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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第15話】ダッシュ家の、三男坊

初夏の学院に、対抗試合の季節が来た。


年に一度、全学年から選ばれた剣士が総当たりで戦う、学院最大の行事のひとつ。上級生も含めた三十二人のトーナメントで、優勝者は「学院の剣」の称号を得る。


一年生からは、二人だけが選ばれた。テオドール様と、ディーン様。


「うおおおおお! 見てろよエミリア、俺が優勝したら、お前に一番でかい肉を奢ってやる!」


「ご褒美が肉なの、あなたらしくて好きですわ」


観客席は満員だった。貴族の親たちが遠方から見に来る。それもそのはず、この試合の成績は、四年目のクラス分けを左右する。騎士クラスに進みたい者にとっては、人生がかかっているのだ。


そして、その満員の観客席の最前列に、ディーン様は顔をこわばらせていた。


「……ディーン様?」


「あ? ああ、なんでもねえよ」


なんでもない、という顔じゃない。あの人の顔から表情が抜けるのを、私は初めて見た。


視線の先を追う。最前列に、ディーン様とよく似た赤茶の髪の、上等な服を着た男が二人。片方は三十がらみ、片方は二十歳そこそこ。


隣にいたブライアン様が、静かに言った。


「ダッシュ家の当主と、長男だ。……あいつの父と、兄」


「ご家族が応援に? いいことじゃありませんの」


「応援ではない」


ブライアン様は、片眼鏡の奥で目を細めた。


「ダッシュ家は代々、王国騎士団に将を出してきた武門だ。長男は既に騎士団の副長補佐。次男は宮廷魔術師。……そして三男のディーンは、剣以外、何ひとつできない」


「え?」


「文字を読むのが、極端に苦手なんだ」


心臓が、ひやりとした。


「幼い頃から、家庭教師が何人も匙を投げた。字が踊って見えるらしい。魔術理論も、歴史も、法学も、机の上の学問は全滅だ。あいつの父は、ディーンのことを『家の恥』と呼んでいる」


——文字が、踊って見える。


前世の私は、その言葉を知っていた。ディスレクシア。読み書き障害。知能とはまったく関係がなく、努力不足でもない、ただ脳の文字の処理が他の人と違うだけの特性。


私の同期のカメラマンにも一人いた。台本が読めない。でも一度耳で聞いた指示は、絶対に間違えない人だった。


そしてこの世界には、たぶん、その名前すらない。


「……ブライアン様。あなた、それをいつから知っていましたの」


「幼馴染だからな。……だが、私にはどうしてやることもできなかった」


ブライアン様は、最前列の二人を見つめたまま続けた。


「学院に入る前、王都では毎年、貴族の子弟だけが出る少年剣術大会がある。九つの歳から、十一の歳まで。あいつは三年とも出場した」


「結果は?」


「三年とも、決勝で負けた」


「三年連続で決勝?」


「勝ち上がる腕はある、ということだ」


ブライアン様は、静かに言った。


「そして三年とも、決勝の日にだけ、あの人が観客席に座っていた。……優勝すれば認めてやる、と毎年言うそうだ」


私は、息を呑んだ。


「今日が、四度目ですのね」


「そうだ。学院の対抗試合は初めてだが、あいつにとっては同じことだ。父の見ている決勝は、四度目になる」


私は、試合場のディーン様を見た。


さっきまで大声で笑っていた大型犬が、素振りをしながら、何度も最前列を盗み見ている。


——ああ、その顔。


私は知っているわ。プロデューサーが視察に来た日の、新人ADの顔よ。人は、「見られている」と意識した瞬間から、いちばん下手になるものなの。


そして、試合が始まった。


——一回戦の、別の組でのことだ。


剣を構えた上級生が、対峙している相手ではなく、なぜか観客席の——私のほうを見て、動きを止めた。審判に名を呼ばれて、やっと我に返る。


……あら、いけない。天使が客席にいると気が散るのかしら。


なんて軽口を心の中で叩いてみたけれど、その人は結局、一本も取れずに負けた。


私は、なんとなく、少しだけ後ろの席に下がった。


一回戦。ディーン様は勝った。でも、危なっかしい勝ち方だった。


二回戦。勝った。剣が届いていない。踏み込みが浅い。


準決勝。相手は三年生。ディーン様は明らかに劣勢に立たされ、それでも意地で押し返して、判定勝ち。


控え室に戻る彼の背中は、丸まっていた。


私は、控え室の扉を開けた。


「エミリア? なんだよ、女子は立ち入り禁止だぜ」


「あら。私が、そんなことを気にするとでも?」


「……はは。なんだそりゃ」


彼は笑おうとして、失敗した。


「なあ、エミリア。俺さ。剣しかねえんだよ」


床を見たまま、ディーン様は言った。


「字が読めねえの、知ってるだろ。ブライアンから聞いたんだろ。俺、バカなんだ。親父も兄貴もそう言う。だから剣で勝つしかねえのに、親父が見てると、なんでか、腕が」


言葉が途切れた。


「……九つの時も、十の時も、十一の時も。決勝までは、誰にも負けなかったんだぜ。ほんとだぞ。誰にも負けなかった」


彼は、両手を見下ろした。


「なのに、決勝の日だけ、あの人が来るんだ」


私はしばらく黙って、それから、彼の目の前にしゃがんだ。


「ディーン様。ひとつだけ、質問してもよろしいですか」


「なんだよ」


「演習の三日間で、私が出した指示は、全部で何個でしたっけ」


「は?」


「覚えている分だけでいいですわ」


彼はぽかんとして、それから、指を折り始めた。


「えーと、初日の朝が、水場の見張りと拠点の資材配置と当番表で……昼が唐揚げで、東の岩場の合流点が三箇所、罠の位置が十三個、二日目の朝に包囲網の六チームの名前と隊長の癖と、逃げ道が二本と、それから」


彼は五分間、喋り続けた。


三日間、私が口頭で出した指示を、ひとつ残らず、順番通りに。


「……なあ、なんで俺、こんなの全部覚えてんだ?」


「ディーン様」


私は、できるだけ穏やかに言った。


「私、昔いた場所で、あなたと同じように文字が読みづらい人を知っています。その人はね、耳がとんでもなく良かった。一度聞いた指示を、絶対に忘れない人でした」


「……」


「文字が読めないんじゃありません。あなたは、耳と身体で覚える人なんです。世界の覚え方が、他の人と違うだけ」


ディーン様が、顔を上げた。


「そんなの、なんの慰めにも」


「では、証明しますわ」


私は立ち上がって、彼の額を指で軽く突いた。


「決勝の相手はテオドール様。演習で、あなたが一度勝っている相手です。あの一騎打ち、四十七合。——あなた、全部覚えているでしょう」


彼の目が、見開かれた。


「四十七合、全部。相手が右に開いた回数、フェイントの癖、疲れた時の呼吸の変わり方。誰にも教わらずに、身体で。……それができる人間を、この世界では何と呼ぶんですの?」


「…………」


「バカ、とは呼びませんわ」


ディーン様は、両手で顔を覆った。しばらくして、くぐもった声が聞こえた。


「……ずりぃよ、お前」


「よく言われますわ」


「なあ、エミリア。ひとつ頼みがある」


顔を上げた彼の目は、真っ赤だったけれど、もう笑っていた。


「決勝、親父のこと見ないで済む方法、なんかねえか」


私は、にっこりと笑った。


こういう相談なら、任せて。演出は、私の本職ですもの。


「簡単ですわ。——観客席に、あなたが見たいものを置けばいいんです」


そして、決勝戦。


試合場に上がったディーン様は、いつもの癖で、ちらりと最前列を見た。


そこには、父と兄がいた。


そして、その真後ろの席に。


「ディーンさまー! いけー!」


「うおおお、行けディーン!!」


「…………がんばれ」


大声で叫ぶソフィアと、生まれて初めて拳を突き上げているブライアン様と、無言で立ち上がっている巨大なアッシュ様と。


そして——学院の生徒に混ざって、こっそり紛れ込んだ銀髪の王子と、赤毛のメイドと、そして私。


私たちは、思い切りよく、みっともないくらい大きな声で、彼の名前を呼んだ。


ディーン様は、ぽかんと口を開けて、それから。


犬歯を見せて、笑った。


九つの年も、十の年も、十一の年も。あの人が座っている限り、彼の剣は鈍った。


四度目の今日、彼が見上げた先にいたのは、父ではなかった。


その日、ダッシュ家の三男坊は、四十七合を知り尽くした相手と、五十三合を打ち合って、勝った。


「学院の剣」の称号を受け取った彼が、まっすぐ歩いていったのは、父の前ではなかった。


観客席の、私たちのところだった。


「見たか! 一番でかい肉、奢るからな!!」


「ええ、ええ。見ておりましたわ」


——ちなみに、後日談。


試合の翌週、ダッシュ家の当主から、うちの寮に一通の手紙が届いた。


「エミリア嬢。息子について、話を聞かせてほしい」


私は、その手紙を三回読んで、ノートに新しい企画書を書き始めた。


タイトルは『字が読めない子のための、耳で学ぶ学習法・提案書』。


……ええ、まあ。あの親父さんを説得するのは、伯爵をざまあするより難しそうだけど。


友達のためですもの。やるしかないでしょう?

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