第2話 蓮
神谷蓮と付き合い始めるまで、それほど時間はかからなかった。
蓮は距離の詰め方が上手かった。
毎日のように連絡が来る。講義の合間に顔を出す。
「今何してる?」
「お腹空かない?」
「暇だから会おうよ」
そんな他愛もない言葉ばかりだった。
けれど若葉は嬉しかった。
誰かに求められることが。
誰かが自分を思い出してくれることが。
それが当たり前ではなかったから。
講義が終われば待ち合わせをする。一緒にご飯を食べる。休日になれば出かける。
蓮といる時間はいつも賑やかだった。
「海行こう」
ある日の夕方、突然蓮が言った。
「今から?」
若葉は目を丸くする。
「今から」
「もう夕方だよ?」
「だからいいんじゃん」
蓮は楽しそうに笑った。
「夕焼け見よう」
結局そのまま電車に乗った。
海へ着いた頃には空が赤く染まり始めていた。
潮風が頬を撫でる。
「こういうの好きなんだよね」
蓮は両手を後ろで組みながら歩く。
「思いついたらすぐ行くの」
「知ってる」
「楽しくない?」
若葉は少し考えた。
「楽しい」
素直に答える。
蓮は満足そうに笑った。
その笑顔を見ると、自分まで楽しくなる。
蓮はそういう人だった。
人を巻き込む力がある。若葉にはないものをたくさん持っていた。
付き合って一か月ほど経った頃。
蓮が言った。
「今日、うち来る?」
若葉は少し迷った。
けれど首を横に振る理由もなかった。
「うん」
そう答えた。
蓮の家は大学から電車で二駅の場所にあった。
一戸建ての住宅だった。
玄関を開けた瞬間、若葉は少し驚く。
「おかえり」
キッチンから女性の声が聞こえた。
蓮の母だった。
「ただいま」
蓮は慣れた様子で答える。
そして若葉の背中を軽く押した。
「母さん、彼女」
若葉は慌てて頭を下げる。
「はじめまして」
すると蓮の母は目を丸くした。
次の瞬間、ぱっと顔を輝かせる。
「あらまあ!」
若葉は思わず身を引いた。
「可愛い!」
第一声がそれだった。
蓮が呆れたような顔をする。
「母さん」
「だって本当に可愛いんだもの」
蓮の母は楽しそうに笑う。
若葉もつられて笑った。
その日の夕食は三人で食べた。
蓮の母が作った煮込みハンバーグだった。
温かかった。
食卓には笑い声があった。
誰も怒鳴らない。
誰も顔色をうかがわない。
ただ今日あった出来事を話しながらご飯を食べる。
それだけなのに。
若葉の胸は少し苦しくなった。
羨ましかったのだ。
こういう家族が。
食事が終わったあと。
若葉が皿を下げようとすると、蓮の母が慌てた。
「いいのよ」
「でも」
「お客様なんだから」
若葉は少し笑う。
「お客様じゃないです」
そう言うと、蓮の母も笑った。
「じゃあお願いしようかしら」
二人で並んで皿を洗う。
それが妙に楽しかった。
帰り道。
蓮が不思議そうに聞く。
「何か機嫌いい?」
若葉は少し考えて答えた。
「楽しかった」
蓮は笑う。
「それなら良かった」
その笑顔を見て、若葉も笑った。
蓮といる時間は楽しかった。
友達も多い。話も面白い。行動力もある。
若葉が知らない世界へ、どんどん連れ出してくれる。
いつしか若葉は蓮の家へ頻繁に通うようになった。
講義が終わる。蓮の部屋へ行く。夕食を一緒に食べる。
遅くなれば泊まることもあった。
家へ帰る回数はどんどん減っていった。
ある日。
父が酒に酔って怒鳴った。
理由は覚えていない。
本当に些細なことだった。
母は黙っていた。
若葉も何も言わなかった。
翌日。
講義が終わると、そのまま蓮の家へ向かった。
玄関を開ける。
「おかえり」
蓮の母が笑う。
その言葉を聞いた瞬間。
若葉の目に涙が滲みそうになった。
おかえり。
その一言が欲しかった。
ずっと。
ずっと昔から。
「若葉ちゃん?」
不思議そうに呼ばれて、若葉は慌てて笑う。
「何でもないです」
そう答えた。
けれど本当は泣きたかった。
安心したかった。
誰かに大丈夫だと言ってほしかった。
若葉は蓮の家にいる時間が好きだった。
蓮のことも好きだった。
それは嘘じゃない。
本当に好きだった。
だからこそ、この恋を失うことが怖かった。
だから気づかなかった。
少しずつ違和感が増えていることに。
最初は些細なことだった。
メッセージの返信が遅い。
会う約束を忘れる。
急に予定が入ったと言われる。
以前ならすぐに折り返し電話をくれたのに、それもなくなった。
「忙しいの?」
若葉が聞くと、蓮は笑った。
「まあね」
それだけだった。
若葉も深く追及しなかった。
追及するのが怖かった。
何かが壊れそうな気がしたから。
大学祭の日。
若葉は友人と校内を歩いていた。
ふと視線の先に見覚えのある姿が映る。
蓮だった。
隣には知らない女の子がいた。
二人は楽しそうに笑っている。
腕が触れるほど近い距離。
若葉は立ち止まった。
胸の奥がざわつく。
「どうしたの?」
友人が首を傾げる。
「ううん」
若葉は無理に笑った。
気のせいかもしれない。
そう思いたかった。
けれど。
その日の夜。
蓮からの連絡は来なかった。
翌日も。
その翌日も。
若葉はスマートフォンを見つめる。
既読のつかない画面。
嫌な予感が胸の奥で少しずつ形になっていく。
それでも若葉は見ないふりをした。
信じたかった。
蓮が好きだったから。
失いたくなかったから。
そして何より。
また居場所を失うのが怖かった。
窓の外では雨が降り始めていた。
若葉はスマートフォンを握りしめる。
まだ大丈夫。
きっと大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら。
胸の奥の不安だけが、静かに大きくなっていた。




