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帰る場所は、ずっとあなたの隣だった~あの頃の私は、優しい人を愛せなかった~  作者: 黒猫と珈琲


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第10話 今ならわかる

 樹の店へ通うようになって、一か月ほどが過ぎた。


 毎週というわけではない。


 けれど気づけば、時間ができるたびに足を運んでいた。


 コーヒーを飲みながら本を読む日もあれば、樹と他愛のない話をする日もある。


 それだけなのに心が落ち着いた。


 若葉にとって、いつの間にか特別な場所になっていた。


 その日も若葉は店の扉を開いた。


 ベルが小さく鳴る。


「いらっしゃいませ」


 樹が顔を上げる。


 目が合うと自然に笑顔になる。


「こんにちは」


「いつもの席、空いてるよ」


「ありがとう」


 若葉は窓際の席へ向かった。


 すると隣の席から声が聞こえた。


「あら?」


 年配の女性だった。


 どこかで見覚えがある。


 優しい雰囲気。


 柔らかな笑顔。


 若葉は記憶を辿る。


 そして次の瞬間、思わず目を見開いた。


「もしかして……」


 女性も驚いた顔をしていた。


「若葉ちゃん?」


 懐かしい呼び方だった。


 胸の奥がきゅっと締め付けられる。


「蓮のお母さん……?」


「やっぱり若葉ちゃん!」


 女性はぱっと顔を明るくした。


 大学時代、何度も会った人だった。


 蓮の母。


 初めて会った時から優しく接してくれた人。


 若葉は思わず笑顔になる。


「お久しぶりです」


「まあ、本当に綺麗になって」


「そんなことないです」


「あるわよ」


 蓮の母は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見ていると、大学時代の記憶が蘇る。


 夕飯をご馳走になったこと。


 一緒にテレビを見たこと。


 誕生日を祝ってもらったこと。


 あの家には、若葉が欲しかったものがあった。


 温かい食卓。


 誰かの「おかえり」。


 安心して笑える時間。


 だから蓮だけではなく、あの家そのものが好きだったのだと思う。


 だからこそ思い出すと少し切なかった。


「元気だった?」


「はい」


「海外にいるって聞いていたけど」


「最近帰国したんです」


「そうだったのね」


 蓮の母は何度も頷いた。


 そしてふと表情を和らげる。


「会えて良かった」


 その言葉に若葉の胸が温かくなる。


 別れた息子の元恋人なのに。


 それでもこうして歓迎してくれる。


 相変わらず優しい人だと思った。


 しばらく近況を話していた時だった。


 蓮の母が少し遠くを見るような目をした。


「あの子ね」


 若葉は静かに顔を上げる。


「若葉ちゃんと別れたあと、しばらく荒れていたのよ」


 予想していなかった言葉だった。


 若葉は目を瞬く。


「そうだったんですか?」


「ええ」


 蓮の母は苦笑した。


「自業自得なんだけどね」


 若葉は何も言えなかった。


 蓮との別れは決して綺麗なものではなかった。


 浮気。


 危険な交友関係。


 見たくなかった現実。


 それでも若葉は、蓮を憎んではいなかった。


 好きだった時間まで否定したくなかったから。


「若葉ちゃんと別れたあとね」


 蓮の母は少し寂しそうに笑った。


「友達はたくさんいたの」


「いつも誰かに囲まれていたわ」


「でもね」


 そこで言葉を切る。


「あの子、ずっと何かを探しているみたいだった」


 若葉は息を止めた。


「失ってから気づいたのよ」


 蓮の母は静かに言う。


「若葉ちゃんが、あの子にとってどれだけ大きな存在だったのか」


 店内には穏やかな音楽が流れていた。


 それなのに、その言葉だけが妙にはっきり耳に残る。


 若葉は静かに視線を落とした。


 胸の奥が少しだけ痛む。


 蓮は若かった。


 自分も若かった。


 だから傷つけたし、傷ついた。


 けれど。


 もう責める気持ちはなかった。


「あの頃の私たち、子どもでしたね」


 ぽつりと呟く。


 蓮の母は優しく微笑んだ。


「そうね」


「でも、それで良かったのかもしれないわ」


 若葉は顔を上げる。


「失敗しないと分からないこともあるもの」


 その言葉に、若葉は小さく笑った。


 きっとそうなのだろう。


 蓮も。


 自分も。


 遠回りをした。


 でも、その時間が無駄だったとは思いたくなかった。


「今は元気なんですか?」


 若葉が尋ねると、蓮の母は笑った。


「ええ」


 どこか安心したような表情だった。


「結婚して子どももいるの」


「そうなんですね」


「すっかり父親よ」


 若葉も自然に笑った。


 良かったと思う。


 本当に。


 蓮には蓮の人生がある。


 若葉には若葉の人生がある。


 もう過去なのだ。


 そう思えた。


 帰り際。


 蓮の母はふいに若葉を見つめた。


「若葉ちゃん」


「はい」


「幸せになりなさいね」


 


 優しい声だった。


 まるで本当の母親みたいに。


 


 若葉は一瞬言葉を失う。


 胸が熱くなった。


「……ありがとうございます」


 それしか言えなかった。


 蓮の母は満足そうに微笑む。


「あなたは十分頑張ったんだから」


 若葉は小さく頭を下げた。


 店を出たあとも、その言葉が耳に残っていた。


 あなたは十分頑張った。


 今まで何度も頑張ってきた。


 必死に生きてきた。


 傷つかないように。


 見捨てられないように。


 自分を守るために。


 気づけば夕暮れになっていた。


 空が淡い茜色に染まっている。


 若葉はゆっくり歩きながら考える。


 蓮は前へ進んだ。


 過去を抱えながらも、自分の人生を歩いている。


 それなら。


 私はどうだろう。


 いつまで過去を怖がっているのだろう。


 その時だった。


 スマートフォンが震える。


 画面を見ると樹からのメッセージだった。


『今日はありがとう。また来週、新しいケーキ出すよ』


 思わず笑ってしまう。


 本当に樹らしい。


 若葉は立ち止まり、しばらく画面を見つめた。


 そして静かに返信する。


『楽しみにしてる』


 送信ボタンを押した瞬間。


 胸の奥が少しだけ軽くなった。


 過去は変わらない。


 失った時間も戻らない。


 それでも。


 これから先の時間なら、まだ選べる。


 春の風が頬を撫でた。


 若葉は小さく笑う。


 


 前を向いてみよう。


 


 そう思えた。


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