第1話 帰りたくない家
東京へ戻ってきて二週間。
六月の風が駅前の並木を揺らしていた。
藤沢若葉は駅ビルのガラスに映る自分の姿を見つめる。
ローズブラウンの長い髪。ゆるく巻いた毛先。白いブラウスにベージュのスカート。
昔とあまり変わらない。
そう言われることは今でも多かった。
「変わってないな……」
思わず苦笑する。
街は変わった。新しい店も増えた。知らない建物もたくさんできている。
それなのに、自分だけが昔のまま取り残されているような気がした。
若葉は近くの公園へ向かった。
平日の午後。
ベンチに腰を下ろすと、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。母親たちが談笑している。
穏やかな光景だった。
若葉はぼんやりと空を見上げた。
青空だった。
こんな日は、普通なら家に帰ってゆっくりしたくなるのだろう。
でも若葉は違った。
帰りたくない。
ふと浮かんだ言葉に、自分でも苦笑する。
この年になっても、それは変わらない。
若葉は昔から家が苦手だった。
父は酒を飲む人だった。
飲んでいない時は普通だ。仕事も真面目にする。外での評判も悪くない。
けれど酒が入ると変わった。
些細なことで怒鳴る。機嫌が悪い日は家中の空気が凍りつく。食事に文句を言う。テレビの音が気に入らないと怒る。
若葉はいつも父の顔色をうかがっていた。
玄関を開ける時は緊張した。
今日は大丈夫だろうか。
怒鳴り声は聞こえないだろうか。
そんなことばかり考えていた。
母はいつも父をかばった。
「お父さんも疲れているのよ」
「悪気はないの」
「本当は優しい人なんだから」
何度もそう言われた。
だから若葉は父を嫌いになれなかった。母を困らせることもできなかった。
けれど安心したことはなかった。
家族といるのに落ち着かない。誰にも本音を言えない。
そんな毎日だった。
だから若葉は外へ出た。
友達の家。
アルバイト先。
カフェ。
そして恋人の部屋。
誰かと一緒にいる方が楽だった。
一人が怖いわけじゃない。
帰る場所が怖かった。
スマートフォンが震えた。
大学時代の友人からのメッセージだった。
『日本に戻ったんだって?』
『今度みんなで集まろうよ』
若葉は思わず笑う。
十年ぶりの帰国だ。
懐かしい顔ぶれにも会いたかった。
『ぜひ』
そう返信する。
するとすぐに返事が来た。
『じゃあ来週ね!』
短い文章を見つめながら、若葉は小さく息を吐いた。
懐かしい。
その言葉と一緒に、一人の男性の顔が浮かぶ。
橘樹。
大学時代の友人。
恋人ではなかった。
けれど若葉が人生で一番安心できた人だった。
そして。
自分が逃げた人でもあった。
若葉は目を閉じる。
思い出すのは十年前の夏だった。
◇◇◇
大学二年生だった頃。
若葉は自由になったと思っていた。
家を出れば父はいない。怒鳴り声も聞こえない。誰にも縛られない。
そう思っていた。
けれど実際は違った。
家から離れても、心は何も変わらなかった。
講義が終わる。
友人たちは帰っていく。
「若葉、また明日ね」
「うん、またね」
笑顔で手を振る。
一人になる。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
帰りたくない。
まだ夕方なのに。
まだ父が帰宅していない時間なのに。
それでも家へ向かう足は重かった。
だから若葉はいつも誰かといた。
友達とご飯を食べる。カラオケへ行く。飲みに行く。終電近くまで街を歩く。
誰かが隣にいるだけで安心した。
そんな若葉は目立った。
ローズブラウンの長い髪。大きな瞳。華やかな笑顔。
男の子から声をかけられることも多かった。
けれど若葉は恋がしたかったわけではない。
ただ、必要とされることが好きだった。
誰かに求められると嬉しかった。
自分にも価値があるような気がしたから。
だから誘いを断るのが苦手だった。
大学二年の夏。
神谷蓮と出会った。
「藤沢若葉ちゃん?」
突然声をかけられて振り返る。
そこにいたのは学内でも有名な男子学生だった。
茶色の髪。整った顔立ち。少し悪戯っぽい笑顔。
誰とでも仲良くなれる人気者。
「そうだけど?」
若葉が首を傾げる。
すると彼は少し嬉しそうに笑った。
「やっと見つけた」
「え?」
「思った通り可愛い」
あまりにも自然に言われて、若葉は吹き出した。
「何それ」
「褒めてる」
彼は悪びれもなく笑う。
若葉もつられて笑った。
その笑顔は眩しかった。
自由で。
明るくて。
危なっかしいのに、なぜか目が離せなかった。
「俺、神谷蓮」
そう言って差し出された手を、若葉は何となく握った。
それが始まりだった。
当時の若葉は知らなかった。
この恋が、自分を救うことになることも。
傷つけることになることも。
そして。
本当に大切な人との出会いが、まだ少し先に待っていることも。
その人が、自分の帰る場所になることも。
◇◇◇
六月の風が吹く。
若葉はゆっくり目を開いた。
十年前。
あの頃の自分は必死だった。
愛されたかった。
必要とされたかった。
帰る場所が欲しかった。
けれど。
本当に欲しかったものが何だったのか。
あの頃の若葉は、まだ知らなかった。
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