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 舞踏会の翌日。朝食の席は静かだった。朝から陽気に喋るグレースが、打って変わって静かだからである。昨夜の大失敗を引きずっているのだろうか。しかしそれにしては顔色が悪い訳でもないし、哀愁が漂うこともない。ただ時折、彼を澄んだ目で見つめるのだ。

 セドリックに女性の心の機微など悟れるはずもなく、黙りこくる以外にできることがなかった。


「奥様。お疲れっすか?」


 奇妙な空気であることがセドリックみたいな唐変木にも感じられるのだから、一般人のカイルなら尚のことわかる。それでもあえてカイルは普段通りを装う。話しかけられたグレースもすぐに応じた。


「いいえ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

「今日は気分転換に出かけたらどうっすか? ここんところ、ずっとお部屋で練習なさってたでしょう」


 グレースは表情を明るくしかけたものの、急いで口元を引き締めてしまう。


「まだ練習しなければいけない事が山ほどあるの。ダンスはもちろんだけれど、お勉強もお裁縫も及第点に届いていないから」


 カイルはそれ以上、強引に勧めることはできなかったが、代わりにエイダが口を挟むのだった。


「根を詰めすぎるとかえって効率が落ちますよ。グレース様。この一ヶ月、頑張ったのですから、半日ほど気分転換に使ってもよろしいかと思います」


 次にエイダが無表情を向けたのはセドリックであった。彼の肩がぎくりと跳ねるのは、もはや条件反射だ。


「当主様。グレース様は散歩がお好きです。本日は休暇だとうかがっておりますので、グレース様にこの町を案内していただけませんか」

「エイダ、いけないわ。セドリック様のお手を煩わせるなんて!」


 グレースは申し訳なさそうにしているが、エイダのほうは堂々たるものだ。


「カイルさんに案内を頼んでも構いませんが? 嫁いだばかりの妻をほったらかして屋敷で寛ぐ夫と周知されても良いのですか? 外で立派な夫を演じられないのに、グレース様には『お飾り』などと強要するのですか?」


 怒涛の追及にセドリックどころか、その場に居合わせただけのカイルまで冷や汗をかく。声を荒げて怒る人間より、静かに怒る人間が恐ろしいのは本当だった。いつまで黙りこくっているんだと言わんばかりに睨まれたセドリックは、おろおろするグレースの名を呼んだ。


「グレース。僕で良ければ町を案内しよう」

「本当によろしいのですか? せっかくのお休みですのに……」

「ああ。家の中でじっとしているのは得意じゃないから構わない」


 今度こそグレースの表情に光がさして輝いた。


「嬉しいですわ! わたしが住んでいた町には海がなかったものですから、港町で暮らせると聞いて楽しみにしていたんです! 港というものをいつか見に行くことができたらと思っていたのですが、セドリック様が叶えてくださるのですね!」


 ここで生まれ育ったセドリックにとって、港なんて珍しいものでも何でもない。ましてやお嬢様育ちの女性が興味を持つなんて思いもしなかった。けれどグレースがこんなに喜ぶのなら、もっとはやく案内してあげれば良かったとセドリックは後悔した。そして自分が後悔したことに驚くのだった。「酷い夫」になると言っておきながら、妻の喜ぶことをしてどうする。


「カイルとエイダもありがとう。わたし、気合いを入れて気分転換してくるわ!」

「気合いを入れちゃあダメっすよ」

「肩の力は抜いてください。グレース様」


 だが心底嬉しそうな笑顔を見てしまうと、セドリックの心の声は「これでいい」とすぐに訂正してしまうのだった。


 朝食の静けさが嘘のように、グレースは次から次へと質問してきた。港を訪れる船の数、大きさ、そこで働く人々について等々、興味が尽きないようだ。いざ港が見えてくると彼女はいっそう声を弾ませる。


「水面がキラキラして、なんと美しいのでしょう! 船もたくさん到着していますわ! 近くまで行っても良いのでしょうか?」

「大丈夫だ。行こう」


 片田舎の町で、この港は最も盛況な場所だ。漁を終えた船が戻り、日に焼けた男達が忙しく働いている。獲れたばかりの魚介類を求め、老若男女が元気に値切りの交渉をする。初めて目にする光景に、グレースは好奇心を抑えきれなかった。うずうずする彼女を連れて、少し市場の中を回ろうと考えた矢先、セドリックは声をかけられた。


「おや、若旦那様ではありませんか。今日は視察の日でしたかな」


 領主の手伝いで商業組合にも出入りしているセドリックは、商人にも顔を知られていた。声をかけてきた男は組合長で、よく見知った間柄である。


「いや、視察じゃない。今日は……つ、妻の付き添いだ」


 セドリックが口ごもりながら答えると、組合長はとても驚いたようだった。二人はまだ結婚式を挙げていないし、わざわざ口外してもいなかったため、ここの領民は知らないでいたのだ。


「なんとまあ! いつのまにご結婚なされたので!?」

「先月ですわ。初めまして。グレースと申します」


 グレースがお辞儀をすると、相手はますます驚いていた。上品な帽子をかぶった貴婦人が、小さな港に現れたことなど、過去に一度もない。しかも親しみのこもった笑みを浮かべているときた。グレースの振る舞いは、庶民が想像する貴婦人とはかけ離れていた。


「こりゃあどうも、ご丁寧に……」

「今日はこちらの港をぜひ見てみたくて、セドリック様に案内していただいたのです。港って初めてでしたけれど、活気に溢れて素晴らしいところですわね。何と言っても皆さんのお顔が生き生きしているのが素敵ですわ!」

「これは嬉しいことをおっしゃる。そうなのですよ。町は活気が一番ですから」


 朗らかに話すグレースの調子に引っ張られたのか、相手の男も次第に緊張を解いていった。商人なだけあって話術は得意だった。二人で話し込んでいると、遠巻きに見ていた領民達が近付いてきた。グレースの服装は目立つのだろう。最初は恐る恐るといった感じで話しかけるのだが、気取ったところのないグレースとすぐに打ち解けている。彼女がたくさんの船を初めて見たと話せば、漁師達はこぞって自慢したがる始末であった。


「若奥様! オレの船は一番デカいんです! 良かったら乗ってみませんか?」

「あいつの船は古いから、お召し物が汚れます。俺の船へどうぞ! 若奥様。買ったばかりの新しい船です」

「こいつ、掃除がなってないからやめたほうがいいですよ。その点、ぼくは綺麗好きなので安心してください。さあ若奥様、こちらへ」


 という具合で、いつのまにか彼女はセドリックの隣からいなくなっていた。その場に残っていたのはセドリックと、最初に声をかけてきた組合長だけだった。


「若旦那様は良いお嫁さんを貰いましたな」

「……ああ」


 少しの世間話と仕事の話をしている間に、セドリックの視界からグレースの姿が消えていた。先ほどまで漁師達の船自慢を楽しげに聞いていたはずだった。ところが船の近くに彼女の姿はない。セドリックは慌ててグレースを探しに走った。


 グレースを見つけた時、彼女は何故か婦人達に混じって貝の選別を手伝っていた。


「……何をしているんだ?」


 謎に思って質問すれば、彼女は良い笑顔で教えてくれた。


「わたしはムール貝より大きな貝を見たことがなくて、ちょっと触ってもいいかお聞きして、皆さんのお仕事に混ぜていただいたんです! こちらの貝は半分に割ってから販売するそうですよ。わたしも挑戦していたのですが、なかなか難しいです」


 彼女が殻のこじ開け方を真剣に話すので、セドリックもつられて真面目な面持ちで耳を傾けていた。この知識が今後、どう役に立つかは不明だ。


「あと興味深いお話もお聞きしたんですよ。こちらの港には昔、海賊が現れたんですって。セドリック様はご存知でした?」

「ああ。実際に見たことはないが」

「それがですね、こちらのお婆様は子供の時分に見かけたことがあるそうですよ! つい色々とお聞きしてしまいました。眼帯は身につけていなかったらしいです」

「なぜ眼帯……?」

「二十年ほど前に海上の防衛が強化されてからは、徐々に見かけなくなったそうですから、貴重な経験談でしたわ」


 グレースは婦人達の輪の中にすっかり溶け込んでいた。女同士だから余計に話が弾んだのかもしれない。それは良いのだが、セドリックはグレースの手元が心配だった。貝殻をこじ開ける手つきが危なっかしいのである。一生懸命なグレースと、横ではらはらするセドリックを、婦人達は愉快そうに眺めていた。

 硬い殻に苦戦するグレースを見かねて、セドリックはとうとう手出しした。彼女の手の上から少し力を乗せる。彼の腕力をもってすれば、貝殻など余裕であった。


「ありがとうございます! セドリック様の手は大きいですね」


 彼女に言われて、セドリックは手を重ねていた事に気がつく。途端に動悸がして、顔中が熱くなり、グレースから視線を逸らした。彷徨う視線はやがて、貝の中身に固定されるのだった。


「グレース、それは……」

「えっ? 何かありましたか?」


 こじ開けた貝の中には白い玉が鎮座していたのである。


「あれまあ! 珍しい! 真珠じゃありませんか!」


 恰幅のよい婦人が歓声を上げた。グレースが持っていた貝には、なんと大粒の真珠が入っていたのだ。ごく小さい欠片のような真珠が出てくることはあっても、これほど見事な真珠は滅多にお目にかかれないらしい。婦人達はかわるがわるグレースの手元を覗き込んだ。


「希少なものが見れて良かったですわ。こちらの貝を獲ったのはどなたでしょう? 真珠はその方にお返しします」

「若奥様が見つけたんですから、貰っておけば良いんですよ。誰も文句なんて言いませんから」


 婦人達は気前が良かった。それだけでなく、ここの領民はウィロウ家の困窮を知っていた。裕福な暮らしをしていないのは婦人達とて同じだったが、それでも皆、グレースに持っていってほしいと願ったのである。


「でもこの貝は売り物です。中身を勝手に持ち去るのはいけませんわ。皆さんのご厚意はとても嬉しいのですが、やはり持ち主にお渡ししませんと」


 グレースは優しい口調で、しかしきっぱりと告げた。すると奥に座っていた老婆が口を開いた。


「若奥様。その真珠はきっと海の神様が、お二人の結婚を祝福なさって贈ったもの。我々が奪う真似はできません」


 老婆の言葉に頷いたのはセドリックであった。


「お言葉に甘えるとする。しかし無償というのもやはり気が引けるので、この貝は買い取ろう」

「まいどあり、若旦那様」

「セドリック様、お金はわたしが……」

「若奥様、ここは夫を立てるところですよ。せっかくいらしたのですから、他にも買い物をしていってくださいませ。その方が我々も助かりますゆえ」

「そうだな。そうしよう」


 グレースは美しい真珠を見下ろした。その横顔は「余計の出費」を気に病んでいたのかもしれないし、皆の親切を噛み締めていたのかもしれない。


「若奥様。あなた様にはきっと良い事がありますよ」


 ハッと顔を上げたグレースは、老婆の慈悲深い笑みを見た。そして自身も優しい笑みを相手に向けるのだった。


「感謝します。この真珠は今日の思い出として大切にしますね。皆さん、本当にありがとう」


 グレースは真珠を丁寧に丁寧に、ハンカチに包む。その所作だけで彼女の真心が伝わってくる。婦人達も嬉しそうだったし、セドリックも知らず知らずのうちに目元を緩めていた。


 半日だけ気分転換するつもりが、二人が屋敷に戻ったのは夕暮れ前であった。セドリックに改めて感謝を述べる彼女の顔に、憂いはもう残っていなかった。

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