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セドリックは元騎士で、訳あって退団していたが、このたび復帰することが決まった。過去のことは端折って簡潔に伝えたところ、グレースをはじめ、エイダもカイルも探るようなことはせず、ごく当たり前のように受け入れたのだった。
「元騎士? 納得っす。だってめっちゃ強かったですもん。同じ人間とは思えなかったです。あ、ゴリラと良い勝負じゃないですか?」
と、眠そうな顔で言ったのはカイル。
「毎日鍛えていらっしゃるのを見ていましたし、その分厚い体を有効活用できそうで良かったですね。当主様ならライオンにも勝てるのでは?」
そう冷めた目を向けてきたのはエイダ。
「セドリック様は騎士だったのですね! 白銀の鎧がとても似合うと思いますわ!」
とっておきの笑顔で祝ってくれたのはグレースだ。セドリックは胸にじんときた。
国王の手紙に記されていたのは、セドリックの不当な退団は取り消され、以前と同等か、それ以上の地位に復帰させる旨である。改めて入団試験を受ける必要はなく、畏れ多くも「すべて貴殿が望むままに」取り計らってもらえるそうだ。
「望むままなら、親衛隊も夢じゃないってことっすか?」
「そうなるな。僕は希望しないが」
「国王陛下直属の隊ですよ? 花形じゃないですか。それに給料もがっぽがっぽ……」
「おい。下世話だぞ」
カイルは身も蓋もなかった。とはいえ、かつてのセドリックなら同じような事を考えたかもしれない。騎士を志す者にとって、騎士団長や親衛隊は輝かしい目標だからだ。
しかし今のセドリックには違う目標がある。
「では当主様はどちらの配属になるのですか?」
エイダに問われ、セドリックはちらりと妻を見遣った。
「この町に駐屯していた隊が解散になったのは聞いていると思う。僕は隊長として、新たに赴任してくる隊員をまとめる事が決まった」
辺境の港町の隊長だなんて、知名度はたかがしれている。でもセドリックは階級とか、花形の隊とか、功績とかに興味は無いのだ。彼にとって最も重要な任務は「グレースが安全に散歩を楽しめる事」なのだから。なんて、恥ずかしくて言える訳がないが。
「おめでとうございます! これからはセドリック隊長とお呼びしなければいけないかしら」
「いや、今まで通りで頼む……君は隊員じゃなくて、妻だろう」
「ふふっ、そうですわね。隊長とお呼びするのも格好いいなと思いましたけど、わたしは絶対にセドリック様の妻が良いです」
うん、と頷くセドリックのほうが嬉しそうであった。
セドリックが騎士の鎧を着るのは、退団以来だ。久しぶりにする格好だというのに、妙にしっくりくる。これも亡き父から騎士道精神を叩き込まれたおかげだろう。セドリックは骨の髄まで騎士なのだと、改めて実感する。
しまい込んだままになっていた愛剣を手に持つのも五年ぶりである。十八歳で騎士になった時、父がセドリックにくれた剣だった。もう騎士には戻れないと諦めても、この剣だけは捨てられなかった。もう一度、愛剣を腰に差す日が来るとは思わなかった分、彼の感慨は大きい。
「やっぱりとてもお似合いですわ! 格好いいです!」
初めてセドリックの騎士姿を見るグレースは、目を輝かせて感心するのだった。
「この国で一番の騎士様ですわ!」
「大袈裟だな……だが、ありがとう」
「お怪我には気をつけてくださいね。わたし、上手に包帯を巻く特訓は、まだしたことがないのです」
「君に心配をかけないよう、気をつけて任務にあたるよ」
これでもセドリックは昔、父が課した容赦ない鍛錬を潜り抜けてきたのだ。体の頑丈さは並大抵ではない。
「じゃあ、行ってくる」
「あっ、お待ちください」
「どうした」
出掛けようとする彼を引き止めたグレースは、何故か頬を染めていた。彼女がはにかんでいた理由は、数秒後に判明する。顔が赤いことを心配したセドリックが少し身を屈めた直後、彼女が唇にキスしてきたのである。
「ふふっ、行ってらっしゃいませ。セドリック様」
恥じらいながら微笑む彼女を見て。何が起きたか頭で認識した瞬間。セドリックは発火したみたいに真っ赤になるのだった。
「グ、グレース……ッ」
「はい?」
「今の、あれは……その、いわゆる……」
ともすれば目からも汗が噴き出そうな彼を面白がり、カイルが余計なことを言う。
「帰りは旦那様からしてあげるのがマナーっすよ。それも毎日」
「なんだと……!? ま、毎日……!?」
セドリックの狼狽がありありと伝わってくる。彼は妻を、正確にはその唇を見つめていたが、ついに思考回路が破裂した。結婚式では厳かな雰囲気に呑まれて何とかなったが、毎日しなければならないのであれば話が違う。
「だっ、駄目だ! いやその、嫌だという意味じゃくて!? 決して! 断じて嫌ではないが任務終わりは汚くて不衛生だ! ああいう行為は歯を磨いてからでないと、君に申し訳ない! 君からいただけるのは非常にありがたいし、毎日なんて光栄だ!?」
彼はもう自分が何を喋っているかわからなかった。
そうやってセドリックが動揺する時、だいたいグレースは落ち着いている。
「ふふっ。それでは、おでこなら気になりませんか?」
「おでこ……おでこか……おでこなら……」
デカい図体で「おでこ」を連発し、真剣に迷う姿は滑稽で、カイルは体をくの字にして吹き出すのを堪えていた。
「わたし、おでこを清潔にしておきますね」
「君は別に……だな……気にしなくても、いつだって綺麗だろう」
「まあ……」
「…………そ、そろそろ行かねば。いざさらばっ」
心臓が大暴れしたまま、セドリックは出発していくしかなかった。彼の背中が見えなくなるまで、グレースは窓のところで見送っていた。これは今後、二人の日課となっていくのである。
幸せそうに窓の外を見つめる彼女を残し、エイダとカイルは忍び足で退散するのだった。
「ふぅ、笑った笑った。旦那様、やっぱり面白いっすね。『さらば』ってまた古風な。足取りもふらっふらだし」
「半分くらいはカイルさんのせいですが」
「エイダさんも笑ってたじゃないですか」
「あの様子だと酔っ払いと間違われて通報されるのでは?」
「初日に隊長が通報されちゃあ面目もクソもないっすね。それにしても奥様、意外に積極的ですねぇ」
「堅物がお相手ですから丁度いいでしょう」
「あれくらいはエイダさんの許容範囲ですか。もう包丁を振り回すのは勘弁してくださいよ」
「善処します」
「それ、やらないヤツっすね」
とりあえずグレースが笑顔でいる間は、厨房から包丁が持ち出されることはなさそうだ。
騎士として再出発を果たしたセドリックは、順調な滑り出しを見せた。一新された隊員達は気の良い男達ばかりで、隊長の堅物ぶりも面白おかしく受け入れてくれた。セドリックが自分自身に厳しいだけで、他人には寛容だったからだろう。上下関係は緩くても、結束は強い隊が出来上がりつつある。
「隊長。招待状が届いてますよ」
「何のだ?」
「やだなぁ。騎士に届く招待状なんて一つしかありませんよ」
「……闘技大会か」
セドリックにとっては苦い記憶の蘇る大会だが、本来は大いに盛り上がる祭りみたいなものだ。見知った顔が勝ち進む様は、観戦する側も愉快だろう。隊員達の期待に満ちる表情が、それを物語っている。
「隊長なら優勝できますよ。俺達みんなで応援に行きますから」
「全員はまずいだろう。この町を守る騎士がいなくなる」
「真面目! わかってますよ。くじでハズレを引いた奴が居残りです」
当時もこんな風だったな、とセドリックは懐古する。皆が期待をかけてくれて、勝てば勝つほど喜んでくれたものだ。たった一日ですべてが呆気なく崩れ去ったが、もう過去の事である。いつまでも囚われる必要もあるまい。
久々の腕試しに丁度いい、そう考えることにして、セドリックは出場を決意するのだった。
屋敷に帰ったセドリックは、夕食の席でさっそくグレースに闘技大会のことを話した。彼女は過去に起きた事件を知らないから、純粋に楽しみにしてくれると思ったのだ。ところがグレースの反応は今ひとつであった。
「セドリック様が出場されるのでしたら、もちろん応援に駆けつけますわ」
そう言ってくれたものの、グレースは明らかに無理をして微笑んでいた。セドリックは「彼女が応援してくれたら百人力だな」なんて、馬鹿みたいに浮かれていただけに、気持ちが萎んでしまう。グレースなら一生懸命に声援を送ってくれる確信があったのだ。
「……剣先は潰してあっても争いだからな。苦手なら無理しなくていい」
「いえ! セドリック様の勇姿はぜひ見たいです! ただちょっとだけ、大会の雰囲気が苦手なだけなんです」
観戦経験があるのか、と問うたのはエイダだった。
「そういえばエイダは一緒じゃなかったわね。ほら、覚えていない? 伯父様の従兄弟がいらして、旅行に誘ってくださった……」
「ああ、思い出しました。奥様が体調を崩されていたので、私は残って看病していた時ですね。グレース様が自分も残ると仰るのを、奥様と二人掛かりで説得しました」
「そうそう。その時、泊まっていた街で闘技大会が開催されていたのよ。でもわたし、闘技大会が賭け事の場だって知らなくて……」
「賭け事ですか。旦那様がいたなら止めそうなものですが……」
「伯父様達は宿でお酒を飲んでいたから、女の人達だけで行ったの」
これは余談だがグレースは「賭け事、及びカジノは厳禁」の命令が、養父母から出ている。幸運体質の彼女がカジノなんかに行ったらどうなるか、結末は火を見るより明らかだ。養父母の教育により、彼女は賭け事に良い印象が無いのである。
「楽しみ方は人それぞれだけれど、最低限の礼儀を忘れてはいけないと思うわ。賭けが外れたからって、怒鳴り散らすのは恥ずべきことよ。挑戦した方達は勝敗に関係なく健闘を讃えられるべきであって、責められることなんて一つも無いはずでしょう?」
民衆も観戦できる闘技大会は、賭け事が盛んな地域もある。地方の闘技場であるほど、無作法も増えると聞く。グレースが一度だけ観たという大会は、その類であったのだろう。
セドリックが最後に出場した大会もそうだ。姑息な令息のやり口を知っていた貴族達は、こぞって彼にお金を賭け、全額失うこととなった。おかげでセドリックは、観衆から特大の反感を買ったのである。
「特に優勝なさった方への罵倒が激しくて、見ていて苦しかったの。素人のわたしが観ても、身のこなしが違うと判るくらい強い方だったのに……どれだけ努力なさったのか、考えるだけでも尊敬の念が湧き上がるものではないかしら」
「そんな事があったのですか。嫌な経験をされましたね」
「でも、試合は見応えがあったわ。鎧を着ていたから騎士だと思うけど、最後の試合なんか凄かったのよ! お相手もそこまで勝ち進んだきたはずなのに、その方はあっという間に勝ってしまったの! 一番感動したのは、心ない言葉を浴びせられても、きちんとお辞儀をして颯爽と去って行かれたところよ。真っ青なマントが翻る光景が、今も目に焼き付いているわ」
賭け事が行われる大会は、実名を伏せる場合が多い。挑戦者は目元を覆う仮面をつけたり、ヘルムやバイザーで顔全体を覆うこともしばしばあった。事前情報に頼らず、単純な運に賭けるほうが面白い、という理由である。そういう時、出場者は色の違うマントを羽織り、観客は何色が勝つか賭けるのだ。
セドリックは、発言に熱がこもっていくグレースをじっと見ていた。彼の頭の中では、ある可能性が浮上していた。だが、そんな偶然がありえるものかと、心の声が否定する。
「……グレース、それは……いつ頃の話だ?」
「え? えぇと、わたしが十五……いえ、まだ十四だったかしら。そうなると、だいたい五年前ですわね」
「五年前……! 場所はっ!?」
セドリックは逸る気持ちを必死に抑えなければならなかった。握りしめた拳に滲むのは、膨大な期待から来る、緊張の汗だった。
「王都を背にして南方に下った……違うわ、東になるのかしら? 方角はちょっと曖昧ですけど、街の名前はレオネクでしたわ」
五年前のレオネクで開催された闘技大会──セドリックはそこにいた。
彼は目元を隠すマスクと共に青色のマントを渡され、身に付けていた。忘れるはずもない。闘った後は、酷い罵倒のただ中にいた。優勝を手にした代わりに、他の全てを失った。
でも、そこには彼女もいたのだ。信じられないことに、グレースはセドリックを見ていたのである!
「あの騎士の方、今頃どうなさっているのかしら。きっとたくさん、傷付いたでしょうね……精一杯の拍手を贈ったつもりでしたけど、怒鳴り声に掻き消されて届きませんでしたわ」
もしも、セドリックが退場する前に客席を一瞥していたら……必死になって拍手する彼女の姿を見つけていたかもしれない。当時のセドリックが一番欲しかったものは、賞賛でも栄光でもない。肯定の拍手だ。あの時、あの場所で、彼は自分の正義を肯定されたかったのだ。彼が渇望していたものは、他の誰でもないグレースから贈られていた。これに勝る僥倖があるだろうか!
胸に迫るこの感動を正しく表現できる言葉は、この世に存在しないと彼は思った。万感の思いが込み上げるために、喉元が痙攣して苦しい。
今が夕食時で良かった。テーブルを挟んでいなかったら、今度こそ彼女を手加減無しにかき抱いて、怪我を負わせていたかもしれない。セドリックは漏れそうになる嗚咽を、歯を食いしばることで耐えた。泣くよりも、彼女みたいに笑顔でいたかったのだ。結果、泣き笑いしているような表情になってしまうのだった。
「……君の拍手は、届いているよ」
「ありがとうございます。わたしもそう思うことにしますわ」
五年越しに届いた奇跡を知るのは彼だけである。
「今回、招待を受けた大会は、国王陛下も観覧なさる公的なものだ。賭け事はご法度になる。君が心配するようなこと起きないと思う」
「そうでしたのね! そうと聞いたら俄然、楽しみになってきましたわ! セドリック様、頑張ってくださいね! わたし、一生懸命応援しますから!」
「うん。ありがとう。本当に……ありがとう。グレース」
「ふふっ、大会はまだ始まっていないですよ。あっ、でも怪我のない範囲でお願いしますね」
「分かっている。君も包帯を巻く特訓はしなくていいからな」
さて、闘技大会の結果がどうであったか、詳しく語るまでもない。
セドリックは五年前と同様に完勝した。国王の御前に集められたのは国内屈指の猛者ばかりだったので、優勝者は実質、国で一番という証明になる。しかし誰が相手でも、彼の敵ではなかった。親衛隊や騎士団長をも難なく倒したのが、辺境のしがない隊長であったから、観衆の盛り上がりは最高潮に達した。 国で一番強い騎士として大喝采を浴びるセドリックだったが、応えた拍手は一つだけだ。一生懸命に拍手するグレースへ剣を掲げた彼は、少年のような笑顔を浮かべていたのである。




