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帰る場所は、ずっとあなたの隣だった~あの頃の私は、優しい人を愛せなかった~  作者: 黒猫と珈琲


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第3話 壊れる前に

 違和感は少しずつ大きくなっていった。


 蓮からの連絡は以前より減った。会う約束をしても急にキャンセルになる。電話をかけても出ないことがある。


 それでも若葉は信じようとしていた。


 蓮は人気者だ。友達も多い。忙しいだけかもしれない。


 そう思わなければ、不安に飲み込まれそうだった。


 ある日の午後。


 講義が休講になった。


 若葉は蓮を驚かせようと思った。最近なかなか会えていない。だから少しでも顔が見たかった。


 蓮の好きなスイーツを買い、アパートへ向かう。


 インターホンを押す。


 返事はない。


 もう一度押す。


 やはり反応はなかった。


「出かけてるのかな……」


 そう呟いた時だった。


 部屋の中から笑い声が聞こえた。


 女の子の声だった。


 若葉の体が固まる。


 続いて聞こえたのは蓮の笑い声。


 聞き間違えるはずがなかった。


 胸の奥が冷たくなる。


 けれど不思議と驚きはなかった。


 どこかでずっと気づいていたのかもしれない。


 若葉は静かにその場を離れた。


 一歩ずつ歩く。


 何も考えられなかった。


 ただ胸の奥だけが冷たかった。


 気づけば駅前の公園にいた。


 ベンチに腰を下ろす。


 息が苦しい。


 涙は出なかった。


 代わりに、胸の中が空っぽになったような感覚だけが残った。


 その夜。


 蓮からメッセージが届いた。


『今日どうした?』


 たった一言だった。


 若葉は画面を見つめる。


 何度も文字を打っては消した。


 聞きたいことはたくさんあった。


 でも聞かなかった。


 聞いたところで、何かが戻る気がしなかったから。


 結局、


『何でもない』


 とだけ返した。


 返信は来なかった。


 数日後。


 友人に誘われた飲み会へ参加した。


 気分転換になるかもしれないと思ったのだ。


 会場は大学近くの居酒屋だった。いつもより人が多い。知らない顔もたくさんいる。


 若葉は隅の席でジュースを飲みながら笑顔を作っていた。


 その時だった。


「若葉」


 振り向くと蓮がいた。


 久しぶりだった。


 一瞬だけ胸が軽くなる。


 けれど、その感情はすぐに消えた。


 蓮の後ろには見知らぬ男たちがいた。


 どこか雰囲気が違う。目つきが鋭い。


 若葉を見る視線に居心地の悪さを感じた。


「こっち来いよ」


 蓮が笑う。


 若葉は首を振った。


「友達と来てるから」


「少しだけいいじゃん」


 昔なら、その言葉に笑ってついて行ったかもしれない。


 でも今は違った。


 その時だった。


 後ろの男が言う。


「彼女、可愛いな」


 若葉は背筋が冷たくなった。


 理由は分からない。


 けれど嫌だった。


 本能的に近づきたくないと思った。


 蓮は笑っている。


 何も気にしていない。


 若葉は荷物を持った。


「ごめん、今日はもう帰るね」


「え?」


「明日早いから」


 嘘だった。


 でもそこにいたくなかった。


 若葉は店を出た。


 夜風が冷たい。


 歩きながら考える。


 昔の蓮はこんな人たちと付き合っていただろうか。


 もっと明るくて。もっと自由で。


 少なくとも若葉を不安にさせる人ではなかったはずだ。


 見ないふりをしてきた違和感が、少しずつ形になっていく。


 そして、その日は突然やって来た。


 蓮の部屋だった。


 久しぶりに訪れたその日、蓮はシャワーを浴びていた。


 若葉は部屋で待っていた。


 その時、テーブルの上のスマートフォンが震えた。


 見ようと思ったわけではない。


 たまたま目に入っただけだった。


 画面に表示されたメッセージ。


『例のもの、今度持っていく』


 若葉は息を止めた。


 何のことなのかは分からない。


 けれど嫌な予感だけはした。


 これまで見て見ぬふりをしてきた違和感。


 夜中の電話。


 知らない人たち。


 急に増えた予定。


 大学へ来ない日。


 その全てが一本の線で繋がった気がした。


 胸がざわつく。


 嫌な汗が背中を伝う。


 父の怒鳴り声に怯えながら育った。


 普通の家庭が欲しかった。


 安心できる場所が欲しかった。


 だから必死だった。


 でも。


 このまま蓮の隣にいたら。


 自分はどこへ向かうのだろう。


 シャワーの音が止まる。


 若葉は立ち上がった。


 玄関へ向かう。


「若葉?」


 蓮が顔を出した。


 濡れた髪をかき上げながら、不思議そうにこちらを見る。


「帰るの?」


 若葉は振り返った。


 胸が痛かった。


 悲しい。


 苦しい。


 それでも。


 言わなければいけなかった。


「蓮」


「ん?」


 若葉は唇を噛む。


 そして静かに言った。


「別れよう」


 蓮の表情が止まった。


「は?」


「もう無理」


「何でだよ」


 若葉は少し笑った。


 泣きそうな笑顔だった。


「私ね」


 声が震える。


「ずっと不安だったの」


 蓮は黙っている。


「でも、それを上手く言えなかった」


 若葉は俯いた。


「蓮に嫌われるのが怖かったから」


 胸が痛む。


 本当に好きだった。


 だから言えなかった。


 だから我慢した。


 だから見ないふりをした。


「若葉……」


 蓮の声が少し揺れる。


 けれど若葉は首を振った。


「私ね」


 ゆっくり息を吐く。


「安心したかったの」


 その言葉に蓮は何も返せなかった。


 若葉は少しだけ笑う。


「ごめんね」


 沈黙が落ちる。


 それが答えだった。


 若葉は思う。


 蓮のことは本当に好きだった。楽しかった時間もあった。救われたこともあった。


 蓮の家で食べたご飯。


 蓮のお母さんの優しさ。


 何もかも嘘だったわけじゃない。


 でも。


 このままでは自分が壊れてしまう。


 だから離れなければならなかった。


 玄関のドアを開ける。


 背後から蓮の声が聞こえた。


「若葉!」


 足が止まりそうになる。


 けれど振り返らない。


 振り返ったら決意が揺らぎそうだった。


「元気でね」


 それだけ言って外へ出た。


 夕暮れの空が広がっている。


 頬を風が撫でた。


 胸は痛い。


 苦しい。


 それでも。


 ここに残ってはいけない。


 自分の人生を守らなければいけない。


 若葉はゆっくり前を向く。


 そして歩き出した。


 まだ知らなかった。


 この別れの先で。


 人生を変える出会いが待っていることを。


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