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 ウィロウ家で最初に目覚めるのは決まってセドリックだ。誰よりも早く起きて水汲みをし、洗濯と掃除を済ませ、余った時間は庭で運動するのが日課だった。カイルはギリギリまで寝ているし、多少の物音では起きないが、今朝からは勝手が違う。セドリックは泥棒のように足音を忍ばせながら移動した。

 グレースに与えた部屋は、二階の一番広い部屋だった。広いといっても物が無いからそう見えるだけで大したことはない。昨日の荷物を見る限り、隣の空き部屋も利用してもらったほうが良いかもしれない。セドリックは無意識に親切なことを考えていた。


「洗濯なら私がいたしますが」

「うおっ!?」


 急に背後から声をかけられたセドリックは、勢いよく飛び退いた。そこに立っていたのは無表情のエイダだった。お仕着せをきっちり着込んでいるところを見るに、起床した時刻はセドリックと大差ないのかもしれない。


「あ、お、おはよう……」

「おはようございます。当主様。あとは私がしますので、お戻りくださいませ」


 セドリックは昔から身の回りのことは自分でやってきた。やってくれる使用人がいなかったので必然的にそうなっただけだが、今更誰かに任せるというのはどうにも抵抗があった。


「女性に肌着を洗わせるのは気が引ける」

「仕事ですのでお構いなく」


 エイダの話し方は刺々しい。ついでに視線も寒々しい。元凶としての罪の意識があるセドリックは何も言い返せなくなり、大人しくその場を後にした。


 ウィロウ家の屋敷に軽やかな足音が加わり、セドリックは落ち着かない心地になる。最後に起床したグレースは晴れやかな顔で朝食に現れた。「気持ちの良い朝ですね」という台詞が、表情と声音にも出ている。


「今日のパンはふわふわですね。美味しいです」

「そうか」

「セドリック様はふわふわのパンと、サクサクのパン、どちらがお好きですか?」

「……考えたことがないな」


 寡黙だった父に似て口下手なセドリックであるため、女性との会話となるとそれがより顕著になる。しかし、つまらない返答しか返ってこなくても、グレースは気に留めず楽しげにお喋りしていた。


「甲乙つけがたいですよね。わたしもいつも決めかねるのです。昨日はサクサクの気分でも、今日はふわふわな気分になることがあります」

「なるほど」


 セドリックは真面目な顔で、短い相槌を打つ。「酷い夫」を目指すなら無視でもすればいいものを、彼の堅い頭には思い浮かばないらしかった。

 質素な朝食の後、グレースは二階へ戻っていった。昨日終わらなかった荷解きの続きをエイダとするらしく、やる事が山積みなんだそうだ。かく言うセドリックも出掛けなければならない。新婚だからとのんきに休んでいたら、いつまでもお金が貯まらない。サンダーソン伯爵へ挨拶と報告も兼ねて今日も仕事である。ちなみにウィロウ家には馬も馬車もないので、セドリックの移動手段は己の足だ。


 昼食まで時間があるので、普段ならすぐにでも二度寝を始めるカイルだが、今日ばかりは躊躇する。職種は違えど仕事仲間ができたのだ。エイダを働かせて自分は二度寝ができるほど、カイルは図々しくなかった。


「あの〜、奥様。俺ですけど」


 グレースの部屋のドアをノックすると、すぐにエイダが対応に出てきた。エイダは相変わらず冷淡な顔をしている。カイルに罪はないはずなのに、つい謝りそうになった。


「力仕事があれば手伝いますよ」

「……ありがとうございます。少しお待ちいただけますか」


 いったんドアは閉じられ、しばらく物音が聞こえた。男に触られたくない物や見られたくない物があるのかもしれない。再びドアが開くと、今度はグレースがにこやかに出迎えてくれた。


「お手伝いしてくださるのね。ありがとう。ちょっと荷物が多くなってしまったから助かるわ」

「こちらの荷物を上に収納してもらえますか」


 朗らかなグレースと、冷ややかなエイダの温度差がすごい。カイルは無駄口を叩かずに働いたほうが良さそうだと判断し、黙々と指示に従うのだった。


 グレース達と過ごして分かってきたのは、カイルが最初に抱いた印象の通りだった、という事であった。グレースは大人の女性というより少女らしく、素直で明るい。エイダは仕事もできる美人だがクールで近寄りがたい。そんな感じだ。


「あ、お疲れ様っす。お皿、ありがとうございます」

「いえ」


 エイダが使った食器を片付けに厨房へやってきた。カイルはどうしても身構えてしまう。何故なら彼女の纏う雰囲気が怖いからだ。初日からずっと、エイダからは静かな怒りを感じている。


「えっと……エイダさん?」


 恐る恐る呼んでみるが、すっと目を細められて睨まれた。カイルは怯えながらも、話を続けることにした。今後の円滑な業務がかかっているのだ。初動が肝心である。


「昨日、旦那様が言ってたことなんすけど……」

「……」

「あれ、本心じゃないというか、本心は別のところにあるというか」

「説明は端的にお願いします」

「あ、すみません……」


 カイルは睨まれながら、主人の血迷い事について説明した。ここでの暮らしは奥様に苦労と負担をかけてしまう、だから旦那様はあえて酷な事を言い、奥様に嫌われることで、貧乏生活から脱出させてあげたいと考えている。

 エイダに伝わるよう、どうにかこうにか言葉を選びながら、できるだけ端的に話した。


「当主様は馬鹿なのですか」


 全てを聞いたエイダは辛辣に一蹴するのだった。カイルは平謝りするしかない。


「旦那様がほんとすみません。いつもは真面目で良い人なんすよ? 真面目すぎて面倒くさいくらいなんすけど、なんか今回は変人になってしまって……」

「苦労をかけると思うなら、その分グレース様を大切にしてくだされば良いでしょう」

「仰る通りでございます。返す言葉もありません」


 エイダは大きな溜息をつく。しかし心なしか、ほんのわずかに顔の険しさが緩んだ気がする。


「……現状、グレース様は悲しんでおられません。ひとまずは静観します」

「種明かししないんですか?」

「話しても話さなくても、恐らくグレース様の反応は変わりませんので」


 確かに「お飾りの妻」で喜ぶグレースなら、事情を知れば「わたしのために……!」なんて感激するだけなのだろう。昨日と今日の付き合いでも、何となく想像がついた。


「ですがグレース様を泣かせたら、私は牢屋に入ることも辞さない覚悟でいます」


 エイダの目は本気だった。カイルは決めた。旦那様の味方はせず、常に奥様の味方をしようと。


 その日、セドリックはいつもより早めに帰宅した。グレースが「お帰りなさいませ」を言いに行くと、彼は一瞬硬直していた。慣れていないのである。カイルは出迎えなどしないので、帰宅してすぐ、労いの言葉をかけられるのはとうに忘れた感覚だった。


「い、家の中まで妻を演じることはない」

「それは……家の中では気兼ねなく自由にしてよいという事でしょうか? セドリック様は本当にお優しいですね! でも挨拶することは、わたしがしたくてやっているのでご心配なく!」


 グレースを突き放そうとしても、逆効果になってしまうのがセドリックは解せなかった。


「サンダーソン伯爵に会っていらしたのですよね?」

「そうだが……」

「わたしも領主様にご挨拶へ伺わなければと思っていたのです。いつ頃がよろしいでしょうか」

「その事なら来月、サンダーソン伯が参加される舞踏会で機会があるだろう」


 サンダーソン伯爵は自領と、他の領地との交流を大切にしており、園遊会や舞踏会の誘いがかかるとまず欠席しない。セドリックも伯爵に同伴することがあり、場数だけは踏んでいる。今日も伯爵から、来月の舞踏会にはグレースと一緒に来るよう言われたところだった。


「舞踏会、ですか……」


 初めてグレースの表情が曇る。これは予想外であった。セドリックの血迷い事にもまったく怯まなかった彼女が、困った笑みを浮かべているのだ。セドリックは何故か慌てた。


「ど、どうした?」

「あの、あの……実はわたし……」


 今朝、パンの話をしていた時は生き生きしていたのに、今のグレースは歯切れが悪かった。しかし彼女はついに意を決して叫ぶのだった。


「ダンスが悲惨なほどに下手なんです!」

「……うん?」


 白状し始めたら止まらなくなったのか、グレースははきはきと喋り出す。


「どのくらい悲惨かと申しますと、ダンスの先生が匙を投げて、舞踏会への参加許可が下りなかった程です。なので一度も舞踏会に出たことがありません。社交デビューもまだだったんです」

「……」

「この際ですから全てお話しますが、わたしはお勉強の成績も悪かったですし、不器用でお裁縫も全然できません。何枚も練習したのですが、わたしが何のモチーフを刺繍したのか、誰も言い当てることができないくらいめちゃくちゃで……」


 黙っていて申し訳ありませんでした、とグレースは潔く頭を下げた。

 グレースは二十歳。物心つく前に婚約することもある貴族社会では、行き遅れと言われてしまう年齢である。今まで結婚できなかったのも、セドリックみたいな貧乏貴族のところへ来たのも、これが理由だったのかもしれない。行き遅れを気にしていたなら「お飾りの妻」であろうとも、妻と呼ばれる場所におさまることができて一安心だった可能性もある。


「別に謝ることでは、」


 真摯に謝る彼女を見て、セドリックは同情し、慰めようとした。ところが彼は急いで言葉を止めた。今度こそ「酷い夫」を見せつけるチャンスだと考えたのだ。グレースの笑顔を曇らせることは非常に心苦しい。しょんぼりする彼女に追い討ちをかけるのは良心が痛んで仕方ないが、背に腹は変えられない。


「……苦手をそのままにしておくのは怠惰ではないか?」


 努力しても不得手なことはある。それを克服できないからと言って、怠け者だと詰るのは非情。ダンスなんかできなくても、生きていくのに支障はない。これがセドリックの本音だが、必死に飲み込んだ。もはや肉体的な拷問を受けたほうがマシな心境であった。


「さすがセドリック様ですわ!」

「……うん?」


 余計に落ち込ませてしまうと覚悟していたのに、グレースは尊敬の眼差しを向けてきていた。どういう事だ。


「そうですわ。先生方が匙を投げたからといって、わたしが匙を投げる言い訳にはなりませんもの! できない事から逃げてはダメですよね! 希望を捨ててはいけませんわ!」


 またしても失敗したセドリックは沈黙してしまう。こうなったらもう後はグレースの独壇場である。口下手なセドリックに勝算など無い。


「来月までまだ時間はありますから、毎日欠かさず猛特訓いたします! 出費についてはご心配なく。先生をお呼びしなくても、教えていただいた事はちゃんと覚えていますわ。体がちっとも思い通りに動かないだけですの。苦手を克服できるかもしれないと想像すると、未来が開けた感じがします! セドリック様、背中を押してくださってありがとうございます!」


 意気消沈させるどころか、励ましてしまったらしい。いや、別に励ますのは悪い事ではないのだし、本音では慰めたかったのだから結果オーライだろう……いやいや「酷い夫」になりたいセドリックからしたら、一つもオーライではない。セドリックは目眩と頭痛がしてくるのだった。

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