を売った女」。


どちらを選んでも、私は落ちる。


そういうふうに、組んである。


友人と、身内と、評判。この三つを一枚の紙に載せて、私に選ばせる。それが、あの人の企画書ですわ。


……ずいぶん、丁寧なお仕事だこと。


でもね、ヴィオラ様。


前世で私が三年かけて覚えたことが、たったひとつだけありますの。


二択を出された時は、必ず、出した側に得のある二択なのよ。


だから私は、どちらも選ばない。


そして、講堂中に聞こえる声で言った。


「わかりませんわ」


ざわめきが、止まった。


「私は、犯人を告発しに来たのではありません。私が申し上げたのは、ただひとつ。——ブライアン・シリルには、これを実行することが不可能だった、ということだけです」


ブライアン様が、被告席で、はっと顔を上げた。


「彼は試験中、席を立っておりません。教室のインクは新しいものしかなく、糊は持ち込み禁止です。彼が犯人であるためには、彼が試験前に教官室へ忍び込み、自分を陥れるための紙を用意し、自分の答案に貼り付けたことになりますわ。……そんな人がいまして?」


くすくす、と傍聴席から笑いが漏れた。


「犯人が誰かは、学院がお調べになることです。私は、生徒ですもの」


私は、深々と一礼した。


「証言は以上です」


その日のうちに審問会は打ち切られ、ブライアン様の謹慎は解かれた。


講堂を出る時、彼が私の隣に並んだ。


「……なぜ、名を出さなかった」


「出したら、クリスは終わりですわ」


「君は、彼女に階段から突き落とされたと聞いたが」


「ええ。むかつきますわね、本当に」


私は、ため息をついた。


「でも、あの子の後ろにいる人を引きずり出さない限り、あの子を潰しても意味がないのよ。——それに」


私は、廊下の先を歩いていく、栗色の髪の令嬢の背中を見つめた。


「クリスは、切り捨てられる駒ですわ。あの人にとって」


ブライアン様が、息を呑んだ。


「エミリア。君は、いつからそこまで」


「今朝、確信しましたの」


私は、袖から一枚の紙を取り出した。昨夜、マリーが寮の裏の焼却炉から拾ってきたものだ。半分焦げた、女文字の手紙。


『——ご安心なさい、可哀想なクリス。


あの方の首席は、わたくしが守って差し上げましょう。


あなたは、ただ、白紙を一枚——』


そこから先は、焼けて読めない。


ブライアン様が、その紙を、食い入るように見つめた。


「……これは」


「クリスに宛てた手紙ですわ。差出人の名は、焼けて残っておりません。ですから、証拠にはなりませんの」


私は、指先で、焦げた縁をなぞった。


「それに、ブライアン様。よくご覧になって。……この手紙には、罪になることが、一文字も書かれておりませんのよ」


「なに?」


「守って差し上げましょう。紙を一枚。それだけ。……万一これが表に出ても、あの人は『親切のつもりでしたわ』と微笑んで、それで終わりですわ」


私は、その紙をそっと畳んだ。


「そして、クリスの手元には、教官室から紙を盗んだという事実だけが、証拠つきで残る。……ねえ、ブライアン様。手を汚さずに人を殺す文章って、こういうものを言うんですのよ」


ブライアン様は、しばらく、何も言えなかった。


「……あの子は、最後まで」


「ええ」


「最後まで、私を守っているつもりで、あの紙を運んだのか」


「ええ」


私は、うなずいた。


「あの子は、盗んだ紙が何に使われるのかを、知りませんでした。訊かなかったからですわ。……訊かなかったことが、あの子の罪です。それ以上でも、それ以下でもありません」


長い沈黙のあと、ブライアン様は、ゆっくりと空を仰いだ。


「……私も、訊かなかったな。あの子に、一度も」


「ええ。あなた方は、本当によく似ていらっしゃいますわ」


私は、彼の横顔を見上げた。


「でもね、ブライアン様。私、あの人にひとつだけ、感謝していますの」


「感謝?」


「ええ。おかげで、これから何と戦えばいいのか、はっきりしましたもの」


伯爵が、私の敵の全部だと思っていた。


とんでもない。この学院の壁の向こうには、もっと大きくて、もっと薄気味の悪いものが、じっと私を見ている。


——上等よ。


前世の私は、視聴率という化け物と三年戦ったのよ。


化け物の相手なら、慣れているわ。

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