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 今日はいよいよ新妻がウィロウ家にやってくる。そのためセドリックは最後の仕上げとばかりに屋敷を掃除していた。連日、隅から隅まで掃除してきた床には塵一つ落ちていない。それを知っているカイルは掃除をするフリだけしていた。「酷い夫」は掃除を完璧にこなすものなのか、甚だ疑問である。


「こんな事聞くのもどうかと思いますけど、お金は大丈夫なんですか? 奥様と一緒にメイドもここで暮らすんですよね?」

「その事なら、あちらの家から心配無用と言われている。僕も詳細は聞かされていないんだが……僕の財力では新たな使用人を雇うこともできないと、あちらはご存知なのだろう」


 没落間近とはいえ、セドリックは子爵の位を持つので、民から徴収した税が収入として入ってくる。しかし国王に何の功績も捧げていない、名ばかりの子爵にまわされる税など雀の涙。セドリックは領主の仕事を手伝わせてもらうことで小金を稼いでいた。だからこそサンダーソン伯爵には絶対に頭が上がらないのである。

 親切な伯爵は「式のお金なら援助する」と言ってくれたのだが、そこまで世話になる訳にはいかない。セドリックは何とかお金を貯めていずれ自力で挙式する、と伝えて固辞した。しかしお金への執着がまったくないセドリックは、金儲けの手段を知らないので、目標額への到達は遠い道のりだろう。


「貯めた金は手切れ金としてグレース嬢に渡すつもりだ」

「そうっすか」


 セドリックは「酷い夫になる」と一貫して主張し続け、決意を曲げようとしない。一度だけカイルが「不倫でもすれば一発っすよ」と最低なアドバイスしたのだが、返ってきた答えは「不道徳はだめだ」という真面目なものだった。「酷い夫」作戦はやはり無理があるとカイルはつくづく思う。


「そろそろ時間か」

「結局、どんな人かわからないままでしたね」


 お互いの顔も見ないまま戸籍上は夫婦となってから、すでに一ヶ月以上が経過している。グレースの実家から、この辺境の港町まで七日はかかるらしい。嫁入りの荷物を持ってくるのだから、移動も楽ではなかろう。

 セドリックとカイルは出迎えのために、門の外まで出て行った。程なくして馬車が三台列になり、やってくるのが見えた。


「……旦那様、顔ヤバいです。凶悪っすよ」

「酷い夫には丁度いいだろう」

「酷い顔になってますって」


 セドリックは子供に泣かれる程度には強面だ。もっと表情が柔らかければ誰もが好青年と褒めただろうが、残念なことに彼の表情筋は鉄でできているらしかった。それに加えて、身長が高くて体格もがっしりしているから、子供の目線では巨人が睨んでいるように感じられるに違いない。子供もセドリックが苦手だろうが、彼も小さい生き物が苦手である。


「……今まで女性との交流がなかったから動揺している」

「仕事中に会うことくらいあったでしょう」

「礼儀作法を逸脱しないよう細心の注意は払うが、特別に意識したことはない」

「美人でラッキーとか、スタイル抜群で最高とか、思ったことないんすか?」

「女性を下品な目で見るべきではない」

「本当に真面目っすねぇ。でも奥様のことはいやらしい目で見て良いんですよ?」


 カイルがそう言うと、面白いくらいにセドリックが真っ赤になる。鉄だって熱せられれば赤くなるものだ。


「な……っ!? いやら……だっ、駄目だろう! 何を言うんだ君は!!」

「自分の奥さん以外にいやらしい目を向ける方が大問題っすよ」

「それはそうだが! グレース嬢が再婚する時に、元夫のお手つきでは支障が出るやも、」

「大きい声出すと奥様に聞こえちゃいますよ。ほら」


 いつの間にか馬車が二人の前に停まっていた。セドリックは真っ赤な顔のまま言葉を失う。ついでに呼吸も失われた。

 御者が恭しく馬車の扉を開けた。先に降りたのはメイドの格好をした女性だった。メイドが車内に向けて手を差し出すと、白い手袋をはめた右手が伸びてきた。

 降りてきたのは亜麻色の髪を揺らす小柄な女性──この人こそ、セドリックの妻となったグレースである。

 グレースを見たカイルは「二十歳って聞いてたけど全然見えないな」と心の中で思った。彼女は小柄であり、顔にも少女の面影が残っていて、十五歳だと言われても信じられる程だ。


「初めまして。セドリック様」


 グレースは彼を見上げるとまず、屈託のない笑顔を浮かべた。やはり少女と呼んでも差し支えないような、素朴な笑みである。


「お出迎えに感謝いたしますわ。バートルズ家から参りましたグレースと申します。こちらはメイドのエイダです。今日からよろしくお願いいたします」


 グレースのブラウンの丸い瞳は小動物を思わせた。セドリックが苦手とする小さな生き物そのものである。彼は完全に閉口してしまった。顔はまだ赤いのに、頭の中では血の気が引くという、謎の状況に陥っていた。

 相手から丁重な挨拶を受けたのに、こちらが睨みつけるだけでは失礼極まりない。肘で突いても微動だにしなくなった主人に見切りをつけたカイルが、仕方なしに口を開いた。セドリックが固まった原因の半分くらいは、余計な事を言ったカイルにあると自覚していた。


「遠いところ、よく来てくださいました。俺はカイルと言います。ここの厨房を任されてます」

「カイルね。どうぞよろしく。お料理、楽しみにしているわ」


 見た限りグレースはお嬢様育ちが滲み出る、素直そうな人柄だ。カイルとしては静かに会釈してきたエイダのほうが、感情が読めなくて人柄を掴みづらかった。エイダの視線は相手を値踏みするかのように鋭い。綺麗な顔立ちであるぶん、妙な迫力がある。

 とりあえず中へ入ってもらおうとした矢先、いきなりセドリックが声を出したのだった。


「グレース嬢。君に求める役割は『お飾りの妻』だ!」


 それは幼子なら間違いなく泣き出す、鬼気迫る形相であった。小動物はもちろん、野生の獣でも後退するであろう威圧感だ。腹から出た声量が怖さを助長している。


「不服ならすぐにでも出て行ってくれて構わない!」


 その場の空気が凍りつく。カイルは自分の行動を後悔した。こんな大惨事を引き起こすことが分かっていたら、説得を諦めることはなかった。セドリックは少し口下手なので、こちらが勢いで押せば勝てたはずだった。「酷い夫」になるとは聞いていたが、これは大変なことになってしまった。地獄のような空気だ。

 突然「お飾りの妻」宣告を受けたグレースは、明るい笑顔も消し飛び、ぽかんとしていた。だが恐ろしかったのはエイダの目である。カイルは早々に前言撤回しなければならなかった。めちゃくちゃ怒っているのが明白だったからだ。考えてみれば、馬車で十日もかかる辺境までお供するメイドである。グレースは大切なご主人様に違いない。


「お、『お飾りの妻』だなんて、そんな……」


 グレースは呆然と呟く。貧乏貴族に嫁いだ挙句の果てに、残酷な宣告を聞かされたのだ。無理もない。

 彼女は怒るだろうか、泣き出してしまうだろうか。カイルは裁きを待つような心地で成り行きを見守るしかなかった。


「ありがとうございます! セドリック様!」


 その場の空気が一段とおかしくなる。グレースの瞳は輝き、期待に満ち溢れていた。そんな瞳で見上げられるセドリックのほうが、今度は放心してしまう。


「わたしは美人でもありませんし至らぬところばかりですのに、飾る価値があると思ってくださるなんて……! セドリック様はお優しいのですね! こんなに寛大な方と結婚できて、わたしは幸運ですわ!」


「あれ?」と呟いたのは誰だったか。「お飾りの妻」などという不名誉が、まるで名誉のような受け取り方をされ、セドリック達は混乱していた。これは妙なことになってしまった。ある意味、地獄みたいな空気だ。

 本来ならばエイダの反応が妥当であろう。相手を怒らせるには充分な発言をセドリックはした。グレースは何を血迷って、歓喜の声を上げているのか。いや、先に血迷ったのはセドリックだが、まさか相手も一緒に血迷うとは思うまい。


「わたし、飾っていただくに値する妻になりますね! 頑張ります!」


 セドリックは目眩がしてきた。慣れないことに頭を使いすぎたし、緊張しっぱなしで激しく動揺もしていたからだ。


「……よろしく、頼む……?」


 こうしてセドリックとグレースの新婚生活は幕を開けたのである。


「お飾りの妻」を強要する夫。これが異性に対する知識に乏しいセドリックの考えた「酷い夫」像だった。貧乏暮らしに加え、妻を大切に扱わない事で、グレースから愛想を尽かしてもらう算段であった。しかし出鼻は大いに挫かれた。グレースに嫌われるどころか、何故か喜ばせてしまったのである。


「僕はちゃんと『酷い夫』になっていたはずだ」

「まあ、酷かったんじゃないですか。空気の読めないところとか特に」


 すごすごと退却したセドリックは、厨房まで逃げていた。昼食を用意するカイルは迷惑そうだ。


「もしや彼女は『お飾りの妻』がどういうものか、知らないのだろうか?」


 そうであれば、あのポジティブすぎる受け取り方も納得である。挫けるにはまだ早い。セドリックは昼食時にリベンジすることにした。


「君は『お飾りの妻』について、どんな認識でいるんだ?」


 グレースは小首傾げる。その拍子に亜麻色の髪が一房、肩からこぼれた。


「えぇと……お外では上部だけでも妻と紹介してくださるものだと」


 謎に正解である。セドリックはまたしても言葉を失う羽目になった。正しく理解しているなら、どうしてこんな最低の扱いを喜ぶのか。


「セドリック様? どうかなさいましたか?」

「いや、別に……」


 セドリックはテーブルの料理に目を落とす。変わり映えしないパンとスープ。今日だけはとカイルがもう一品作ってくれたが、結婚祝いと言うには寂しい食事だ。豪華な食材を揃える金がなかったのだ。


「……すまないな。こんな食事で」


 ここで率直に謝ってしまうところが「酷い夫」になりきれない、セドリックの善良さである。

 俯く彼へ、グレースは優しく微笑んだ。


「構いませんわ。わたしは一人でする豪華な食事より、誰かと一緒に食べるスープのほうが好きですもの」


 ウィロウ家へ嫁ぐにあたり、この家の経済状況はグレースも聞かされていたはずだ。それでも実際に目の当たりにすれば不安や失望もあっただろうに、グレースは嫌な顔をしなかったし、嘆くこともしなかった。


「それにこのジャム、すごく美味しいですわ。どちらのお店で手に入れたのでしょう」

「……ジャム? 僕のところにはないが」

「えっ? わたしだけですか?」

「そうらしい」


 セドリックはいつも何もつけずにパンを齧っていた。何故なら、パンに塗るものが我が家に存在するなんて知らなかったからだ。


「だって旦那様、甘い味付けは得意じゃないって言いましたよね。だから甘いものは嫌いかと思って出してなかったんです」


 追加のパンを持ってきたカイルがしれっと答える。彼は主人の視線を無視して、グレースに話しかけた。


「奥様は甘いものが好きですか?」

「ええ、もちろん! 甘いものって幸せな気持ちになれるから大好きよ!」

「そりゃあ良かった。俺は菓子作りが得意なんで、作り甲斐があります」


 これもセドリックは知らなかった。カイルの得意分野が菓子だったとは初耳である。


「もしかしてこのジャムはカイルの手作り?」

「そうです」

「すごいわ! 一流のお店でもこんなに美味しいジャムは出ないんじゃいかしら」


 気怠げなカイルの顔が若干嬉しそうなのは、気のせいではなかろう。セドリックは食事に文句をつけたりしないが、感想を述べることもなければ、美味しいと笑うこともない。手放しで褒められれば、誰だって嬉しいに決まっている。


「じゃあ奥様のお誕生日には、腕によりをかけて美味しいケーキを焼きましょう」

「嬉しいわ! 明日が誕生日ならいいのに。あっ、でも明日が誕生日だったら、次の楽しみがまた一年後になってしまうわね。大人しく待っているほうが、早く食べられるわ!」


 グレースはますます瞳を輝かせる。人懐こい笑顔はまるで太陽のようだ。

 セドリックはテーブルの下で拳を握りしめる。


「……余計な出費は極力、抑えるべきだ。挙式の資金を貯めることが先決だろう」


 この場に水を差すのは、セドリックにとってかなりの苦痛であった。現に胃が痛んだ。それでもセドリックは「酷い夫」にならなければいけないのだ。案の定、エイダとカイルから、人でなしを見る目が向けられる。

 しかしながら、グレースの笑顔はちっとも曇らなかった。


「そうでしたわね! わたしったらすっかり忘れて、申し訳ないですわ。ケーキなら誕生日より結婚式のほうが特別感がありますもの! 楽しみが大きくなりますわ! それにカイルも計画を練る時間ができます。セドリック様は視野が広いのですね。尊敬いたします!」

「え、ああ……うん」


 セドリックの胃痛は治ったものの、心の動揺は悪化した。どうして彼女は、カイル達のような反応を示してくれないのか。


「あっ、でしたらわたしの手持ちのお金も使ってください。アクセサリーも売れば結婚資金の足しになりますわ」

「君の持ち物はご両親が持たせてくれたものだろう。簡単に手放してはいけない」


 一旦借りておいて後で返すという手もあるのに、セドリックは筋金入りの堅物であった。だから結果としてグレースからの更なる尊敬を集めるだけに終わるのだった。

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