表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰る場所は、ずっとあなたの隣だった~あの頃の私は、優しい人を愛せなかった~  作者: 黒猫と珈琲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/11

第9話 変わらないもの

 同窓会から一週間後の土曜日。


 若葉は駅前の通りを歩いていた。


 約束の時間まではまだ余裕がある。


 それなのに三十分も早く家を出てしまった。


 まるで初めてのデートへ向かうみたいだと気づいて、自分で苦笑する。


 三十二歳にもなって何を緊張しているのだろう。


 けれど落ち着かなかった。


 十年ぶりに樹と二人で会うのだ。


 緊張しない方がおかしい。


 地図を確認しながら歩いていると、やがて目的の店が見えてきた。


 白い外壁に木製の看板。


 店先には色とりどりの花が並んでいる。


 ガラス越しに見える店内も温かい雰囲気だった。


 花屋とカフェを併設した店。


 まるで樹らしいと思った。


 派手ではない。


 けれど訪れた人の心を少しだけ軽くしてくれる。


 そんな場所だった。


 若葉は深呼吸をして扉を開ける。


 小さなベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 聞き慣れた声が耳に届く。


 顔を上げると樹がいた。


 白いシャツに黒いエプロン。


 大学時代とは違う姿なのに、不思議なくらい似合っていた。


「若葉」


 樹の表情が和らぐ。


「来てくれてありがとう」


「こちらこそ」


 若葉も笑った。


 その瞬間、少しだけ緊張がほどけた。


 窓際の席へ案内される。


 店内には穏やかな音楽が流れていた。数組の客がいるが騒がしくはない。


 落ち着いた空間だった。


「素敵なお店だね」


「ありがとう」


 樹は少し照れたように笑う。


「花屋は昔からやりたかったんだ」


「そうなの?」


「うん。実家も花関係の仕事だったし」


 若葉は驚いた。


 大学時代、たくさん話をしたはずなのに知らないこともある。


 十年という時間の長さを少しだけ感じた。


「おすすめは?」


「コーヒーとチーズケーキ」


「じゃあそれにする」


「了解」


 樹が注文を取りに行く。


 その後ろ姿を見ながら、若葉はふと思った。


 昔からそうだった。


 樹といると肩の力が抜ける。


 無理に明るくしなくていい。


 気を遣いすぎなくていい。


 ただそこにいるだけで安心できた。


 それは十年経った今も変わらない。


 やがてコーヒーとチーズケーキが運ばれてくる。


「美味しそう」


「味は保証する」


「自信満々だね」


「それなりにね」


 二人で笑う。


 その空気が心地良かった。


 話題は自然と大学時代の思い出になった。


「あの講義、覚えてる?」


「単位が厳しいことで有名だったやつ?」


「そう」


「若葉、試験前に泣きそうになってたよな」


「忘れて」


「無理」


 樹が笑う。


 若葉もつられて笑った。


 気づけばあっという間に時間が過ぎていく。


 不思議だった。


 十年も会っていなかったはずなのに、昨日まで一緒にいたみたいに自然だった。


 会話が途切れた時だった。


「日本はどう?」


 樹が聞いた。


「懐かしいかな」


「向こうへ戻る予定は?」


 若葉は少し考える。


「まだ決めてない」


 それが正直な答えだった。


 帰国は一時的なものだった。


 けれど今は以前ほど海外へ戻りたいとも思わない。


 その理由を、若葉はまだ言葉にできなかった。


「そっか」


 樹はそれ以上何も聞かなかった。


 昔からそうだ。


 答えたくないことを無理に聞かない。


 だから安心できる。


 若葉はカップを両手で包み込んだ。


 窓の外では春の陽射しが揺れている。


 静かな午後だった。


「ねえ、樹」


「うん?」


「どうして結婚しなかったの?」


 聞いてから、しまったと思った。


 踏み込みすぎたかもしれない。


 けれど樹は驚いた顔をしたあと苦笑した。


「急だな」


「ごめん」


「別にいいけど」


 樹は少しだけ考える。


 そして静かに言った。


「仕事が楽しかったからかな」


「それだけ?」


「それだけじゃないかも」


 樹は苦笑した。


「何人か付き合おうとしたことはあったんだけどな」


 若葉は思わず顔を上げる。


「そうなの?」


「ああ。でも長くは続かなかった」


 樹はコーヒーカップへ視線を落とした。


「誰かといても、どうしても違う気がして」


 若葉の胸が小さく鳴る。


 それ以上は聞けなかった。


 聞く勇気がなかった。


 もし期待してしまったら。


 もし違ったら。


 傷つくのは自分だ。


 三十二歳になっても、そこだけは変わらないらしい。


 店を出る頃には夕方になっていた。


 空は薄いオレンジ色に染まり始めている。


「送るよ」


「大丈夫だよ」


「駅までだし」


 結局、二人で歩くことになった。


 並んで歩く道は静かだった。


 心地良い沈黙が流れる。


 無理に話さなくても苦にならない。


 それが樹だった。


 駅が見えてきた頃、若葉は立ち止まる。


「今日はありがとう」


「こちらこそ」


 樹が微笑む。


「楽しかった」


 その言葉に胸が温かくなる。


 若葉も素直に頷いた。


「私も」


 本当にそう思った。


 十年という時間は確かにあった。


 失った時間もある。


 けれど。


 変わらないものもあった。


 樹といると安心すること。


 笑顔を見ると嬉しくなること。


 もっと一緒にいたいと思うこと。


 それらは少しも変わっていなかった。


 電車の発車時刻を告げるアナウンスが聞こえる。


「じゃあまた」


 若葉が言う。


 樹は頷いた。


「ああ。また」


 その何気ない約束が嬉しかった。


 若葉は改札へ向かう。


 けれど途中で振り返る。


 樹はまだそこにいた。


 まっすぐこちらを見ている。


 そして目が合うと、小さく笑った。


 若葉は胸に手を当てた。


 鼓動が少し速い。


 懐かしいだけでは説明できない感情が、静かに心を揺らしていた。


 十年前に置いてきたはずの想いが、少しずつ目を覚まし始めていた。


面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価(★)をいただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ