【第17話】前世式・一夜漬け講座
対抗試合の翌週から、私の机の中身が、ときどき消えるようになった。
最初は羽根ペン。次にインク壺。三日目には、教科書が一冊まるごと。
四日目、朝の教室に入ると、私の椅子だけが窓の外に出ていた。花壇の真ん中に、ぽつんと。
犯人は、聞くまでもない。
その日、廊下ですれ違ったクリスは、初めて私と目を合わせた。そして、勝ち誇るでもなく、怯えるでもなく——ただ、じっと睨みつけてきた。
「なんですの、その顔」
「……あなた、恥ずかしくないの」
彼女の声は、震えていた。
「男の方を四人も侍らせて。ディーン様も、アッシュ様も、ブライアン様も、あまつさえ王子殿下まで。……はしたないとは思わないの」
ああ、そういうこと。
思っていたより、この子の傷はずっと深いのね。
「クリス様。私、あの方々を侍らせてなどおりませんわ」
「毎日、昼食をご一緒しているじゃない!」
「あちらが勝手に座るんですのよ。追い払ってもよろしいのなら、そうしますけれど」
これは本心だったのだけれど、言った瞬間、クリスの顔がくしゃりと歪んだ。
「……追い払える立場の人間が、そういうことを言うのね」
その一言に、私は返す言葉を失った。
彼女は、踵を返して行ってしまった。
「マリー。私、余計なことを言ったかしら」
その夜、寮の部屋で私は珍しく落ち込んでいた。
「お嬢様が悪いのではありません。……ただ」
マリーは、言いにくそうに口を開いた。
「クリス様は、ブライアン様に、三年前からお手紙を書いておられるそうです」
「三年前?」
「一度も、お返事はいただけていないと」
私は、羽根ペンを置いた。
つまり、こういうことか。
三年間手紙を書き続けて一度も返事をもらえない相手が、ある日、入学したての従姉妹の隣で、当たり前のように本を読んでいる。
それを毎日、食堂の端から見ている。
「……私だったら、椅子を窓から捨てるだけじゃ済まないわね」
「お嬢様!?」
「冗談よ。半分ね」
でも、と私は思う。
嫌がらせをされて、腹が立たないわけじゃない。教科書は買い直しよ。椅子は泥だらけ。羽根ペンは、マリーが選んでくれたお気に入りだった。
それでも私は、ブライアン様に「クリス様に返事を書いて差し上げたら」とは、絶対に言わない。
そんな親切、いちばん残酷ですもの。
——そういえば。
今日クリスに突きつけられた顔ぶれの中に、王子殿下まで入っていたっけ。
「マリー。ひとつ、教えてほしいのだけれど」
「はい」
「ロブ殿下の母君——寵姫様のご実家って、どちらのお家?」
学院一の情報網を持つ女が、初めて答えに詰まった。
「……存じません」
「え?」
「調べようとしたことは、あります。何度も。……どこにも、書かれていないのです」
マリーは、自分でも腑に落ちない、という顔をしていた。
「王家に上がられた方の、ご実家ですのよ。家名くらい、どこかに一行は残っていて当然でしょう」
「ええ。……残っていないほうが、おかしいのです」
……まあ、いいわ。
私は、その違和感を、頭の隅の埃っぽい棚に押し込んだ。
——ちなみに、翌朝。
私の机の中に、羽根ペンが三本、こっそり返してあった。
一本は折れていた。折れた一本を戻す人間の心を思うと、なんだか胸のあたりが妙にざらついた。
そんな騒ぎの最中、学院にはもっと大きな地獄がやってきた。
前期の定期テストである。
「五日間で、九科目。魔術理論、魔術実技、古代語、王国史、法学、算術、地理、礼法、剣術理論。……鬼ですわね」
寮の談話室で、私は配られた日程表を睨んでいた。
窓の外はいい天気。廊下の向こうからは、絶望した一年生のうめき声。学院の廊下って、テスト前は前世の局の編集室と同じ匂いがするのね。締切前の、あの、ぬるい絶望の匂い。
「エミリアさまぁ……わたし、古代語がぜんぜんわからないんです……」
ソフィアが、机に突っ伏していた。目の下に隈がある。この子、根が真面目だから、たぶん徹夜している。
「ソフィア。ちょっと見せて」
彼女のノートを覗いて、私は納得した。
びっしり。びっしりと、教科書が丸写しされている。三色のインクで、几帳面に。
「あなた、これを作るのに何時間かけましたの?」
「え、ええと、三十時間くらい……?」
「で、覚えてます?」
「…………」
ソフィアの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
ああ、いるいる。前世の新人にも、必ず一人はいたわ。議事録を完璧に清書して、内容を何ひとつ覚えていない子。
「ソフィア。あなたのノートは、とても美しいですわ。でも、これは『作る作業』であって、『覚える作業』ではありません」
「じゃあ、どうすれば……」
「ちょうどいいわ。誰か、机を運んでちょうだい!」
私は談話室の真ん中に立って、大声を出した。
「エミリア・フォックス、これより緊急対策会議を開きます! 参加自由! 参加費は無料! ただし、私の言うことを疑わずに三日間やった人だけ、成績が上がりますわ!」
集まってきた顔ぶれを前に、私は腕まくりをした。
前世で私は、大学四年間をドラマ視聴に費やした。
にもかかわらず、それなりの大学を出て、倍率の高いテレビ局に入った。
なぜか。
——私は、試験を「攻略」するのが得意だったのよ。
「まず、ノートを閉じなさい」
集まった十数人の一年生が、ぽかんとした。
「テスト勉強で一番やってはいけないのが、『きれいに書き写す』ことです。あれは手が疲れるだけで、頭は一切働いていません。……いい? 覚えるという作業は、『入れる』ことじゃなくて『出す』ことなの」
私は黒板に、大きく三つ書いた。
一、教科書を閉じて、思い出せることを紙に書き出す。
二、思い出せなかったところにだけ、印をつける。
三、印のところだけ、教科書を開く。
「以上。これを三回繰り返せば、九科目が三日で終わります」
「そ、そんな乱暴な!」
「乱暴ですわよ。でも考えてみて。あなたが試験で困るのは、『覚えたはずなのに思い出せない』時でしょう。だったら練習すべきなのは、覚える練習ではなく、思い出す練習ですわ」
しんとした。
それから、ざわっとした。
「……理屈は、通っている」
いつのまにか談話室の入り口に立っていたブライアン様が、そう呟いた。
「あら、首席候補さんがこんなところに」
「エミリア。君は、その方法をどこで習った」
「……昔いたところで、自分で見つけましたの」
締切前の三日間で、七十ページの構成台本を頭に叩き込む方法。誰も教えてくれなかったから、自分で編み出した。
「もうひとつコツがありますわ。ソフィア、古代語の動詞の活用、覚えられない?」
「はい、まったく……」
「では、歌いなさい」
「え?」
「節をつけて、歌うの。子供の頃に覚えた童謡って、今でも歌えるでしょう? 人間の頭は、意味より音とリズムを先に覚えるようにできてますのよ」
私は、談話室の真ん中で、古代語の動詞活用を適当な節に乗せて歌ってみせた。前世の受験生が元素記号を歌で覚えるのと、まったく同じ理屈よ。
一年生たちが、恐る恐る続いた。
十数人の貴族の子女が、真剣な顔で古代語を輪唱している。異様な光景だわ。
その真ん中で、私はふと、大声を出しているディーン様に気がついた。
彼は、一番大きな声で歌っていた。
そして、たった三回で、完璧に暗唱した。
対策会議が三日目に入った夜のこと。
私はブライアン様と二人、談話室の隅で王国史の教科書を広げていた。範囲は——よりにもよって、「傾国の三美姫」。
ええ。私のご先祖様よ。テストに自分の家の話が出るって、どんな気分だと思います?
「三人とも、フォックス家の娘だ。そしてそれぞれの時代に、それぞれ戦争が起きている」
「存じておりますわ。おかげで私、入学初日から『性悪女狐』と呼ばれておりますもの」
私は、ページを指でなぞって、ふと手を止めた。
「……ブライアン様。この方たち、結局、何をしましたの?」
「何を、とは」
「戦争のきっかけを作った、と書いてありますでしょう。何をして、きっかけになりましたの。どこかの王を誑かしたとか、どなたかに嫁いだとか、そういうことが、どこにも」
ブライアン様は、ページをめくった。
めくって、めくって、それから、片眼鏡を外した。
「……書いていないな」
三人の名前と、三つの戦争の年号。それだけ。
罪状のない有罪判決を、私は生まれて初めて見たわ。
そして、三人目の美姫の項に、私の祖母の名があった。
生年と、没年。
指で引き算をして、私は手を止めた。
……三十一。
「若いのね」
思わず、口からこぼれた。
ブライアン様が、何か言いかけて、やめた。
その夜の勉強は、そこで切り上げた。
そうして迎えた五日間は、あっという間に過ぎていった。
五日間が終わって、私は寮で二日、眠り続けた。
前世は三徹で企画書を三本書いた女よ。たかが筆記試験の五日間で、どうして丸二日も潰れるの。
……この身体、どうなっているのかしら。
テストの結果は、翌週、掲示板に貼り出された。
一位、ブライアン・シリル。
二位、ロブ・フェンリール。
三位、エミリア・フォックス。
「……惜しい」
「本当に惜しかった。一問差だ」
ブライアン様が、初めて私に向かって、ほんの少しだけ得意そうな顔をした。この人がこんな顔をするなんて。
「殿下も、二位ですのね。ご立派ですわ」
私が振り返ると、ロブ王子は掲示板を見上げたまま、静かな声で言った。
「……ああ。二位だ」
その横顔が、なぜか少しだけ寂しそうだったのを、私は覚えている。
——そういえば、この人の名前は、いつも一位のすぐ下にあるわね。剣術も、魔術理論も、判で押したように。
偶然にしては、ずいぶん行儀のいい成績だこと。
それから、掲示板の下の方に目を走らせて、私は「あら!」と声を上げた。
「ソフィア! 三十四位ですわよ!」
「ふぁ……ふぁい……」
ソフィアは、掲示板の前で腰を抜かして泣いていた。
無理もないわ。この子、入学の時の試験は、下から数えたほうが早かったんですもの。学院に受かったこと自体が奇跡だと、本人が言っていた。
それが、初めての定期テストで、いきなり真ん中より上。
そしてもう一つ。
私が思わず二度見したのは、剣術理論と古代語の科目別順位だった。
古代語。ディーン・ダッシュ、十二位。
彼は、答案用紙の文字を読むのに人の三倍時間がかかる。それでも、あの日、歌で覚えた活用形だけは、全部書けたのだ。
「エミリアさまさまだな!」
得意げに胸を張るディーン様の背中を、ブライアン様が「調子に乗るな」と叩いていた。
——そんな平和な光景の隅で、掲示板の一番上、「一位 ブライアン・シリル」の文字を、じっと睨んでいる令嬢がいたことに。
私は、まだ気づいていなかった。
クリスは、その日、寮の自室で一通の手紙を受け取っていた。
差出人の名は、上級生。王妃の実家に連なる、伯爵家の令嬢。
『可哀想なクリス。あなたの想い人が、あの女に取られてしまうわね。
——手伝ってさしあげましょうか?』




