表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/50

【第16話】兄上は、いつも正しい

対抗試合の日、俺は観客席の後ろのほうで、あの騒がしい連中に混ざって座っていた。


第二王子が、貴賓席ではなく一般席で、下級貴族の娘と一緒に友人の名を叫んでいる。従者が青い顔をしていたが、知ったことか。


ディーンが勝った瞬間、隣で、エミリアが両手を握りしめて小さく飛び跳ねた。


——この女は、たぶん自分では気づいていない。


作戦だの企画だのと嘯きながら、この女は、人の心の一番柔らかい場所に、正確に触れていく。ディーンを説得したわけでも、発破をかけたわけでもない。ただ、あいつが「自分は無能だ」と思い込んでいた場所に、「お前は、世界の見え方が違うだけだ」という新しい言葉を、そっと一つ置いただけだ。


たったそれだけで、三年間決勝で負け続けた男が勝った。


俺は、この女が怖い。


もう少し正確に言えば——この女が、いつか俺の一番柔らかい場所にも触れてくるのが、怖い。


そんなことを考えていたからだろうか。


その夜、王城から迎えの馬車が来た時、俺は不思議と驚かなかった。


「王太子殿下がお呼びでございます」


兄上の私室は、王城で最も日当たりのいい部屋だ。俺の部屋は北向きで、冬は氷が張る。誰も何も言わないが、そういうことだ。


「よく来たな、ロブ」


兄上——王太子ルーカス・フェンリールは、書類から顔も上げずにそう言った。


金髪に、青い目。母上譲りの、絵に描いたような王族の色。銀髪に金の目という、始祖の血が濃く出すぎた俺とは似ても似つかない。


学問、剣術、政務、社交。すべてにおいて兄上は優秀で、公正で、非の打ちどころがない。俺は兄上を憎んだことがない。憎めるような隙が、どこにもないのだ。


「入学以来の成績を見た。演習も、剣術も、魔術理論も。……相変わらず、ほどよく抑えているな」


「はい」


「お前の実力なら、そのどれも、一番を取れたはずだ」


俺は黙っていた。


兄上は書類を置いて、初めて俺を見た。


「よくやった。その調子で頼む」


——ああ。


これだ。


俺が一番を取らなかったことを、兄上は褒めている。


「兄上」


「なんだ」


「私が、本気で一番を取りにいったら、どうなさいますか」


兄上は、少しだけ困ったような顔をした。俺が知る限り、この人が一番人間らしく見える瞬間の顔だ。


「……母上が、お前を警戒なさる。母上が警戒すれば、母上の実家が動く。動けば、お前の母君の身が危うくなる」


「では、私が無能でいることが、母の安全ですか」


「そうだ」


即答だった。残酷なほど正確で、誠実な答えだった。


「ロブ。私はお前を弟として愛している。だからこそ、お前には目立ってほしくない。この城で、寵姫の子が優秀であることほど危険なことはない。——お前も、もう十二だ。わかるだろう」


わかる。ずっと、わかっていた。


十二年間、俺は兄上の言う通りにしてきた。剣術の試合はほどよく負け、成績は二位か三位に調整し、夜会では兄上より早く退出した。


そのおかげで、母は今も生きている。


「……ひとつ、伺ってもよろしいですか」


「言ってみろ」


「フォックス伯爵家のエミリア嬢のことです」


兄上の手が、止まった。


部屋の空気が、はっきりと変わった。


「彼女は、お前のなんだ」


「学院で、同じ学年です。友人でもあります」


「やめておけ」


一切の温度がない声だった。


「彼女に近づくな。それは弟への忠告ではない。王太子としての命令だ」


「理由をお聞かせください」


「知る必要はない」


「兄上」


俺は、生まれて初めて、兄上の言葉に食い下がった。


自分でも驚いた。声が震えていなかった。


「私は十二年間、兄上の仰る通りに、目立たず、勝たず、望まずに生きてきました。一度も理由を尋ねたことはありません。……ですが、これだけは教えてください。なぜ、彼女なのですか」


長い沈黙があった。


やがて兄上は、深く息を吐いて、窓の外を見た。


「……あの娘は、駒として強すぎるんだ」


「駒?」


「フォックス家の加護持ちの娘は、二百年、王家がその身柄を管理してきた。誰の手にも渡らぬように、王家が抱え込んできた。……だが今、母上の実家は、あの娘を王家の外へ出そうとしている。自分たちの息のかかった家に嫁がせるためにな」


背筋が冷たくなった。


「そして父上は、あの娘を隣国への外交の切り札にしたがっている」


「彼女は、十二歳です」


「駒に年齢は関係ない」


兄上は、静かに言った。


「ロブ。お前があの娘に近づけば、寵姫派があの娘を担ごうとしていると見なされる。そうなればあの娘は、政争の中心に引きずり出される。……お前は、彼女を守るつもりで、彼女を殺すことになる」


俺は、何も言い返せなかった。


「わかったな。近づくな」


「……はい」


俺は頭を下げて、部屋を出た。


北向きの自室に戻って、灯りもつけずに座り込んだ。


——ひとつだけ、妙だと思ったことがある。


兄上は最後まで、あの娘の呪いのことを口にしなかった。


駒として強すぎる、と言いながら。その駒が十二の歳に、王城の広間で何をされたかには、一言も触れない。


触れないのではない。たぶん、知らされていないのだ。


王太子ですら。


兄上は正しい。いつも正しい。あの人が理不尽を言ったことは、生涯に一度もない。


だから俺は、いつも従ってきた。


——なあ、エマ。


俺は、あの森の夜を思い出していた。


粘着液まみれで穴の底に座り込んでいた俺に、あの平凡な赤毛のメイドは、まっすぐ手を差し出した。


俺が王子だと知らずに。俺が何の役に立つかも知らずに。ただ、目の前で困っている人間がいたから。


『ほら、掴まって』


あの手を、俺は掴んでしまった。


「……近づくな、か」


俺は、暗闇の中でひとりごちた。


兄上、ひとつだけ申し上げます。


あなたはいつも正しい。


けれど、正しさで人を救えるなら、この城の誰も、こんなに息を殺して生きてはいないでしょう。


答えの出ないまま、朝が来た。


学院に戻り、いつもの食堂へ足を向ける。


「殿下。また隣に座るんですの?」


トレイを持ったエミリアが、心底うんざりした顔で俺を見上げた。


その顔があまりにいつも通りだったので、俺は思わず笑ってしまった。


「ああ。ここが一番、居心地がいい」


「王子の居心地の基準が、庶民的すぎませんこと?」


「知らないのか。狼は、群れが好きなんだ」


彼女は「意味がわかりませんわ」と言って、隣に座った。


——兄上。


私は、あなたに逆らうつもりはありません。


ただ、この席だけは、譲るつもりもないのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ