第7話 さよなら
卒業式の日は、よく晴れていた。
キャンパスの桜は満開で、風が吹くたびに花びらが舞う。
卒業証書を受け取り、友人たちと写真を撮り、笑い合う。
周囲は未来への期待に満ちていた。
けれど若葉の胸の中には、どこかぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
留学が決まったのは数か月前。
ずっと目標にしていたことだった。
語学を学びたい。もっと広い世界を見たい。
そう思っていたはずなのに、卒業の日が近づくほど、胸の奥は重くなっていった。
理由は分かっている。
樹だった。
彼と過ごす時間が増えるほど、離れたくなくなっていた。
けれど、その気持ちを認めるのが怖かった。
好きになればなるほど、失うのが怖くなる。
だから今までだって、そうなる前に離れてきた。
それなのに樹だけは違った。
大丈夫じゃない自分を見せても離れていかなかった。弱い自分を見ても否定しなかった。無理に変えようともしなかった。
ただ、そこにいてくれた。
だから。
失うのが怖かった。
卒業式が終わったあと、若葉は樹と二人で大学近くの河川敷を歩いていた。
春の風が穏やかに吹いている。
川面がきらきらと光っていた。
「本当に行くんだな」
樹がぽつりと言った。
「うん」
若葉は頷く。
「来週には出発」
「そっか」
それ以上、樹は何も言わなかった。
引き留めることもない。責めることもない。
いつだってそうだった。
若葉の選択を尊重してくれる。
だからこそ苦しかった。
もし反対されたら。
もし行くなと言われたら。
少しは楽だったかもしれない。
けれど樹はそんなことをしない。
若葉が選んだ道を応援してくれる。
それが分かっていた。
「樹」
「ん?」
「私ね」
言葉が喉につかえる。
本当は伝えたいことがたくさんあった。
ありがとう。
好きだった。
一緒にいると安心した。
あなたといる時間が幸せだった。
でも、そのどれも口にできなかった。
言ってしまったら。
ここに残りたくなってしまう気がした。
だから若葉は無理に笑う。
「向こうでも頑張る」
結局出てきたのは、そんな言葉だった。
樹は少しだけ笑った。
「ああ」
その笑顔が胸を締め付ける。
若葉は思わず視線を逸らした。
泣きそうだった。
泣いてしまったら行けなくなる。
だから必死にこらえる。
◇◇◇
数日後。
出発の日がやってきた。
空港は春休みの旅行客で賑わっていた。
アナウンスが響き、人々が行き交う。
若葉の隣には樹がいた。
「荷物重くない?」
「大丈夫」
「忘れ物は?」
「子どもじゃないんだから」
そう言うと、樹が笑う。
若葉もつられて笑った。
できるだけいつも通りに振る舞いたかった。
そうしないと泣いてしまいそうだったから。
搭乗時間が近づく。
別れの時が迫っていた。
「若葉」
樹が名前を呼ぶ。
「これ」
差し出されたのは一冊の文庫本だった。
「本?」
「開いてみて」
若葉は首を傾げながらページをめくる。
すると間に何かが挟まっていた。
小さな押し花のしおり。
淡い青色の花だった。
「綺麗……」
「前に一緒に見た花」
若葉は目を見開いた。
河川敷で咲いていた小さな花。
何気なく綺麗だと言ったことを覚えていてくれたらしい。
「向こうで本を読む時に使って」
「……ありがとう」
胸がいっぱいになる。
どうして覚えていてくれたのだろう。
河川敷で見た、あの日の花を。
若葉が何気なく口にした言葉を。
どうしてこんなに大切にしてくれるのだろう。
搭乗案内が流れた。
もう行かなければならない。
若葉はしおりを大事に本へ挟み直した。
そして樹を見る。
何か言わなくては。
本当は。
本当は。
好きだと言いたかった。
でも。
言ってしまったら戻れなくなる気がした。
だから若葉は笑った。
「行ってくるね」
「ああ」
樹も笑う。
少しだけ寂しそうに。
それでも穏やかに。
「頑張っておいで」
その一言で胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
どうして引き留めないの。
そんな理不尽なことを思ってしまう。
でも違う。
引き留めなかったのは、樹が若葉を信じてくれているからだ。
若葉の未来を応援してくれているからだ。
自分の気持ちよりも、若葉の夢を大切にしてくれているからだ。
だからこそ苦しかった。
「じゃあね」
「うん」
若葉は頭を下げた。
そして背を向ける。
一歩。
また一歩。
歩きながら必死に前を向いた。
振り返ったら駄目だと思った。
振り返れば行けなくなる。
それでも。
搭乗口の手前で、どうしても我慢できなくなった。
若葉は振り返る。
人混みの向こう。
樹はまだそこにいた。
変わらない穏やかな表情で。
まっすぐ若葉を見ていた。
その姿が滲む。
涙だった。
若葉は慌てて目元を拭く。
そして小さく笑った。
きっと大丈夫。
そう思いたかった。
けれど胸の奥では、もう気づいていた。
帰る場所が欲しかった。
ずっとそう思っていた。
安心できる場所が欲しかった。
自分のままでいられる場所が欲しかった。
そして気づけば。
樹の隣が、そんな場所になり始めていたことに。
けれど、その答えを認めるには。
若葉はまだ少しだけ幼かった。
若葉は再び前を向く。
そして飛行機へ向かって歩き出した。
春の終わりの日だった。
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