第5話 優しい人
若葉と樹が話すようになってから、季節は少しずつ秋へ向かっていた。
最初は学食で顔を合わせるだけだった。
けれどいつの間にか、一緒に帰る日が増えていた。
講義の後に学内のカフェで話をすることもある。
それでも二人の関係は曖昧なままだった。
友達。
たぶん、それが一番近い。
若葉はそう思っていた。
ある日の午後。
講義が早く終わった。
外は気持ちの良い秋晴れだった。
「暇?」
学食を出たところで樹が聞いた。
若葉は少し驚く。
「今日はバイトないけど」
「じゃあ少し付き合って」
樹はそう言って歩き出した。
若葉も後を追う。
向かった先は大学から少し離れた河川敷だった。
広い空。穏やかに流れる川。風が心地良い。
若葉は思わず笑った。
「いい場所だね」
「だろ」
樹も笑う。
二人で土手に腰を下ろした。
しばらく沈黙が続く。
不思議と居心地は悪くなかった。
むしろ落ち着く。
若葉は空を見上げた。
「こういうの久しぶりかも」
「何が?」
「何もしない時間」
樹は少しだけ笑った。
「若葉って忙しそうだもんな」
若葉は苦笑する。
確かにそうだった。
いつも誰かといた。予定を詰め込んでいた。
一人になるのが嫌だったから。
静かな時間が怖かったから。
「一人が苦手なんだ」
ぽつりと漏れる。
樹は何も言わない。
続きを待っている。
若葉は少し迷った。
でも不思議と話してもいい気がした。
「家にいるのがあんまり好きじゃなくて」
樹が静かに頷く。
「父親が酒飲みなの」
若葉は笑った。
笑わなければ言えなかった。
「飲むと怒鳴るし、機嫌悪いし」
「昔からそんな感じ」
樹は黙って聞いている。
若葉は続けた。
「だからかな」
「うん」
「誰かといる方が安心する」
風が吹く。
川面が揺れる。
しばらく沈黙が続いた。
そして樹が言った。
「そりゃそうだろ」
若葉は顔を上げる。
「え?」
「安心できる場所がなかったんだから」
その言葉に息が止まった。
樹は空を見たまま続ける。
「誰だってそうなる」
若葉は何も言えなかった。
今まで何度も人に話したことがある。
でも返ってくるのは、
「親なんだから」
「家族なんだから」
「そのうち分かり合えるよ」
そんな言葉ばかりだった。
けれど樹は違う。
責めない。
決めつけない。
若葉が感じたことを、そのまま受け止めてくれる。
「大変だったな」
しばらくして樹が言った。
たったそれだけだった。
若葉の胸が少し熱くなる。
「ありがとう」
気づけばそう言っていた。
樹は少し照れたように笑った。
その笑顔を見て、若葉も笑う。
気づけば夕方になっていた。
帰り道。
二人は並んで歩く。
夕焼けが街を染めていた。
若葉はふと思う。
樹といると疲れない。
無理に明るくしなくていい。
面白い話をしなくてもいい。
ただ隣にいるだけで安心する。
そんな人は初めてだった。
数日後。
若葉は風邪を引いた。
朝から熱があった。
講義も休む。
一人暮らしではなかったが、家にいても気は休まらない。
布団の中で横になっているとスマートフォンが鳴った。
樹だった。
『今日来てないけど大丈夫?』
若葉は少し迷ってから返事をする。
『風邪』
するとすぐに返信が来た。
『ちゃんと病院行った?』
思わず笑ってしまう。
『行った』
『ご飯食べた?』
『まだ』
『食べろ』
短い文章だった。
けれど何だか温かかった。
その日の夕方。
インターホンが鳴る。
若葉が出ると、そこには樹が立っていた。
「え?」
若葉は目を丸くする。
樹はコンビニの袋を差し出した。
「ゼリーとスポーツドリンク」
若葉は呆然とした。
「何で?」
「心配だったから」
樹はあっさり言った。
若葉は言葉に詰まる。
あまりにも自然だった。
見返りを求めるわけでもない。
恩を着せるわけでもない。
ただ心配だったから来た。
それだけだった。
「ありがとう」
若葉が言うと、樹は小さく頷く。
「ちゃんと食べろよ」
それだけ言うと帰ろうとする。
若葉は慌てた。
「待って」
樹が振り返る。
若葉は言葉に詰まった。
引き止める理由なんてない。
でも。
もう少しだけ顔を見ていたかった。
そんな自分に気づいてしまう。
結局、
「本当にありがとう」
そう言うことしかできなかった。
樹は少し笑う。
「元気になったらまたな」
その笑顔が優しかった。
ドアが閉まる。
若葉は袋を抱えたまま立ち尽くす。
胸が苦しい。
でも嫌な苦しさじゃない。
むしろ心地良かった。
若葉はゆっくり目を閉じる。
蓮といる時は楽しかった。
いつも賑やかで、毎日が刺激的だった。
でも。
樹といる時は違う。
静かで。
温かくて。
隣にいるだけで肩の力が抜ける。
そんな人は初めてだった。
安心。
その言葉がふと浮かぶ。
若葉は苦笑した。
恋なんてもうたくさんだと思っていたのに。
気づかないふりをしていたのに。
それでも。
橘樹という存在は、少しずつ若葉の心の中で大きくなっていた。
知らないうちに。
どうしようもないほど自然に。




