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 仕事で日中は留守にしているセドリックには、グレースが屋敷でどう過ごしているかわからない。けれども珍しいことに、この日はカイルが教えてくれたのである。なんでも二階から絶えず物音が聞こえるようになったらしい。


「バタン、バタン! って結構な音がしてますよ。俺、ワルツとか知りませんけど、意外に荒々しい感じっすか?」


 セドリックとて、そんな荒々しいワルツは存じない。いったい二階で何が起きているのか、途端に心配になった。

 あくる日、グレースがおでこに湿布を貼って現れたものだから、セドリックは仰天した。おでこを凝視されていることに気付き、グレースはきまりが悪そうに苦笑する。


「これですか? よろめいた拍子にクローゼットで打ってしまったんです。お恥ずかしい限りですわ」

「だ、大丈夫なのか?」

「はい! 問題ありませんわ。ちょっと赤くなっただけですのに、エイダったら心配性なんです」


 その現場を見た訳ではないので、セドリックは想像するしかなかったが、たぶん彼女は派手な音を響かせた気がする。

 それからもグレースは腕に青痣を作ったり、貼られる湿布の枚数を増やしたりして、セドリックを冷や冷やさせた。しかしながら苦手を克服したという、良い報告は一向に聞こえてこなかった。


 特訓の成果がどうなったか不明なまま、舞踏会の当日を迎えた。移動手段は基本徒歩だが、今夜はサンダーソン伯爵が馬車を手配してくれた。セドリック一人なら徒歩でも構わないが、グレースを会場まで歩かせる訳にはいかない。

 夜会用のドレスを着たグレースはほんの少し浮かない顔だ。その顔から察するに、悲惨だと話していたダンスに大きな変化は起きなかったのかもしれない。


「わたし、ちゃんと『お飾りの妻』を遂行できるでしょうか」

「……人前でその単語は出さないように」

「はい! 心得ておりますわ。正しく飾られたいと思います」

「グレース嬢、飾るとかそういう事もだな……」

「あら、セドリック様。わたしはお飾りとはいえ妻ですわ。嬢だなんて言わず、グレースとお呼びくださいませ」

「わかった……」


 本当にもう色々と心配であった。適当な理由をつけてダンスは避ける方向でいこうと、セドリックは決めた。


 先に会場に到着していたサンダーソン伯爵が、二人を温かく歓迎してくれた。セドリックの堅苦しい挨拶を笑って流してから、伯爵はグレースに話しかけるのだった。


「ようこそグレース殿。こちらの暮らしには慣れたかな」

「お気遣い感謝いたします。ようやく伯爵にご挨拶できて嬉しいです。わたしはどこでも眠れるたちですので、ご心配には及びません。セドリック様もとても親切にしてくださって、何の不満もありませんわ」


 グレースの笑顔は「お飾りの妻」としての演技には見えなかった。本心から出た言葉であろう。セドリックは罪悪感が湧き出て、居心地が悪い思いをした。


「私には二人の結婚に口出しした責任があるからな。相談にはいつでも乗ろう。グレース殿もぜひ頼っておくれ。彼と喧嘩したら私に言いなさいね」


 サンダーソン伯爵は孫を眺めるような眼差しで、グレースを見つめていた。不用意に「お飾りの妻」などと口を滑らそうものなら、セドリックは明日の太陽を拝めなくなりそうだ。だが彼女が言いつけを守り、怪しまれるような言動はとらなかったので命拾いした。

 その後、皆に紹介されたウィロウ夫妻は拍手とともに迎えられ、お披露目はつつがなく済んだ。しかし新婚夫婦に話しかける者は少なかった。貧乏貴族にお世辞を贈っても、何の得にもならないからだ。


「すまない、グレース殿。少しセドリックを借りていく。心ゆくまで楽しんでおくれ」

「はい。ありがとうございます」


 セドリックは領主に付き添い、商談をして回る必要があるようだ。お仕事であればグレースの出る幕はない。彼女はそっと端の方へ移動し、コーデュロイが張られた長椅子に腰を下ろした。

 グレースは舞踏会に参加したことがなかったから、目に入るもの全てが新鮮だった。この光景をできるだけ正確に覚えて、エイダに話してあげよう。そう思って、グレースは観察するのに勤しんでいた。

 ひとしきり観察すると折よく、若い令嬢が三人ばかり近付いてきた。にこやかに「ごきげんよう」と挨拶を受けたグレースは、立ち上がって返答する。


「皆様、初めまして。グレース・ウィロウと申します。以後、よろしくお願いいたしますわ」

「歳の近い方が増えて嬉しいですわ」

「私は隣町で暮らしていますのよ。小さいですが歌劇場がありまして、初夏の頃に有名な劇団が巡回予定なのです」

「グレース様もご一緒にいかがかしら」


 最初、令嬢達は友好的な雰囲気だった。ところが次第に冷笑が入り混じるようになる。


「セドリック様って背が高くていらっしゃるでしょう? 並んでいらした時、妹さんかと思ってしまいましたわ」

「もう少し踵の高い靴をお履きになったほうが良いかもしれませんね。グレース様の故郷では、そういう格好が流行りなのかしら」

「二人ともおよしなさいな。靴なんて、食べ物より重要ではありませんわよ」


 令嬢達の言葉の端々には毒があった。というのも彼女達は、硬派でたくましい体躯のセドリックに密かな憧れをもっていた。彼が貧乏でなかったなら。結婚の許しを親に請うていたはずだった。それを地味な小娘に横取りされたとなれば、当然おもしろくない。


「アドバイスに感謝します。ですが踵の高い靴が苦手でして、転びそうになってしまうのです。それに仰るとおり、わたしは靴よりも食材を買いたいですわ。ウィロウ家の料理人は腕が良いのです! 次はどんな美味しい料理を作ってくれるのか、毎日楽しみなんですよ。手持ちの靴はまだまだ履けますから、大事に使いたいと思います」


 しかしながらグレースに遠回しの嫌味は効果がなかった。いや、そもそも嫌味だということに気が付いていない。清らかな笑顔に、令嬢達は一瞬、怯んだ。


「と、ところでご主人はどちらに?」

「セドリック様は領主様とご一緒ですわ」

「でしたらグレース様だけでも踊っていらしたらいかが? ずっとお待ちになるのも退屈でしょう?」

「いえ、わたしは踊るのが苦手ですので、退屈ということはありませんわ」


 苦手があると聞いて、黙っている令嬢達ではない。彼女達の目が意地悪く光った。


「あら、舞踏会で踊らないなんて無作法ですわ。高慢で礼儀知らずだと思われてしまいますわよ」

「えっ!? そういうつもりではないのです!」


 グレースは大いに慌てた。セドリックの「お飾りの妻」が、高慢で礼儀知らずだなんて思われたら由々しきことである。


「ダンスが苦手でしたら、得意な殿方にリードしていただくと良いですわよ。ちょうど私の弟が得意でして、ご紹介して差し上げますわ」


 グレースは迷った。踊るか踊らないか、どちらを選べばセドリックが恥をかかないのか。結局、彼女の下した決断は、相手の親切を無下にするのは良くない、というものであった。


 サンダーソン伯爵の知人からお祝いの言葉を頂戴していたセドリックは、会場の雰囲気がおかしいことに気付いた。軽く見渡せば、招待客達が何かを指差して笑っている。そこに誰かを小馬鹿にするように。あるいは非難するように。

 妙な胸騒ぎがしたセドリックは断りを入れてからその場を離れた。人々が笑っていたものを見つけた瞬間、彼の心臓は凍りついた。


「恥という恥をかかせてくれたな!」


 広間の中央には顔を赤くして怒鳴る男と、床に倒れるグレースがいたのである。周囲の囁きを聞く限り、ダンスの最中にグレースが転倒してしまったようだ。


「なんとまあ無様なワルツでしたこと」

「踊りやすそうな靴ですのに、ねぇ?」

「あのようにお下手では、誰もお手をとりたくありませんわね」


 意地の悪い令嬢は、自身の弟を紹介する前に何か耳打ちしていた。その内容は誰も聞いていなかったが、ワルツが始まった直後、彼はグレースを乱暴に振り回した。たとえ完璧にリードされても上手く踊れないグレースだから、そんな手荒くリードされたら堪ったものではない。彼女はまともに立っていることもできず、たちまちバランスを崩して転倒してしまったのである。

 グレースは転んで悪目立ちしただけでなく、聞こえよがしの嫌味が吐かれ、皆に嘲られ、助け起こされることもなく見捨てられていた。フロアの真ん中でぽつんと取り残されたグレースの背中はひどく小さく見えた。

 セドリックは夢中で駆け出していた。

 周囲の意見に合わせて声高に「恥ずかしい」とでも叫べば、グレースの肩身はより狭くなったに違いない。上手くいけば彼女が責任を感じて、離婚を申し出てくれる可能性もあった。けれどもセドリックにはできなかった。そんな可能性は頭の片隅にも思い浮かばなかった。ひたすら無我夢中に、足を動かすだけだったのである。


「グレースッ」

「あ……! セドリック様」


 転んだまま置き去りにされたグレースのもとへ駆け寄り、セドリックは跪いた。覗き込んだ彼女の顔に羞恥の赤色はなかった。青ざめてもおらず、白いだけだった。


「大事ないか。どこか痛めていないか」


 早口でセドリックが問う。すると徐々にグレースの頬に血色が戻ってくる。


「大丈夫ですわ。わたし、練習でどれだけ転んでも、骨や筋肉を痛めたことがないのです」


 そうして彼女は小さく微笑み、セドリックの手を借りることなく立ち上がった。痩せ我慢している素振りはなく、本当に怪我はしていないらしかった。

 音楽はまだ流れていたが、二人は壁際へ避難した。体は無事でもグレースの声は元気が足りなかったし、セドリックもこれ以上、彼女に嘲笑が振りかかるのは我慢ならなかった。

 事情を知ったサンダーソン伯爵はグレースを気の毒に思ったのだろう。解散の時間より早く、二人を会場から帰してくれた。


 帰りの馬車は静かだった。グレースはひどく気落ちしたり、泣いて弱音を吐いたりすることはなかった。強張った面持ちをするだけで、内心で何を思っているのかセドリックには分からない。彼女が何か喋ってくれたら、セドリックも言葉の返しようがあるのだが、こうも静かだと迂闊に声が出せなかった。

 馬車を降りた後で、グレースはやっと口火を切るのだった。


「セドリック様に恥をかかせてしまい、申し訳ありませんでした」


 玄関は薄暗く、彼女の表情はよく見えなかったが、その声から気丈に振る舞おうとしている雰囲気が伝わってきた。


「幻滅なさったことと思いますが、せめて三ヶ月ほどは妻として飾っていただけないでしょうか。その後はどのような処遇でもお受けいたしますから」


 三ヶ月というのは、最低限の体裁を整える期間なのだろう。「酷い夫」を目指すセドリックにとって、これはまたとない好機であった。「ああ、幻滅した」と彼女の言葉を肯定すれば、離婚をほのめかすこともできるのだから。


「幻滅などしない」


 だがしかし、彼の口から出たのは肯定ではなく否定の言葉だった。


「君は自分で約束した通り、毎日頑張っていた。たとえ成果に結びつかなくても、重ねてきた努力は尊いものだ。だから幻滅する理由はない。僕は恥をかいたなんて思っていない」


 グレースの返事はなかった。出迎えにきたエイダにより、てきぱきと二階へ連れて行かれたからである。

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