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怪しい男を招き入れた時はどうなることかと思ったが、ハロルドは見た目が怪しいだけで悪さはしなかった。小鳥も無事に巣立っていき、ウィロウ家の財政が少し改善されるおまけ付きであった。こうして不審者騒動もひと段落し、ウィロウ家には穏やかな日常が戻った……はずだった。
夏が近くなり、夕方でも汗ばむくらいの気温になってきた。セドリックはふうと息を吐きながら、屋敷へ帰る道を歩いていた。玄関をくぐろうとした時、何故か屋内から犬の鳴き声が聴こえてきたのであった。
「セドリック様! お帰りなさいませ。お仕事お疲れ様でした」
グレースは明るく出迎えてくれる。それは毎日の事になっているので良いとして、彼女の腕の中には今朝まで存在しなかったはずの毛玉がいた。
「……グレース。それは……?」
「子犬ですわ!」
そうだろう。どこをどう見ても、茶色の毛玉は犬である。しかしセドリックが聞きたいのは、そこじゃない。
「どうしたんだその子犬は」
「お散歩に出かけた時に、川で流されているのを見つけたんです」
「川だと……もしかして入ったのか?」
セドリックの声音は低くなり、眉間には皺が刻まれる。だがグレースは気付かないまま、話を続けてしまった。
「はい。流れも緩やかで浅かったですし、今にも溺れそうな子犬を見たら、いても立ってもいられなくて……濡れたのは膝から下だけでしたが、みっともない姿になっていたかもしれません」
どうやらグレースは外で無様な格好を晒してしまった事を気にしているようだった。水に濡れた衣服が肌に張り付くのは、貴婦人にとって恥ずかしい事である。
しかしセドリックが怒りを露わにしたのは、そんな事ではなかった。
「危険だとは思わなかったのか!?」
セドリックは滅多に声を荒げることのない男だ。結婚の話を聞いた時は声がひっくり返りもしたがそれは別として、最後に怒鳴ったのはいつだったか。たとえ怒りに火がついても、燃え広がらないように対応する自制心がセドリックには備わっていた。だが鉄のような男でも、抑えきれないことはある。
「川は危険なんだ。緩やかに見えても、浅瀬だと思っても足をとられて溺れることがある。それなのにドレスのまま川に入るなんて自殺行為だぞ!」
目の届かないところで、グレースの命が危険に晒された。その恐怖心に突き動かされたセドリックは、自分を抑えられずに大声で叱っていたのだった。
注意するにしても言い方というものがある。特にセドリックは威圧感のある見た目をしているから、本気で怒鳴るとそれはそれは凄い迫力であった。あのエイダでさえ気圧されてしまって数秒間、硬直したほどである。
「……申し訳ありません」
真正面から怒鳴り声を受けたグレースは、粛々と謝った。その顔にはもう笑みなど無かった。
「わたしが無知でした。無断で子犬を連れてきたことも謝罪いたします。本当に申し訳ありませんでした」
彼女の腕の中にいる子犬は突然の出来事に体を震わせて、縮こまっている。けれどもグレースは震えていなかった。言い訳はせず、自分の非を認めて頭を下げるのだった。
「……少し頭を冷やしてくる」
幾度も彼女に謝られたセドリックは、その場から逃げ出していた。人前で自分の感情を制御できない事など、今までに一度もなかった。彼の人生にだって大なり小なり波乱はあったし、父が急逝した時は泣き暮れたが、どんな時も人目がある限りは忍耐してきたのだ。セドリックはどうして自分がこれほど感情的になっているのか、その意味を飲み込むことができずにいた。
屋敷には痛ましい静寂が残った。硬直のとけたエイダは、すぐさまグレースのもとへ駆け寄る。
「グレース様っ、大丈夫ですか」
「エイダ……ごめんなさい。あなたは止めてくれたのに。言う事を聞かなかった、わたしの自業自得だわ」
カイルもまた、主人の豹変に驚いていた。カイルが堂々と昼寝しても、ぶつくさ文句を垂れても、セドリックが怒ることなど決してなかったからだ。グレースが来てから度々おかしな言動をとるようにはなったものの、あんなに感情を乱すところは初めて見た。
「やっちまったもんはしょうがないっす。失敗したら次に生かすだけですよ」
カイルはできるだけ軽い調子で言った。重苦しい空気を少しでも和らげたかったのである。
「……ありがとう。でもどうしましょう。セドリック様、お疲れでしょうに夕食も摂らずに出て行かれて……わたしの足で追いつけるかしら」
「馬の足でも無理ですよ。大人しく待っておけば大丈夫ですって。旦那様は図体がデカいぶん、頑丈だから夕食を抜いたくらいで倒れませんよ」
「そんな……わたしのせいで夕食抜きなんて! やっぱり追いかけたほうが、」
グレース達が揉めていると、セドリックが戻ってきた。出て行ってから五分も経っただろうか。それでも彼が冷静さを取り戻すには充分だったようだ。
それにしても夜道を全力疾走なんかするせいで、彼は汗だくだった。
「すまない」
今度はセドリックが頭を下げた。まるで騎士のお手本みたいな一礼である。
「どんな理由にせよ、あんな風に怒鳴るべきではなかった。申し訳ない」
「考え無しだったわたしが全部悪いのです! セドリック様は一つも悪くありませんわ!」
「いや、女性に対し大声で威圧するなど言語道断だ」
後ろの方ではエイダが「酷い夫」の話はどこにいったのかと小声で呟く。カイルもまた「最初から迷子ですよその夫は」と呟き返すのだった。
「どうか気になさらないでください、わたしのこと、真剣に心配してくださったのですよね? 関心がない相手を叱ったりしませんもの。だからわたし、少し嬉しくて……いえ、それは不謹慎ですね。わたしは反省すべきですが、セドリック様が気に病むことはありませんわ」
「……小さな命を救った行いは尊いが、あまり危ないことはしないでくれ」
「はい。もっとよく考えて行動します。今度、同じようなことがあれば、まず人を呼んで協力を求めるようにしますわ」
「そうだな。それがいい」
一件落着の頃合いを見て、カイルは「夕食にしましょう」と言った。すると、それに応答するかのように、セドリックの腹の虫が情けない声を出すのであった。
「ほら、やっぱり夕食抜きはいけないわ、カイル」
グレースが微笑ましく目を細めるものだから、セドリックは恥ずかしくなって無言になった。けれど心の中では「夕食抜きとは何の話だ」と疑問を抱いていた。
しかしながら問題が一つ残っている。グレースが拾ってきた子犬の処遇である。子犬を家族に迎えたいと望むのであれば、セドリックは反対しないつもりだった。彼は小動物が苦手なだけで、決して嫌いではない。だがグレースの意見は違うようだ。
「首輪はしていませんでしたが、人慣れしていますし、毛艶も良いですわ。大切に可愛がっていた飼い主さんが、きっといらっしゃるはずです。引き離されたままでは可哀想ですわ」
彼女がそう言うのならば、セドリックも異論はない。飼い主を探して子犬をお返ししよう、という事に決まった。
セドリックは机の上に地図を広げる。
「子犬を拾ったのはどのあたりだ?」
「ここだったかしら? エイダ」
「グレース様、そこは川ではありませんよ。子犬がいたのはこの辺です」
「ここか……ならば上流へさかのぼりながら探すべきだな」
「上流というとこっちですね!」
「……そっちは違うな」
「あら? 上流って北ではないのですか?」
「君が指差しているのは西だが……」
「あのー、もしかして奥様って、ほ……」
方向音痴ですか、と言いかけたカイルだったが、寸でのところで続きを飲み込んだ。エイダに睨みつけられたからである。方向音痴は事実らしいが、グレースの前で言ってはならないらしい。
「セドリック様はお忙しいと思いますので、飼い主探しはわたしにお任せください! そもそもわたしが拾ってきたんですもの。最後まで面倒をみる責任がありますわ!」
カイルはセドリックが苦虫を噛み潰したような顔をするのを目撃していた。無理もない。極度の方向音痴に任せたら、二度と屋敷に帰ってこないかもしれないのだ。貴族の夫人が行方不明だなんて、笑えない冗談である。
「……君は子犬の世話に専念してくれ。川に落ちたせいか、少し元気がないように見える」
子犬はグレースの腕の中で、大人しく抱かれたままだ。セドリックはこういう小さな生き物に触るのが怖いので、世話を頼みたいのも本音ではある。
こうしてグレースは子犬の世話係に、セドリックは飼い主探しの担当になった。グレースはこれまでにも動物を拾ってきたことがあると言い、犬の世話も経験しているそうだ。いざとなればカイルとエイダも手伝うだろうし、子犬の方は恐らく問題ない。
難航しそうなのは飼い主探しの方だった。この港町に飼い主はいないのではないか? というのがセドリックの見解である。ペットを愛でるのは大抵、それができるお金を持っている人間だ。セドリックを含め、慎ましい生活をしているこの町の住人は条件に当てはまらない。となれば、飼い主は他の町に暮らす貴族か商家という事になってくる。
セドリックは頭を掻いた。「サンダーソン伯に相談だな」と。何から何まで頼りきりで心苦しいが、貧乏貴族のセドリックには人脈など無いに等しい。伯爵の付き添いで出掛けた際、他貴族との交流のついでに飼い主探しをする以外、妙案は思いつかなかった。
「家族と離れ離れは寂しいわね」
けれどセドリックは彼女の気遣わしげな声を聴くと、どうしても放っておけなかったのだ。
難航するかと思われた飼い主探しであったが、思いのほか早く見つかった。手紙を受け取ったセドリックは、喜びや安堵よりも先に、驚きで飛び上がった。差出人がラインミュラー侯爵家となっていたからだ。世情に疎いセドリックでさえ名前だけは知っている、有力貴族である。
「飼い主が見つかったのですね! 良かったですわ!」
一方でグレースはよく知らないらしく、素直に喜びをあらわにするだけだった。
「その侯爵家はどちらにあるのでしょう?」
「三つ隣の町だな」
「まあ……随分と遠いところから流されたのですね。大冒険ですわ!」
グレースが正しく距離を測れているかは甚だ疑問だが、遠いのは間違っていない。
「その子犬はラインミュラー候のご息女の愛犬だそうだ。散歩中に脱走してしまったらしい」
「そうでしたか。ご令嬢もさぞかし心配だったことでしょう」
「ああ。数日中に迎えに行くと書いてある。使いの者が来るだろう」
セドリックの誤算は使者ではなく、ラインミュラー家が総出で訪れたことである。まさかこんな田舎町の貧乏屋敷に、侯爵ご夫妻と幼いご令嬢が来るなんて、誰が予想しただろうか。
上品で立派な格好をした貴人が、古ぼけた玄関に立っている……そんな光景にセドリックは自身の目を疑った。
「マロンちゃん……!」
幼いニーナ嬢が、一目散にグレースへ飛びついた。正確には腕の中の子犬に、である。女児に子犬という、セドリックからすれば苦手の塊がうごめいているが、グレースは落ち着いたものである。ニーナ嬢の身長に合わせてしゃがみ、マロンと呼ばれた子犬を優しく手渡すのだった。
「マロンちゃんと仰るのですね。とっても可愛くて、お利口さんでしたわ。ニーナ様の素敵なお友達なのですね」
ニーナ嬢は泣きべそをかいていたが、愛犬が手元に戻った事と、グレースの温かな笑顔に安心したようだ。涙を拭いてから、たどたどしく「ありがとう」とお礼を述べた。続いて侯爵夫妻も頭を下げる。
「子犬がいなくなってからというもの、娘が毎晩泣いて恋しがるもので……どうしたものかと、我々も参っていたのです。本当になんと感謝を申し上げて良いのやら……」
「ありがとうございました。少ないですが……こちらはお礼です。どうぞお納めください」
夫人が差し出したのは金貨であった。しかしいくらなんでも多すぎる。まばゆい黄金の輝きに、セドリックはおののいた程だ。彼はしどろもどろになりながら辞退の旨を言い表し、グレースもまた「お気持ちだけで」と断った。
「その金貨はマロンちゃんのために使ってくださいませ。この辺りに獣医さんがいらっしゃらなくて、素人のわたしがお世話していただけなんです。長いことお水に浸かっていたはずなので心配ですわ」
「しかしそれでは我々の気持ちがおさまりませんので……」
するとグレースは本当に嬉しそうな顔で言うのだった。
「ご家族との再会をお手伝いできたことが嬉しいのです。それだけで充分ですわ。ね? セドリック様」
「彼女の言う通りです」
侯爵夫妻はたいへん感銘を受けた様子だった。だが、やはり何もしないのは気が咎めると粘り、金品を受け取ってもらえないのであれば、ぜひ我が家にご招待させてほしいと提案してきた。
「隣町には我が家の別荘があります。そちらでぜひ、おもてなしさせてください」
「そうですわ。こうして出会えたのも何かの縁です。どうぞ遊びにいらしてくださいませ」
だめ押しとばかりに、ニーナ嬢がグレースの手を握る。
「……マロンちゃんといっしょにあそびましょ?」
この可愛らしいおねだりには、グレースも思わず頷いてしまった。ちなみにニーナ嬢はセドリックが怖いのか、一度も視線が合わない。何なら子犬も最後まで懐くことはなかった。
「ああ良かった。日程につきましては後日、手紙にてお知らせいたします」
笑顔で手を振る侯爵ご一家。子犬の件は無事に解決しても、予想外のことはまだ続くらしい。




