第4話 樹
蓮と別れてから一か月。
若葉は少しずつ日常を取り戻そうとしていた。
講義に出る。アルバイトへ行く。友人と食事をする。
やることは変わらない。
それなのに心の中にはぽっかりと穴が空いていた。
蓮を失ったことが辛いのか。
それとも、自分が信じていたものが壊れたことが辛いのか。
若葉自身にも分からなかった。
ただ一つ分かるのは、以前より一人でいる時間が増えたことだった。
恋人がいない。
放課後の予定もない。
帰る場所もない。
そう考えると胸の奥がざわついた。
そんなある日だった。
講義が終わり、若葉は学食へ向かった。
昼休みの学食は混雑している。
トレーを持ったまま空席を探して歩いていると、ふと一人の男子学生と目が合った。
「あ」
思わず立ち止まる。
見覚えがあった。
同じ学部の学生だ。
何度か講義で見かけたことがある。
黒に近い髪。整った顔立ち。派手さはない。
けれど不思議と目を引く人だった。
すると彼が向かいの席を指差した。
「席、空いてるよ」
若葉は少し驚く。
確かに空いている。
「ありがとう」
素直に礼を言って腰を下ろした。
彼は再び食事を始める。
それだけだった。
普通なら何か話しかけてくるかもしれない。
けれど彼は無理に会話を続けようとしなかった。
沈黙が流れる。
不思議と気まずくない。
若葉は少しだけ肩の力を抜いた。
しばらくして。
彼が味噌汁を飲みながら言った。
「藤沢さんだよね」
若葉は顔を上げる。
「知ってるの?」
「同じ学部だから」
さらりと言う。
それから少しだけ笑った。
「有名だし」
若葉は苦笑した。
「それ、あんまり嬉しくないかも」
「そう?」
「うん」
すると彼は少し困ったように笑った。
その表情が妙に柔らかくて、若葉もつられて笑ってしまう。
「俺、橘樹」
そう言って軽く頭を下げる。
「藤沢若葉です」
「知ってる」
思わず吹き出した。
それが樹との出会いだった。
それから二人は時々学食で顔を合わせるようになった。
同じ授業の日もある。帰り道が一緒になることもある。
友達というほどではない。
けれど顔を見れば話すくらいの関係になっていた。
ある日の帰り道。
若葉は駅へ向かって歩いていた。
夕暮れだった。
空は茜色に染まっている。
隣には樹がいた。
他愛もない話をしていた時だった。
突然スマートフォンが鳴る。
画面を見た瞬間、若葉の表情が曇った。
父からだった。
出たくない。
でも無視もできない。
若葉は小さく息を吐き、通話ボタンを押した。
数分後。
電話を切る。
気づけば肩に力が入っていた。
「大丈夫?」
樹が静かに聞いた。
若葉は反射的に笑う。
「大丈夫」
いつもの返事だった。
誰かに心配されると、ついそう言ってしまう。
けれど樹は頷かなかった。
「そう見えないけど」
若葉は言葉に詰まった。
優しい声だった。
責めるわけでもない。無理に聞き出そうとするわけでもない。
ただ心配している。
それだけだった。
若葉は視線を逸らす。
「ちょっと父親がね」
ぽつりと漏らした。
それ以上は言うつもりがなかった。
けれど樹は静かに言う。
「そっか」
たったそれだけだった。
慰めない。励まさない。決めつけない。
ただ受け止める。
若葉は少しだけ驚いた。
今までそんな人はいなかった。
「親なんだから」
「家族なんだから」
「そのうち分かり合えるよ」
そんな言葉を向けられたことは何度もある。
でも樹は違った。
若葉が話したことだけを受け取る。
それ以上は踏み込まない。
それが不思議だった。
駅へ着く。
改札の前で立ち止まる。
「じゃあまた」
若葉が言う。
樹は頷いた。
「また」
それだけだった。
若葉は改札を抜ける。
階段を上りながら振り返る。
樹はもう反対方向へ歩き出していた。
引き止めない。
追いかけない。
でも不思議と安心する。
若葉はその感覚に戸惑った。
蓮といる時は楽しかった。いつも賑やかだった。刺激もあった。
けれど樹といる時は違う。
静かだった。
穏やかだった。
そして何より、無理をしなくていい気がした。
その夜。
ベッドに横になりながら若葉は思い出す。
橘樹。
不思議な人だった。
話が特別面白いわけじゃない。
目立つタイプでもない。
なのに。
なぜか一緒にいると落ち着く。
まるで肩の力を抜いてもいいと言われているようで。
若葉は布団を頭まで引き上げた。
恋なんてもうたくさんだ。
そう思う。
それなのに。
また会えたら少し嬉しいかもしれない。
そんなことを考えている自分に気づく。
知らないうちに。
止まっていた時間は、少しずつ動き始めていた。
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