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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第18話】二番は、死と同じ

首席の発表から三日後の夕方、私は図書館でブライアン様を見つけた。


いつもの窓際の席。開かれた本。片眼鏡。


——ただし、彼はページを一枚もめくっていなかった。


私が向かいに座っても、気づかない。三十秒待って、私は言った。


「ブライアン様。その本、逆さまですわよ」


彼はびくりとして、本を落とした。


逆さまではなかった。ただの嘘だ。でも、彼が本を読んでいなかったことは、これで証明できたわけね。


「……趣味の悪い確認だな」


「ええ。性格が悪いもので。……何があったんですの?」


ブライアン様は、答えなかった。


代わりに、机の上に一通の手紙を置いた。封蝋はシリル侯爵家の紋章。


「読んでも?」


彼は、無言で顎を引いた。


短い手紙だった。三行しかなかった。


『首席の報、受け取った。

当然のことをしたまでだ。喜ぶには値しない。

次も首席であれ。二番は、死と同じだ。』


私は、二度読んだ。


祝いの言葉が、ひとつもなかった。


「……これ、お父上ですの」


「ああ」


「他には? もっと長い手紙が、別に届いているのでは」


「これで全部だ」


私は、手紙をそっと机に戻した。


「昔からだ。慣れている」


——慣れている。


その言葉を、私はこの学院で、もう二度聞いた。


一度目は、家で殴られることを笑い話にしたディーン様。二度目は、人に避けられることを当たり前だと言ったアッシュ様。


そして三度目は、たぶん、私が言う番なのだと思う。


ブライアン様は、片眼鏡を外して目頭を押さえた。この人の素顔を見たのは、初めてだった。


「シリル家は代々、王国の文官の長を出してきた。父も、祖父も、曾祖父も、学院を首席で出た。……私の兄は、首席を取れなかった」


「お兄様が?」


「三年前、次席で卒業した。父はその日、兄の名を家系図から削った。今、兄がどこで何をしているのか、私は知らない」


背筋が、冷たくなった。


「以来、私は一度も二番を取っていない。取れないんだ。取ったら、私も消える」


彼は、乾いた声で笑った。


「笑えるだろう。演習の三日間、私は生まれて初めて『負けても構わない』と思いながら戦った。君の隣にいると、そうなれた。……あの三日間だけだ。あんな気分だったのは」


私は、しばらく黙っていた。


前世の私は、こういう時に何と言えばいいかを、知らない。


上司に怒鳴られて泣いていた後輩に、私は何と言った? 「大丈夫、みんな通る道だよ」と言った。あれは、何の意味もない言葉だった。


だから今度は、違うことを言おうと思った。


「ブライアン様。ひとつ、確認させてくださいませ」


「なんだ」


「あなたが首席を取り続ける目的は、なんですの?」


「……家名を守るためだ」


「違いますわ」


私は、まっすぐ彼を見た。


「あなたは、消えないために取っているんです。褒められるためでも、誇るためでもない。ただ、家系図から名前を削られないために」


ブライアン様の顔から、表情が抜けた。


「それは目的ではありません。ただの、恐怖ですわ」


「……」


「私、恐怖で人を動かす人を知っています。八年間、そういう人の屋敷で暮らしましたの。あの人はいつも言いました。目立つな、口答えするな、家名を落とすな。……その言葉に、一度も『お前が大事だから』は、含まれていませんでした」


図書館の窓から、夕陽が差し込んでいた。埃がきらきらと舞っていた。


「あなたのお父上の手紙にも、含まれていませんわね」


ブライアン様は、机の上で両手を組んで、その手をじっと見ていた。


長い沈黙のあと、彼はぽつりと言った。


「……エミリア。私は、次の学期も首席を取る」


「ええ」


「だが、それは父のためではない。……あの三日間の続きを、まだ見たいからだ」


彼は顔を上げた。目が赤かったけれど、涙は流れていなかった。この人は、たぶん一生、人前で泣かない人だ。


「君の隣で戦うと、勝ち方が変わる。負ける可能性を数えるのではなく、勝ち筋を数えることになる。……そんな戦い方があると、私は十二年間、知らなかった」


「あら。それは光栄ですわ」


「だから、次も勝つ。父のためではなく、私のために」


私は、にっこり笑った。


「なら、私も本気で取りに行きますわね。今回は一問差でしたもの」


「望むところだ」


彼が初めて、勝負を挑まれた者の顔で笑った。


図書館を出る時、ブライアン様が背中越しに言った。


「エミリア。ひとつ言い忘れた」


「はい?」


「今日、君に手紙を見せたのは、同情してほしかったからではない」


「存じておりますわ」


「……そうか」


「あなたは、誰かに一度だけ、あの手紙を見てほしかったんですわ。『これはおかしい』と言ってくれる人に」


彼は、しばらく立ち止まっていた。


そして、こちらを振り返らないまま、小さく言った。


「……ありがとう」


***


その夜、クリスは寮の自室で、上級生からの二通目の手紙を開いていた。


『可哀想なクリス。


ブライアン様が、あの女と図書館で二人きりでいるのを、幾人もが見ておりますわ。


それに、こんな噂もございますのよ。


フォックス伯爵領の街道の魔力灯が、この数ヶ月で半分も消えているとか。伯爵様が夜会をお断りになる回数も、めっきり増えたそうですわね。


……お家は、大丈夫ですの?


家も、名も、想い人も。あなたには何ひとつ残らないかもしれないわね。


——ですから、教えて差し上げます。


女を潰すのに、命を奪う必要などありませんのよ。


名を奪えばよろしいの。


夜、殿方と二人きりでいたことにしてしまえば、それで済みますわ。


誰かに見せる必要さえない。「見た」という人間を、三人こしらえればよいのです。


貴族の娘にとって、事実など何の値打ちもありません。噂こそが事実ですもの。


傷物という言葉が一度でも貼りついた娘は、二度と社交界に出られません。学院にも、いられなくなる。


そして考えてもごらんなさい。


あの潔癖なブライアン様が、汚れたと囁かれる女に、その後も見向きなさると思って?


あの方は、目も合わせなくなりますわ。


天使の顔をしたあの女が、廊下で誰にも見てもらえなくなる日を、想像してごらんなさいな。


楽しいでしょう?』


クリスは、手紙を取り落とした。


寝台に座ったまま、しばらく動けなかった。


——それは、いけない。


いくらなんでも、それは、いけない。


エミリアは憎い。憎くて憎くて、髪を掴んで叫んでやりたい。あの女さえいなければ、と何百回思ったか知れない。


けれど。


けれど、あの女がこれからされようとしていることは、あの女が八年間、地下でされ続けてきたことと、何も変わらない。——そしてその八年間、見て見ぬふりをしてきたのは、他でもない私自身だ。


クリスは、震える手で手紙を握りつぶした。


そうして三日後、彼女のもとに、三通目の手紙が届いた。


『まあ、驚かせてしまいましたわね。


冗談ですわ。あなたはお優しいから、あんなことはできませんでしょう。忘れてくださいまし。


……でも、ひとつだけ、あなたに教えておきたいことがありますの。


ブライアン様のことですわ。


ご存じ? あの方のお父様は、二番を取れば家系図から名を削るお方だそうですわ。お兄様が、そうして家を追われたと聞きます。


そして今、あの女——エミリア・フォックスが、猛烈な勢いで成績を上げておりますでしょう。次の試験で、あの方から首席を奪うのは、時間の問題ですわ。


首席を失ったブライアン様が、どうなるか。……お優しいあなたなら、想像がつきましょう?


でもね、クリス。ご安心なさい。わたくし、あの方をお守りする方法を、知っておりますの。


試験の採点に使う、教官用の正答表がございます。あれを、わたくしが写して差し上げますわ。


写したものが、あの方のお手元に届く道筋も、こちらで整えます。あの方は何もご存じないまま、首席のまま。お父様のお怒りに触れることもない。


誰も傷つきません。あの方は、守られるだけ。


——ただ、ひとつだけ、困ったことがございますの。


写すには、紙が要りますでしょう? それも、そのへんの紙では駄目ですのよ。


教官の書式で刷られた紙——白紙の答案用紙でなければ、教官室のものとして通りませんの。よそから持ち込んだ紙では、一目で偽物と知れてしまいますわ。


けれど、わたくしは三年生。一年生の答案を扱う教官室には、近づく口実がございませんの。


あなたなら、掃除当番を装って入れるでしょう?


白紙の答案用紙を、一枚。


たった一枚ですわ。


……何に使うのか、などとお考えにならないで。ご存じないほうが、あなたのためですのよ。あなたは、ただ紙を一枚お運びになるだけ。手を汚すのは、わたくしですわ。


——あなたの手で、あの方をお救いになるのですわ』


クリスは、その手紙を、長いこと見つめていた。


あの方を、守れる。


わたくしの手で。


三年間、返事の一通も来なかった。それでも書き続けたのは、あの方に何かをして差し上げたかったからだ。役に立ちたかったからだ。


その機会が、今、目の前にある。


——たった、紙を一枚。


字の一文字も書かれていない、白い紙を、一枚。


……何に、使うのだろう。


その問いは、たしかに一度、頭をよぎった。


けれど彼女は、それを口にしなかった。手紙にも書かなかった。


訊いてはいけない気がしたのだ。訊いてしまえば、答えが返ってきてしまう。そして、その答え次第では、この手が止まってしまう。


だから、訊かなかった。


彼女は、握りつぶした二通目の紙のことも、あえて思い出さないようにした。


先に、あんなに恐ろしいものを見せられたから。


そのあとで差し出された「あの方を守る紙」が、まるで、光のように見えた。


その夜、クリスは生まれて初めて、自分から返事を書いた。


『わかりました。あの方のためなら』と。

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