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西の辺境の、そのまた片隅の港町にウィロウ家の屋敷はある。寂れた屋敷には人影が一つしか見当たらない。料理人のカイルが皿洗いを終えて、ひと息ついているところだった。
カイルは大きな欠伸をして目を擦る。彼はいつも眠たそうな顔をしており、まったく覇気の感じられない青年であった。ウィロウ家の屋敷に住んでいるのはこの家の当主と、カイルだけ。当主が仕事に出掛ける日中は、料理人しか存在しない、静かすぎる屋敷となる。一応、子爵の家柄なのにこんな暮らしなのは、単にウィロウ家が貧乏だからである。
「……寝よ。暇だし」
カイルはあくまでも料理人。掃除や洗濯は当主自らやっているので、食事を作って片付けたらカイルの仕事はすぐに無くなる。とは言え、そういう気楽なところが気に入って、カイルは安い給金で働いているのだ。
ひと眠りしようと横になったカイルであったが、慌ただしい足音が聴こえたため、目を閉じることは叶わなかった。
「カイル! 大変なことになった!」
「旦那様、忘れ物っすか」
当主のセドリックが屋敷に飛び込んできても、カイルは長椅子に寝転がったままである。雇い主に対してあるまじき態度だが、何も咎められないところもカイルは気に入っていた。
「大変なんだ! カイル!」
「旦那様が大声出すの初めてですね」
「けっ、けっ……」
「痰が絡んだんすか? うがいなら外の井戸でやってくださいよ」
「結婚っ!! 結婚だ!! カイル!!」
気怠げなカイルでも、これはさすがに体を起こした。
「……旦那様のことは嫌いじゃないけど結婚はちょっと……はっきり言って願い下げです。男は論外っす。俺は綺麗なお姉さんが良いです」
「君とじゃない!」
セドリック・ウィロウは二十代も後半に差し掛かるのに、いまだに独り身。両親という後ろ盾もなく、没落寸前の貧乏貴族であるからして、この先の縁談は絶望的だった。それを案じた親切な領主が、このたび縁談を纏めてくれたのだ。
慌てふためくセドリックの話は支離滅裂だったが、まとめるとこんな感じである。
「おお、マジっすか。おめでとうございます」
「うん、ありがとう……じゃない!」
「旦那様、けっこう良い男ですし、ひとり寂しく爺さんになるのはもったいないと思ってたんすよ」
客観的に見てもセドリックは好青年の部類に入るだろう。短く刈った髪は見事な金色だし、体つきは男らしくがっしりしている。性格も実直で、お金さえあれば結婚に困ることなどなかったに違いない。お金さえあれば。
「えっ、ありがとう……じゃなくてだな!」
「何ですか。今日の旦那様うるさいっすよ」
「すまない……だが、この屋敷を見てみろ」
「あぁ……えっと、雨漏りしても文句を言わない奥様だといいですね?」
繰り返し言うが、ウィロウ家はとても貧乏だ。
カイル以外の使用人を雇う余裕がない。むしろ一人でさえギリギリアウトだ。
窓や壁はひび割れ、隙間風は入る。雨の日は最悪である。
家財は売れるだけ売ってしまい、買い手がなかった家具はどれもボロボロ。
はっきり言って、こんな場所に嫁いでくる女性が可哀想で仕方がない。
「結婚式を挙げる金さえない。食事だって毎日パンとスープだけだ」
「それは俺に文句言ってます?」
「違う。僕の不徳の致すところだ」
「旦那様って真面目っすねぇ。嫌ならお断りすれば良かったのに」
「……サンダーソン伯には恩がある。無理だ」
「それはまあ、そうっすね」
サンダーソン伯爵は西の辺境を治める領主だ。生まれてすぐに母を亡くし、四年前に父をも亡くしたセドリックを、これまでずっと気にかけてくれた御仁である。ご厚意で縁談までまとめてくださったとなれば、足を向けて寝られない。
「僕は一人でこの屋敷と共に朽ちるつもりだったんだ……!」
「覚悟が悲壮すぎません? てか、お相手って訳ありなんすか? あるいは年増とか。じゃなきゃ、ここに嫁入りしませんよね」
「いや、それが……サンダーソン伯の旧いご友人のご息女らしい」
「良いところのお嬢様なんすか?」
「良いところのお嬢様だ」
「……」
「……」
「なんで旦那様のところに?」
「だから大変なことになったと言っただろう」
お相手の令嬢はグレース・バートルズというらしい。年齢はちょうど二十歳。東の方の街で暮らしているそうだ。それ以外は何もわからない。
「かなりの不細工だったりして」
「人の容姿をどうこう言うべきではない」
「すんません。じゃあ性格に難あり、とかですかね」
「もしそうなら、僕との結婚に猛反発するんじゃないか?」
「そんなの分かんないっすよ。実家から勘当同然に追い出されるのかもしれませんし」
「なるほどな。そういうこともあるのか」
「ヤバい人だったら俺、辞めようかなぁ。居心地悪いの嫌ですし」
「……」
「旦那様?」
「……」
「やだなぁ、冗談っすよ。半分」
「……離婚してもらうしかない」
「はい? 離婚??」
妙案を思いついたとばかりセドリックが言う。
「そうだ。離婚だ。僕は酷い夫を演じる。そうすればグレース嬢もこの屋敷から出て行きやすいだろう」
「えっと……何を言っているかよくわかんないんすけど、多分やめておいたほうがいいですよ」
「何故だ。サンダーソン伯の手前、僕から離婚を申し出ることはできない。だったらグレース嬢の方から、こんな酷い男との結婚は嫌だと言ってもらえばいい」
「そんなややこしいことしなくても、普通に夫婦をやれば良いじゃないですか」
「普通に夫婦をやる、とは?」
セドリックが貧乏で結婚できなかったのも本当だが、実のところ彼が奥手で硬派ゆえ、一切女性に近づかなかったのも独身だった要因である。
セドリックは生まれてこの方、ろくに異性と接したことがない。母とは出産後すぐに死別し、父は再婚しなかった。乳飲み子の頃に乳母はいたと思うのだがセドリックの記憶上、女性の使用人を見たことがない。そうやって堅物の父に育てられた息子もまた、そっくりな堅物に成長したのだ。
真面目な主人に対し、失礼ながらカイルはちょっと面倒だと思った。
「そもそも離婚になったら、それこそサンダーソン伯の面目が潰れるんじゃないっすか?」
「そうだな。なるべく穏便に離婚しなければならないだろう」
「あ、離婚しない選択肢はないんすね」
カイルは諦めた。というか初対面の女性はまだしも、サンダーソン伯爵にはセドリックの性格が筒抜けだろうに。こんな下手くそな理由で、離婚まで持っていけるはずがない。第一「酷い夫を演じる」だなんて、面倒なほど真面目な主人には不向きすぎる。上手くいかない予感しかしなかったが、カイルは口を噤んだ。だんだん疲れてきたのだ。
「そうと決まれば、ひとまずグレース嬢が過ごす部屋だけでも雨漏りを治そう」
「『酷い夫』になるんじゃなかったんですか?」
「遥々来てくれるのに、雨に濡れて寒い思いをしたら可哀想だろう。僕が目指すのはあくまでも『酷い夫』で、極悪人になるつもりはない」
それは最早ただの親切な人である。セドリックの作戦が始まる前から破綻している事を、カイルは指摘しなかった。ほとほと疲れたのだ。
「手伝ってくれ、カイル」
「俺、料理人なんですけどね」
と言いつつも、カイルは立ち上がって手伝う姿勢を見せる。真面目な主人がちょっと面倒でも相応の敬意はあるので、頼まれ事は基本的に断らないのだ。
こうしてお相手の名前と年齢しか分からないまま、セドリックは婚姻の書類に署名し、妻帯者となったのである。




