【第16話】兄上は、いつも正しい
対抗試合の日、俺は観客席の後ろのほうで、あの騒がしい連中に混ざって座っていた。
第二王子が、貴賓席ではなく一般席で、下級貴族の娘と一緒に友人の名を叫んでいる。従者が青い顔をしていたが、知ったことか。
ディーンが勝った瞬間、隣で、エミリアが両手を握りしめて小さく飛び跳ねた。
——この女は、たぶん自分では気づいていない。
作戦だの企画だのと嘯きながら、この女は、人の心の一番柔らかい場所に、正確に触れていく。ディーンを説得したわけでも、発破をかけたわけでもない。ただ、あいつが「自分は無能だ」と思い込んでいた場所に、「お前は、世界の見え方が違うだけだ」という新しい言葉を、そっと一つ置いただけだ。
たったそれだけで、三年間決勝で負け続けた男が勝った。
俺は、この女が怖い。
もう少し正確に言えば——この女が、いつか俺の一番柔らかい場所にも触れてくるのが、怖い。
そんなことを考えていたからだろうか。
その夜、王城から迎えの馬車が来た時、俺は不思議と驚かなかった。
「王太子殿下がお呼びでございます」
兄上の私室は、王城で最も日当たりのいい部屋だ。俺の部屋は北向きで、冬は氷が張る。誰も何も言わないが、そういうことだ。
「よく来たな、ロブ」
兄上——王太子ルーカス・フェンリールは、書類から顔も上げずにそう言った。
金髪に、青い目。母上譲りの、絵に描いたような王族の色。銀髪に金の目という、始祖の血が濃く出すぎた俺とは似ても似つかない。
学問、剣術、政務、社交。すべてにおいて兄上は優秀で、公正で、非の打ちどころがない。俺は兄上を憎んだことがない。憎めるような隙が、どこにもないのだ。
「入学以来の成績を見た。演習も、剣術も、魔術理論も。……相変わらず、ほどよく抑えているな」
「はい」
「お前の実力なら、そのどれも、一番を取れたはずだ」
俺は黙っていた。
兄上は書類を置いて、初めて俺を見た。
「よくやった。その調子で頼む」
——ああ。
これだ。
俺が一番を取らなかったことを、兄上は褒めている。
「兄上」
「なんだ」
「私が、本気で一番を取りにいったら、どうなさいますか」
兄上は、少しだけ困ったような顔をした。俺が知る限り、この人が一番人間らしく見える瞬間の顔だ。
「……母上が、お前を警戒なさる。母上が警戒すれば、母上の実家が動く。動けば、お前の母君の身が危うくなる」
「では、私が無能でいることが、母の安全ですか」
「そうだ」
即答だった。残酷なほど正確で、誠実な答えだった。
「ロブ。私はお前を弟として愛している。だからこそ、お前には目立ってほしくない。この城で、寵姫の子が優秀であることほど危険なことはない。——お前も、もう十二だ。わかるだろう」
わかる。ずっと、わかっていた。
十二年間、俺は兄上の言う通りにしてきた。剣術の試合はほどよく負け、成績は二位か三位に調整し、夜会では兄上より早く退出した。
そのおかげで、母は今も生きている。
「……ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「言ってみろ」
「フォックス伯爵家のエミリア嬢のことです」
兄上の手が、止まった。
部屋の空気が、はっきりと変わった。
「彼女は、お前のなんだ」
「学院で、同じ学年です。友人でもあります」
「やめておけ」
一切の温度がない声だった。
「彼女に近づくな。それは弟への忠告ではない。王太子としての命令だ」
「理由をお聞かせください」
「知る必要はない」
「兄上」
俺は、生まれて初めて、兄上の言葉に食い下がった。
自分でも驚いた。声が震えていなかった。
「私は十二年間、兄上の仰る通りに、目立たず、勝たず、望まずに生きてきました。一度も理由を尋ねたことはありません。……ですが、これだけは教えてください。なぜ、彼女なのですか」
長い沈黙があった。
やがて兄上は、深く息を吐いて、窓の外を見た。
「……あの娘は、駒として強すぎるんだ」
「駒?」
「フォックス家の加護持ちの娘は、二百年、王家がその身柄を管理してきた。誰の手にも渡らぬように、王家が抱え込んできた。……だが今、母上の実家は、あの娘を王家の外へ出そうとしている。自分たちの息のかかった家に嫁がせるためにな」
背筋が冷たくなった。
「そして父上は、あの娘を隣国への外交の切り札にしたがっている」
「彼女は、十二歳です」
「駒に年齢は関係ない」
兄上は、静かに言った。
「ロブ。お前があの娘に近づけば、寵姫派があの娘を担ごうとしていると見なされる。そうなればあの娘は、政争の中心に引きずり出される。……お前は、彼女を守るつもりで、彼女を殺すことになる」
俺は、何も言い返せなかった。
「わかったな。近づくな」
「……はい」
俺は頭を下げて、部屋を出た。
北向きの自室に戻って、灯りもつけずに座り込んだ。
——ひとつだけ、妙だと思ったことがある。
兄上は最後まで、あの娘の呪いのことを口にしなかった。
駒として強すぎる、と言いながら。その駒が十二の歳に、王城の広間で何をされたかには、一言も触れない。
触れないのではない。たぶん、知らされていないのだ。
王太子ですら。
兄上は正しい。いつも正しい。あの人が理不尽を言ったことは、生涯に一度もない。
だから俺は、いつも従ってきた。
——なあ、エマ。
俺は、あの森の夜を思い出していた。
粘着液まみれで穴の底に座り込んでいた俺に、あの平凡な赤毛のメイドは、まっすぐ手を差し出した。
俺が王子だと知らずに。俺が何の役に立つかも知らずに。ただ、目の前で困っている人間がいたから。
『ほら、掴まって』
あの手を、俺は掴んでしまった。
「……近づくな、か」
俺は、暗闇の中でひとりごちた。
兄上、ひとつだけ申し上げます。
あなたはいつも正しい。
けれど、正しさで人を救えるなら、この城の誰も、こんなに息を殺して生きてはいないでしょう。
答えの出ないまま、朝が来た。
学院に戻り、いつもの食堂へ足を向ける。
「殿下。また隣に座るんですの?」
トレイを持ったエミリアが、心底うんざりした顔で俺を見上げた。
その顔があまりにいつも通りだったので、俺は思わず笑ってしまった。
「ああ。ここが一番、居心地がいい」
「王子の居心地の基準が、庶民的すぎませんこと?」
「知らないのか。狼は、群れが好きなんだ」
彼女は「意味がわかりませんわ」と言って、隣に座った。
——兄上。
私は、あなたに逆らうつもりはありません。
ただ、この席だけは、譲るつもりもないのです。




