【第19話】首席の答案
夏の休暇のあいだ、私は屋敷に呼び戻されなかった。
呼び戻されたくもなかったから、ちょうどよかったわ。
……と、強がってはみたものの。寮に残ったのは数えるほどの生徒で、がらんとした食堂で一人パンをちぎっていると、さすがに少しだけ、胸のあたりが冷えた。
代わりに、手紙だけは律儀に届いた。
秋が来る頃には、私は「屋敷からの手紙」を、封を切る前に見分けられるようになっていた。
紋章の押し方が、いつも少しだけ雑なのだ。書いている人間が、この手紙に一片の敬意も払っていないことが、蝋の潰れ方でわかる。
そして中身は、決まって三種類のうちのどれかだった。
ひとつ。金の話。
『学院の寮費が高すぎる。来期より、被服費と書籍費の送金を止める』
私は、この手紙を読んだ日、亜空間スーツケースの中の金貨を数えた。エミリアが呪いを受ける前に詰めておいた、あの子の全財産。教科書を買い直したから、少し減っている。
——その買い直しのために、私は一度だけ、王都の書店街へ出た。
赤毛のカツラ。雰囲気を平凡にする眼鏡。念の入った変装だったのに、それでも視線は感じた。
三度、同じ男とすれ違った。
一度目は書店の前。二度目は、三本向こうの通り。三度目は、馬車溜まりだった。目が合うと、男は何でもない顔で帽子を直した。
……気のせいよ。前世の癖。
それでも私は、帰りの馬車を一本早めた。
その夜、亜空間スーツケースの底を整理していて、手が止まった。
肖像画の束。あの朝、三人に一枚ずつ配ったから、残りは——あら。
一枚、足りない。
数え間違いね、きっと。
ミラー伯爵は、私を飢えさせたいのではない。私に「頭を下げさせたい」のだ。金がなくなれば、あの人形は屋敷に手紙を書くだろうと思っている。お許しください、と。
書きませんわよ。私、前世で二年間、給料日前にもやし炒めだけで生き抜いた女ですもの。
ふたつ。人の話。
先月、別館付きの老いた庭師が解雇された。理由は、私に花の名前を教えたから。
先々週、屋敷の厨房の下働きが、給金を三ヶ月分減らされた。理由は、私が学院へ発つ朝に、包みをひとつ持たせたから。
——これが、いちばんこたえる。
あの人は、よくわかっている。私を殴っても、私は痛がらない。だから、私に親切にした人間を、代わりに殴るのだ。
マリーの母親も、まだあの屋敷にいる。
みっつ。そして、これがいちばん多い。
社交界での噂だ。
『フォックス伯爵家のご令嬢は、学院で殿方を四人も侍らせているそうですわ』
『家名を汚す振る舞い、伯爵様もさぞお嘆きでしょう』
出どころは、夫人とクリス。でも今は、それを面白がって広める大人が、社交界に何人もいる。
先週、ソフィアが泣きながら見せてくれた。彼女の実家に、匿名の手紙が届いたのだ。『あの女狐と親しくすると、お家に傷がつきますわよ』と。
その手紙を読んだ時、私は生まれて初めて、指先が冷たくなるほどの怒りを覚えた。
——比喩ではなく、本当に冷たかった。
爪の色が、白い。血が、指の先まで来ていない。
怒ると血の気が引く体質なのね、と結論づけて、私は暖炉に手をかざした。
私を攻撃するのは、勝手になさい。
でも、私に優しくしてくれた人を狙うのは——それは、あなた方が一番やってはいけないことよ。
そんな秋の只中に、後期の中間試験がやってきた。
四年目のクラス分けの資料に、この成績が加算される。魔術クラスを目指す者、騎士クラスを目指す者、それぞれが必死になる。
試験最終日、最後の科目は法学だった。
答案を提出して廊下に出ると、初夏の頃よりずいぶん低くなった陽が、石畳を橙に染めていた。
「終わったあああ! おい、肉食いに行こうぜ肉!」
「うるさいぞディーン。……エミリア、法学の第七問はどう解いた」
「私、あれは出題が悪いと思いますわ。設問文の『不当に』の定義が」
「同意見だ。だから私は、定義そのものを疑う前提で書いた」
「うわ、その答案、絶対に採点者が困りますわね」
「困らせるために書いた」
この人、たまにとんでもないことを言うのよね。
四人で食堂へ向かう途中、私は、廊下の角でクリスとすれ違った。
彼女は、私を見なかった。
……ただ、そのことが、なぜか胸に引っかかった。
演習の後、あれだけ私を睨みつけていた人が、目を合わせなくなったのはもうずいぶん前のこと。それでも今日の彼女は、いつもと違った。
顔が、真っ白だったのだ。
その意味を私が知るのは、翌朝のことだった。
法学の教官が、朝礼の壇上で、震える声で告げた。
「昨日の法学の試験において、不正が発覚しました」
講堂が、しんと静まり返る。
「ブライアン・シリル。前に出なさい」
私の隣で、ブライアン様が、ぴくりとも動かなかった。
「答案の裏に、教官用の答案用紙が——白紙の書式の紙が、糊で貼り付けられていました。そこに、法学第七問の模範解答が、書き写されています」
講堂の空気が、ざわりと揺れた。
「この書式の紙は、教官室にしか置かれておりません。……教官室から盗み出し、模範解答を書き写し、自らの答案に貼り付けたと、見なさざるを得ない」
「そんなわけあるか!!」
叫んだのはディーン様だった。
「ブライアンだぞ! あいつがそんなことするわけ」
「ディーン・ダッシュ、静粛に!」
「先生、こいつは!」
「ディーン」
ブライアン様が、静かに友人を制した。
そして彼は、まっすぐ壇上に歩いていった。背筋を伸ばして。片眼鏡の位置を、いつものように直して。
「教官。ひとつだけ、確認させてください。その答案は、私の筆跡でしたか」
「……そうだ」
「そうですか」
ブライアン様は、それ以上何も言わなかった。
弁明しなかったのだ。
「シリル侯爵家に通達の上、審問会を開きます。それまで、ブライアン・シリルは自室謹慎とします」
——シリル侯爵家に、通達。
私は、その言葉が講堂に落ちた瞬間の、ブライアン様の背中を見ていた。
彼の肩が、ほんの一度だけ、震えた。
『二番は、死と同じだ』
首席どころではない。不正は、退学だ。そして家系図から名前が消える。三年前の兄と同じように。
その日の午後、謹慎中の部屋の前で、私は衛兵に止められた。
「面会は禁止されております」
「あら。私、この方の婚約者ですのに?」
扉の向こうで、何かが落ちる音がした。
たぶん本ね。あの人、謹慎中でも読んでいるんだわ。
「こ、婚約者!? そのようなお話は聞いて」
「では、伺いますけれど」
私は、両手に抱えた籠を掲げてみせた。中身は着替えと、写しの取れる紙と、水差し。
「謹慎中の生徒に、着替えを届けるのも禁止ですの? 学則の何条に、そう書いてありまして?」
「い、いえ、あの、婚約の件は……」
「その話は済みましたわ」
「済んでおりません!!」
「学則第四十一条。謹慎中の生徒への面会は、審問会の結審まで、これを禁ずる。……ええ、その通りですわ。面会は禁止。ですけれど」
私は、扉の前に進んだ。
「私は、面会に来たのではありません。荷物を届けに来たのです。荷物は、置いていくものでしょう? 置く場所が扉の内側になっただけのことですわ」
「屁理屈です!!」
「屁理屈ですわね。でも、あなたに私を止める条文はありませんの」
衛兵の手が、槍の柄の上で迷った。
私は、その一瞬に、彼の目をまっすぐ見た。
「あなた、去年ここに配属された方ですわね。演習の三日目、湖畔で審判に立っていらしたでしょう。ディーン様の一騎打ちを見て、いちばん大きな声を上げたのが、あなたでしたわ」
衛兵の喉が、大きく上下した。
「あの日、あなたはあの試合を、正々堂々といい試合だと思って見ていたはずですわ。……その隣に立っていた人が、今、卑怯者の汚名を着せられて、この扉の向こうにいます」
「…………」
「私は、あの人が誰かを騙すところを、一度も見たことがありません。あなたは、ありまして?」
長い沈黙のあと、衛兵は、ゆっくりと槍を下ろした。
そして、目を伏せたまま、扉から一歩、横にずれた。
「……荷物を、置くだけですぞ」
「ええ。長居はいたしませんわ」
私は深く一礼して、扉を押した。
——後になって、少しだけ考えたのだけれど。
あの人は、なぜ、あんなにあっさり折れたのかしら。
私は屁理屈を並べて、あの人の職を危うくしただけなのに。
……まあ、いいわ。私の理屈が、よほど正しかったということね。
——ちなみに、後日談を申し上げますと。
私はその部屋に、二時間おりました。
部屋の中は暗く、彼は灯りもつけずに椅子に座っていた。
灯りのない部屋に足を踏み入れた瞬間、膝が、勝手に笑った。
……なによ。暗いのが苦手だなんて、聞いていないわよ。
私は、震える手で燭台に火を点けようとして——やめた。
この人は今、顔を見られたくないはずだ。
だから私は、暗いまま、後ろ手に扉を閉めた。膝の震えは、ドレスの裾に隠した。
足元に、落ちた本が伏せたまま転がっている。
「……エミリア。ひとつ、確認したい」
「はい?」
「いつ、私に婚約者ができたんだ」
「先ほど、廊下で」
「勝手に決めるな」
「では、婚約は破棄いたしますわ。……解消の申し入れは、扉の外の方に伝えてくださいます? 私、あの方に嘘をついたことになりますので、心が痛みますの」
「今さらか!!」
謹慎中の男が、この二日で初めて大きな声を出した。
——よかった。
まだ、怒る力は残っているのね。
私は籠を机に置いて、彼の向かいに腰を下ろした。
「ブライアン様。なぜ、弁明しませんでしたの」
「意味がないからだ」
「意味は、ありますわ。あなたはやっていないのだから」
「筆跡が私のものだった。それが全てだ」
「筆跡は、真似できます」
私は、彼の机の上に、自分のノートを一冊置いた。
「ご覧になって」
彼は怪訝な顔でページを開き——そして、絶句した。
そこには、彼の筆跡で、演習の偽の指令書が書かれていた。あの日、彼自身が私のために書いたものだ。
「あなたは、たった一目見ただけで、アルバート様の筆跡を完璧に真似ましたわね。……ということは、この世界には、あなたと同じことができる人が、他にもいるということですわ」
「……」
「そしてもうひとつ。あなたは、弁明しなかったのではありませんわね。……弁明できなかったのでしょう?」
暗闇の中で、彼が息を呑む音がした。
私は、ずっと引っかかっていたことを口にした。
「あなたは頭のいい人です。あの場で反論の糸口を三つは思いつけたはず。でも、あなたは黙った。……犯人に、心当たりがあるからでしょう」
長い沈黙が落ちた。
やがて、ブライアン様は、両手で顔を覆った。
「……試験の三日前だ。教官室から出てくるところを、見た」
「誰を」
「クリス・フォックスだ」
私は、目を閉じた。
やっぱり。
「彼女は、私に気づいて、逃げるように走り去った。……その時、彼女の手に、教官用の答案用紙が——白紙の、あの書式の紙が握られていたのを、私は見てしまった」
「なぜ、言わなかったんですの」
「言えるものか!!」
ブライアン様が、初めて声を荒らげた。
「あの子は、君の従姉妹だ。……あの家で、あの母親のもとで育った娘だ。ここで不正の罪まで着せられたら、あの子には帰る場所も、行く場所もなくなる。——君なら、あの屋敷がどういうところか、私よりよほどよく知っているはずだ。……それに」
彼は、声を落とした。
「……手紙のことは、聞いているか」
「ええ。三年間、一度も返事をなさらなかったと」
暗闇の中で、椅子が、ぎしりと鳴った。
「そうか。……そう聞こえているのか」
彼は、立ち上がって、机の一番下の引き出しを開けた。
そして、麻紐で束ねられた便箋の山を、私の前に置いた。
数えるまでもない。何十通もある。
一通残らず、封を切ってあった。角が擦り切れ、折り目が柔らかくなるまで、何度も開かれた紙の感触だった。
「兄が家を追われた年だ。私は誰にも会わず、誰とも口をきかなかった。飯も喉を通らなかった。……その頃、一度も会ったことのない女の子から、手紙が届き始めた」
「差出人の名は?」
「なかった。だが、あの筆跡は忘れない」
彼は、束の一番上の一通に触れた。
「『わたくしの家にも、誰にも言えないことがあります』——それだけ書いてあった。慰めも、励ましもない。ただ、そう書いてあった」
「……」
「返事を書かなかったんじゃない。書けなかったんだ。あの頃の私は、自分がまだこの家にいていいのかも、わからなかった」
ブライアン様は、束をそっと引き出しに戻した。
「三年だぞ、エミリア。返事が来ないとわかっていて、三年間書き続けたんだ、あの子は」
私は、何も言えなかった。
椅子を花壇に捨て、羽根ペンを折り、それでも折れた一本を机に戻した、あの子の手を思った。
三年間、届いているのかどうかもわからない場所へ、言葉を投げ続けた手だ。
暗い部屋の中で、私はようやく、この事件の本当の形を見た気がした。
そして同時に、この人が根本のところで間違っていることにも、気がついた。
「ブライアン様。あなた、大きな思い違いをしていらっしゃいますわ」
「なに?」
「クリスは、あなたを陥れてなどおりません」
彼が、暗闇の中で顔を上げた気配がした。
「あの子は、あなたに三年間、手紙を書き続けた子ですのよ。その子が、あなたを退学させて、家名を奪って、お兄様と同じ目に遭わせる? ……そんな筋書きを、あの子が望むとお思いですか」
「だが、教官室から紙を」
「紙を持ち出したのは、あの子でしょう。それは、たぶん本当ですわ」
私は、指を折った。
「けれど、あの答案の細工には、三つの条件が要ります。ひとつ、あなたの筆跡を完璧に真似られること。ふたつ、古いインクが残っている場所を使えること。……そしてみっつ」
私は、彼の目を見た。
「答案が提出された後に、答案に触れられること」
暗闇の中で、彼が息を呑んだ。
「クリスは、あの日、私たちと同じ教室で試験を受けておりました。答案を出して、教室を出て、廊下で私とすれ違った。……提出された答案の束に、あの子が触れる機会は、一度もありませんのよ」
「……では、あの子は」
「紙を一枚、盗んだだけ。……しかも、たぶん」
私は、そこで言葉を選んだ。
「あなたを、守るつもりで」
「守る?」
「ええ。詳しくは、私にもまだわかりません。でも、あの子はあなたを陥れるどころか、あなたのために何かをしたつもりでいる。……その盗んだ紙が、あなたを陥れる凶器に使われたことを、あの子自身、まだ気づいていないかもしれませんわ」
暗闇の中で、ブライアン様が、身じろぎもしなくなった。
「クリスは、実行犯ですらありませんわ。あの子は、いいように使われただけ」
やがて、彼は、片眼鏡を外して、机の上に置いた。
指で、目頭を強く押さえる。その手が、震えていた。
「……私は」
「ええ」
「私は、あの子を守るつもりで、あの子が犯人だと決めつけていたのか」
その声は、この夜、彼が初めて漏らした本当の悲鳴だった。
——ああ、ほんとうに。
この二人は、よく似ている。
黙って、一人で背負って、それを愛情だと思い込む。誰にも訊かない。訊けば、答えが返ってきてしまうから。
そして二人とも、その隙間に、まったく別の誰かが手を突っ込んでいることに、気づいてもいない。
「——ブライアン様」
私は、暗闇の中で立ち上がった。
「明日の審問会、私も出席いたします」
「やめろ。君まで巻き込まれる」
「巻き込まれますわよ。友人ですもの」
私は、窓辺に立って、月明かりの下で振り返った。
「それに、私、この件で一番腹が立っているのは、クリスにではありません」
「では、誰に」
「あの子に紙を盗ませて、自分の手は汚さなかった人にですわ」
十二歳の女の子が、一人でこんなことを思いつくものですか。
教官室にしかない、白紙の答案用紙。他人の筆跡の完璧な模写。古いインクの残っている場所。提出後の答案に触れられる立場。試験の三日前という、寸分の狂いもない日程。
そのうえ、万一露見しても、教官室から紙を盗んだ娘がひとり、証拠つきで残るように仕組んである。
——これは、玄人の仕事よ。
そして玄人は、絶対に、自分では紙に触らない。
廊下に出て、私はマリーを呼んだ。
「マリー。ここ数ヶ月のあいだに、クリスに近づいた上級生を、全員洗ってちょうだい」
「全員、でございますか」
「ええ。お茶に誘った人。手紙を出した人。廊下で声をかけた人。……あの子が『可哀想に』と言われた回数を、全部よ」
マリーは、深く一礼して、闇の中へ消えていった。
その夜、私は妙に疲れて、夕食に手をつけられなかった。
……たかが、扉を一枚こじ開けただけよ?
そして夜明け前。
私の机に置かれた紙には、名前がひとつしか、書かれていなかった。




