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帰る場所は、ずっとあなたの隣だった~あの頃の私は、優しい人を愛せなかった~  作者: 黒猫と珈琲


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第11話 ただいま

 樹の店へ通うようになってから、気づけば二か月が過ぎていた。


 若葉の日常の中に、樹がいることが当たり前になりつつあった。


 週に一度、店へ行く。


 コーヒーを飲みながら話をする。


 たまに閉店後に近くを散歩する。


 ただそれだけなのに、心が満たされていくのを感じていた。


 昔もそうだった。


 樹といると安心した。


 無理に明るく振る舞わなくていい。


 気を遣いすぎなくていい。


 ただ一緒にいるだけで良かった。


 その日の午後も、若葉はいつもの窓際の席に座っていた。


 店内には穏やかな音楽が流れている。


 樹がコーヒーを運んできた。


「どうぞ」


「ありがとう」


 カップから立ち上る香りにほっと息をつく。


 樹は向かいの席に腰を下ろした。


 少しだけ静かな時間が流れる。


 居心地の悪い沈黙ではない。


 むしろ心地良い沈黙だった。


 けれどその日は、どこか空気が違った。


 樹が何かを考えているように見えた。


「若葉」


 やがて樹が口を開く。


「うん?」


「ずっと気になってたことがあるんだ」


 若葉の胸が小さく鳴る。


 樹は穏やかな表情のまま続けた。


「十年前さ」


「……うん」


「どうして、一人で行こうとしたんだ?」


 若葉は息を呑んだ。


 心臓が大きく脈打つ。


 その質問は予想していなかった。


 けれど、いつか向き合わなければならないことだとも分かっていた。


 若葉は視線を落とす。


 カップの中のコーヒーが静かに揺れていた。


「怖かったの」


 やっとそれだけを口にする。


 樹は何も言わない。


 ただ静かに耳を傾けている。


「小さい頃から、家が安心できる場所じゃなかったから」


 若葉は少しずつ言葉を紡いでいく。


「父はお酒を飲むと怒鳴ったし、母は父をかばってた」


 何度も思い出した記憶だった。


 それでも話すのは苦しかった。


「だからかな」


 若葉は苦く笑う。


「誰かに大事にされることが信じられなかった」


 樹の目が少しだけ曇る。


 けれど口は挟まない。


「幸せになったら、いつか壊れると思ってた」


「……」


「愛されたら、いつか失うと思ってた」


 それが若葉の中にずっとあった恐怖だった。


 だから恋愛をしても、本気になる前に離れてきた。


 傷つく前に。


 捨てられる前に。


 自分から。


 若葉は樹を見つめた。


「でもね」


 声が少し震える。


「樹といると安心したの」


 胸の奥が熱くなる。


「それが怖かった」


 樹は黙って聞いている。


「だって私、自分がそんなふうに大切にされる人間だと思ってなかったから」


 言葉にした瞬間、涙が滲んだ。


「愛されたかった」


 若葉は小さく笑う。


「本当はずっと」


 声が震える。


「でも、自分にその価値があるなんて思えなかった」


 十年間、誰にも言えなかった本音だった。


 樹の前だから言えた。


「樹は違ったの」


 若葉は涙を拭う。


「今まで出会った人とは違った」


 樹は静かに聞いている。


「樹のことだけは失いたくなかった」


 ようやく本音を口にする。


 十年間、胸の奥に閉じ込めていた言葉だった。


「だから近づくのが怖かった」


 皮肉だった。


 本当に失いたくなかった人から、自分で離れてしまったのだから。


「好きになればなるほど怖くなったの」


 若葉は笑う。


 涙が頬を伝っていた。


「馬鹿だよね」


 樹はしばらく黙っていた。


 やがて小さく息を吐く。


「馬鹿じゃないよ」


 優しい声だった。


「俺も怖かったから」


 若葉は驚いて顔を上げる。


「樹も?」


「ああ」


 樹は苦笑した。


「留学するって聞いた時」


 若葉の胸が締め付けられる。


「本当は止めたかった」


 静かな声だった。


「行くなって言いたかった」


 若葉は言葉を失う。


「でも言えなかった」


「どうして?」


 思わず聞く。


 樹は少しだけ困ったように笑った。


「若葉の夢だったから」


 その答えが、あまりにも樹らしかった。


「応援したかった」


「……」


「それに」


 樹は視線を逸らす。


「もし引き留めて嫌われたら嫌だったし」


 若葉は思わず吹き出してしまった。


「なにそれ」


「本音」


「樹でもそんなこと思うんだ」


「思うよ」


 二人で笑う。


 その笑い声が止むと、静かな時間が戻ってきた。


 十年前にはできなかった話。


 十年前には言えなかった言葉。


 今なら伝えられる気がした。


 若葉はゆっくり息を吸う。


 そして樹を見つめた。


「ごめんね」


 まず伝えたかった言葉。


「十年前、逃げて」


 樹は首を横に振った。


「若葉」


「うん」


「もういいよ」


 穏やかな声だった。


 責める気持ちは少しも感じない。


 だからこそ胸が熱くなる。


「ずっと謝りたかったの」


 若葉は笑った。


 涙が頬を伝う。


「本当にごめん」


 樹はしばらく若葉を見つめていた。


 そして静かに笑う。


「若葉」


「うん」


「待ってた」


 若葉は目を見開いた。


「え?」


「若葉が自分で戻ってくるのを」


 胸が大きく鳴る。


「十年かかったけどな」


 照れたように笑う樹に、若葉の涙があふれた。


 どうしてこの人は。


 昔から。


 今も。


 こんなにも優しいのだろう。


 いや、違う。


 これは優しさだけじゃない。


 信じて待つ強さだ。


 だから若葉は、この人を好きになったのだ。


 忘れられなかったのだ。


 若葉は涙を拭った。


 もう逃げたくなかった。


 今度こそ。


 ちゃんと伝えたかった。


「樹」


「うん」


「私、ずっと好きだった」


 声が震える。


 それでも止まらなかった。


「十年前も」


「今も」


 樹が目を見開く。


 そんな表情を見るのは初めてだった。


 若葉は泣きながら笑う。


 ようやく言えた。


 十年間、心の奥にしまい続けていた言葉を。


 樹はしばらく何も言わなかった。


 そして――静かに微笑んだ。


「若葉」


「うん」


 樹の声は優しかった。


 けれどその奥に、十年分の想いが滲んでいた。


「俺もずっと好きだった」


 若葉の視界が涙で滲む。


 胸の奥で、何かがほどけていく。


 十年間、自分を縛っていた不安も。


 恐れも。


 孤独も。


 少しずつ。


 静かに。


「だから」


 樹は少し照れたように笑った。


「おかえり」


 その言葉を聞いた瞬間――


 若葉は泣きながら笑った。


「……ただいま」


 ようやく言えた。


 十年前には言えなかった言葉を。


 帰る場所は、ずっとここにあった。


 若葉が気づいていなかっただけで。


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