【第14話】演習が終わっても、朝は来る
演習が終わって、二週間が過ぎた。
契約書の閲覧許可は、まだ下りていない。「叔父上を説得している」とロブ王子は言うけれど、王宮というのは前世のテレビ局の稟議より遥かに遅いらしい。判子ひとつに三ヶ月かかる世界があるのね。
その間、私の学院生活は、驚くほど普通に流れていた。
朝、マリーに起こされる。寮の食堂で朝食を食べる。魔術理論の授業で居眠りしそうになる。昼、なぜか隣に王子が座る。午後は剣術の基礎で泥だらけになる。夕方、図書館で調べ物。夜、マリーとお茶を飲む。
……いいのかしら、これ。
傾国の美女に生まれ変わって、呪われたり、いじめ抜かれたり、もっと波乱万丈な人生を覚悟していたのに。……案外、平和ね。
——そういえば、こんなこともあった。
寮の裏の花壇に、小さな青い花が咲いていた。私は水やりをしていたマリーの横で、なんの気なしに、その花の名を呟いた。
じょうろを持ったまま、マリーが振り返った。
「……お嬢様。その花の名を、どこで?」
「え?」
「その花は、フォックス領の北側にしか咲きません。王都では、まず見ない花です」
さあ。どこで覚えたのかしら。
こういうことが、時々ある。
この身体は、私の知らないことを、いくつか覚えているらしい。
……まあ、たまたまでしょう。私は肩をすくめて、じょうろを受け取った。
「エミリア様! おはようございます!」
朝の廊下で駆け寄ってくるのは、ソフィア。入学式の日に荷物を拾ってあげた、下級貴族の女の子だ。
彼女は演習の翌日から、なぜか私を先生か何かのように慕ってくる。
「エミリア様、聞いてください。わたし、魔術理論で二十位に入ったんです!」
「あら、すごいじゃない」
「エミリア様が教えてくださった『覚える前に、なぜそうなるかを一回だけ疑う』ってやつ、本当にすごいです。わたし、今まで丸暗記しかしてなかったので」
前世の私が、番組の構成を覚える時にやっていた小手先の技よ。まさか異世界の魔術理論に応用されるとは思わなかったわ。
でも、ソフィアの目がきらきらしているのを見ると、悪い気はしない。
そして——これが一番、私を戸惑わせていること。
「よう、エミリア!」
「おはよう、エミリア嬢」
「…………」
演習が終わったのに、あの三人が、まだ毎日、私のところに来るのだ。
考えてもみて。
私は彼らに、利害で取引を持ちかけた。剣を振りたい人には晴れ舞台を。首席が欲しい人には最短ルートを。知らないものに飢えている人には、知らない菓子を。全員がきっちり受け取って、契約は完了した。
前世の現場もそうだった。三ヶ月一緒に泊まり込んで、家族より長い時間を過ごしたスタッフとも、番組が終われば連絡が途絶える。それが普通で、それが健全だと思っていた。「あの現場、楽しかったですね」と言い合って、二度と会わない。
だから演習が終わった翌朝、私は少しだけ寂しい気持ちで目を覚まして、「もう、F4とも関わらなくなるのね」と気持ちを切り替えたのよ。
なのに。
昼になると、ディーン様が食堂で場所取りをしている。「おいエミリア、ここ空けといたぞ!」
放課後になると、ブライアン様が図書館の同じ席にいる。「遅い。この文献、先に読んでおいたぞ」
夕方になると、アッシュ様が寮の前に立っている。無言で、包みを差し出してくる。「……作った。この前の菓子を、真似た」
「……あの、皆様。演習はもう、終わっておりますけれど」
ある日、私はとうとう聞いてしまった。
三人がぽかんとした顔で私を見た。
「は? 終わったけど?」
ブライアン様も頷く。
「終わったが、それが何か関係が?」
アッシュ様は、何も言わず、ただ黙って首を傾げた。
「いえ、その……契約はもう完了しておりますし、皆様と一緒にいる理由はないはずですし。お忙しいでしょうし、それに、私と一緒にいると悪評まで立ちますもの」
ディーン様が、腹を抱えて笑い出した。
「お前、まだそんなこと気にしてんのか?! 悪評だと?! 今さらだろ!」
「わ、笑うところですか?!」
「エミリア」
ブライアン様が、片眼鏡を押し上げた。いつもの、実験対象を観察する目じゃなかった。
「我々が三日間あの森にいたのは、ただ『利益』のためだったと、君は思っているのか」
「……違うんですの?」
「最初はそうだった」
彼は認めた。正直な人ね、本当に。
「だが二日目の夜、六チームに包囲された時のことを覚えているか。私は正直、負けたと思った。ところが君は、地図を広げて、笑ったんだ。『引っ越しましょう』と」
「……そうでしたっけ」
「あの瞬間、私は生まれて初めて、負ける気がしない、という感覚を知った」
ブライアン様は、まっすぐ私を見た。
「私は幼い頃から、失敗が許されない家に育った。一番でなければ意味がない、と言われて育った。だから私は常に、負ける可能性を計算して、負ける勝負を避けてきた。……あの夜、君の隣で、私は初めて『勝ちに行く楽しさ』を知ったんだ」
「俺は最初から楽しかったぞ!」
「お前は黙っていろ」
アッシュ様が、そこで珍しく口を開いた。
「……三日間」
「はい?」
「三日間、弁当も、菓子も、全部うまかった」
彼は、自分の大きな手を見下ろした。百八十センチに届く体躯。無表情。無口。
「それだけだ」
私は、何も言えなかった。
三人が、それぞれの理由で、あの森を覚えている。
私が「めんどくさい演習」だとしか思っていなかった三日間を、この人たちは「思い出」として持ち帰っていた。
「……あの」
私は、少しだけ声が震えないように気をつけながら言った。
「皆様。私、悪評高いエミリア・フォックスですもの。一緒にいれば、皆様にご迷惑がかかるだけだと。契約さえ終われば、皆様もいなくなるのが当然だと思っていて。終わったあとのことなんて、考えたこともなかったんです」
「じゃあ今から考えろよ」
ディーン様が、あっけらかんと言った。
「なあエミリア。俺たち、もう友達じゃねーの?」
友達。
前世の私が、最後にその言葉を使ったのはいつだったろう。大学を出て、毎日終電で帰って、休みの日は泥のように眠って。連絡先の中に「友達」と呼べる人が、何人残っていたっけ。
「……そう、ですわね」
私は、なんだか目の奥が熱くなるのを誤魔化すために、精一杯偉そうに腕を組んだ。
「では改めまして。ディーン様、ブライアン様、アッシュ様。ご友人として、以後よろしくお願いいたします」
「かたっ苦しい!」
「様もいらん」
「…………次の菓子は」
「アッシュ様、それは友情と関係ありますの?」
「あるだろう」
真顔で言われた。まあ、あなたの中ではそうなのでしょうね。
「それと、皆様。ひとつだけ、お断りしておきますわ」
「あ?」
「『様』は、やめません」
三人が、そろって私を見た。
「嫌ですわ。私、この呼び方が気に入っておりますの」
「なんでだよ! 友達だろ!」
ディーン様が喚いたけれど、こればっかりは譲らないわよ。
呼び方というのは、距離の話じゃないの。敬意の話なのよ。……なんて言うと照れくさいので、言わないけれど。
その日から、私の学院生活は、少しだけ賑やかになった。
ディーン様は毎朝、剣術の朝練に私を誘うようになった。「体力つけとけ! お前、頭は動くけど身体が動かねえからな!」でも三日目には、ちゃんと私用の軽い木剣を用意してくれていた。
——余計なお世話よ。
と、言い返してやりたかった。
けれどその日、私は木剣を十回振っただけで、石段に座り込んだ。
十回。十回よ。
肩で息をしている私を見て、ディーン様が「お前、大丈夫か?」と本気で心配していた。
十二歳の身体って、こんなものだったかしら。
まあ、前世は椅子と機材車の往復で三年ですもの。身体が資本なのは、どの世界でも同じね。明日は十五回にしましょう。
ブライアン様は、私が図書館で探している本の隣に、必ずもう一冊置いていくようになった。「ついでだ」と言うけれど、あの人が「ついで」で選ぶ本は、いつも私が三日後に必要になる本だった。
アッシュ様は、週に二度、包みを持ってくるようになった。中身は、いつも私が前に出した菓子を、彼が自分で再現しようとして失敗したものだった。プディングは固すぎたし、どら焼きは炭になっていた。
マリーが「お菓子は私がお作りしますのに」と言ったら、アッシュ様は真顔で答えた。
「これは、菓子じゃない。……返事だ」
食べたことのないものを教わったから、自分も何かを返そうとしている。この人なりの、不器用な言葉の代わりだった。
——ああ、もう。
この人たち、私の悪評なんて、最初から一度も信じてなかったんじゃないの。




