第6話 好きになってはいけない人
風邪が治ったあとも、若葉と樹の関係は変わらなかった。
相変わらず学食で会う。講義の帰りに話す。時々一緒に帰る。
友達以上でも恋人未満でもない。
曖昧な距離。
けれど若葉にとって、その時間は特別になっていた。
気づけば樹を探している。
学食へ行けば姿を探す。講義で見かければ少し嬉しくなる。スマートフォンが鳴れば期待してしまう。
そんな自分に気づいていた。
気づいていたけれど。
認めたくなかった。
秋が深まった頃。
大学では学園祭の準備が始まっていた。
キャンパスはいつも以上に賑やかだった。
若葉も友人たちと準備に参加していた。
段ボールを運んだり、飾り付けをしたり。
慌ただしい毎日だった。
その日の帰り道。
若葉は樹と並んで歩いていた。
夕暮れの空が茜色に染まっている。
「学園祭、来る?」
若葉が聞く。
樹は少し考えた。
「たぶん」
「何それ」
若葉は笑う。
「来ない気でしょ」
「いや、行く」
「怪しい」
二人で笑った。
そんな時間が好きだった。
特別なことは何もない。
でも樹といると肩の力が抜ける。
無理に明るくしなくていい。
気を遣いすぎなくていい。
ただ隣にいるだけで落ち着いた。
不意に樹が言った。
「若葉」
「ん?」
「卒業したらどうするの?」
若葉は少し考える。
進路はまだ決まっていなかった。
けれど最近、頭の中を占めている選択肢があった。
「留学しようかなって思ってる」
樹が足を止める。
若葉も立ち止まった。
「海外?」
「うん」
樹は何も言わなかった。
ただ少し驚いた顔をしている。
若葉は無理に笑う。
「まだ決まったわけじゃないけどね」
本当は違った。
ほとんど決めていた。
ずっと前から考えていたことだった。
日本を離れたい。
新しい場所へ行きたい。
今までの自分を変えたい。
そんな思いがあった。
「そうか」
しばらくして樹が言った。
その声は穏やかだった。
いつも通り。
けれど若葉は少しだけ寂しくなった。
引き止めてほしかったわけじゃない。
でも。
少しくらい困った顔をしてほしかった。
そんな自分勝手なことを考えてしまう。
その夜。
若葉はベッドの中で天井を見つめていた。
眠れない。
考えるのは樹のことばかりだった。
好きになっている。
認めたくなくても分かる。
樹が好きだった。
穏やかなところが。
誠実なところが。
何も押し付けないところが。
そして。
弱い自分を見せても、否定しないところが。
全部好きだった。
けれど。
若葉は目を閉じる。
怖かった。
父の顔色を見て育った。
愛されることに慣れていない。
幸せになることにも慣れていない。
樹は優しい。
でも。
若葉が好きなのは、優しいからじゃない。
大丈夫じゃない時に気づいてくれる。
無理に踏み込まない。
弱い自分を見ても失望しない。
ただそこにいてくれる。
そんなところが好きだった。
だから怖い。
もし失ったら。
もし樹までいなくなったら。
今度こそ立ち直れない気がした。
数日後。
若葉は大学の図書館で留学資料を眺めていた。
英語の勉強も始めている。
準備は順調だった。
「本気なんだ」
突然声がした。
顔を上げる。
樹だった。
いつの間にか隣に立っている。
若葉は苦笑した。
「まあね」
樹は資料に目を落とす。
しばらく何も言わない。
沈黙が流れる。
若葉の胸が少しだけ痛んだ。
樹はどう思っているのだろう。
応援してくれているのだろうか。
それとも。
何も思っていないのだろうか。
その時だった。
「寂しくなるな」
ぽつりと樹が言った。
若葉の心臓が跳ねる。
思わず顔を上げた。
樹は少しだけ視線を逸らしていた。
「友達いなくなるし」
照れ隠しのような言い方だった。
若葉は思わず笑う。
胸の奥が温かくなる。
同時に苦しくなる。
友達。
そうだ。
今の二人は友達だ。
それ以上じゃない。
若葉は知っている。
樹が誠実なのは自分だけじゃない。
誰に対しても誠実な人なのだ。
勝手に期待してはいけない。
勝手に傷ついてはいけない。
「また会えるよ」
若葉は笑顔を作った。
「今はネットもあるし」
「そうだな」
樹も笑う。
けれど。
どこか無理をしているように見えた。
その日の帰り道。
若葉は一人で歩いていた。
夕暮れの風が冷たい。
胸の奥が痛む。
留学を決めたのは自分だ。
逃げたいと思ったのも自分だ。
それなのに。
樹から離れたくないと思っている。
矛盾していた。
立ち止まる。
空を見上げる。
秋の空は高かった。
もし。
もし今の自分が気持ちを伝えたら。
何か変わるのだろうか。
そんな考えが浮かぶ。
けれどすぐに首を振った。
無理だ。
若葉にはそんな勇気はない。
愛されることが怖い。
幸せになることが怖い。
それに。
樹を失いたくなかった。
今の関係が壊れることが怖かった。
だから。
好きになってはいけない人だった。
樹は。
失いたくないと思ってしまった人だったから。




