21
バートルズ夫妻は結婚式が終わるまで、ウィロウ家に滞在すると告げた。何度も往復するのが億劫な距離だからと口では言うものの、愛娘と少しでも長く過ごしたい本音が透けていた。
空き部屋ばかりの屋敷であるため、宿泊していくのは構わない。だが義両親との生活が突如始まったセドリックはそわそわして仕方がなかった。彼とは逆にグレースは四六時中にこにこしているし、エイダは慣れているし、カイルに至っては何も気にならないらしい。
かれこれ三日ほど食事を共にしているのに、セドリックだけは表情が硬いままである。
「そういえばあなた達、どうして寝室が別なのかしら」
平穏な朝食の席でイルマから発せられた質問により、セドリックはパンを喉に詰まらせかけた。話の脈略なんてあったものではない。先程までパンに塗るジャムについて感想を語り合っていたのに、何がどうなった。
寝室が別々な理由は一つ。当初、グレースを『お飾りの妻』として扱い、その誤解が未だにとけていないからである。
唐変木と言われるセドリックでさえも、そんな事を義両親に話せば粛清されると容易に想像できた。グレースを溺愛するバートルズ夫妻のことだ、よくて半殺しにされるだろう。
ここで真面目なセドリックは、いっそ洗いざらい白状し、潔く半殺しにされることで償いをすべきかと逡巡する。保身に走る気は毛頭ない。ところが、グレースにとっての最善は何か結論が出る前に、彼女本人が養母に回答を提出したのだった。
「わたしのためですよ、伯母様。初めて会う男性と同じ部屋で過ごすのは気が休まらないでしょうって、気遣ってくださったからですわ」
後でこっそり教えてくれたのだが、この言い訳はかなり前から熟考していたものらしい。「お飾りの妻」として人前でボロを出さないよう、エイダの力を借りて対策を重ねたそうなのだ。どうりで正直者の彼女から、すらすらと偽りの弁解が出ていたわけだ。知らないところで、グレースにそんな努力をさせていたとは情けない。そして、その影の努力に救われてしまったことが、セドリックは最高に情けなかった。
今度こそ、間違いなく、絶対に、グレースの誤解をとかなければいけない。セドリックは決意を新たにするのだった。
結婚式の当日も、セドリックはいつもの時間に目を覚まし、掃除と朝の運動の日課をこなした。井戸のところでエイダと顔を合わせるのも、もう慣れたものだ。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は一日忙しくなるな」
「そうですね」
セドリックが立ち去ろうとしないため、彼女は「まだなにか?」と横目に聞いてきた。
「君は……僕達の結婚の背景を、知っていたのだな」
「旦那様方からお聞きになりましたか」
「ああ」
次々起こる出来事に対し、エイダが常に冷静だったのは、そういう性格ゆえだと思っていた。けれど、それだけではなかった。バートルズ家ですでに似たような経験をしていたから、彼女の驚きは少なかったのだ。
「私にとってグレース様は、大切な妹のような方です。欲にまみれた悪意から、あの方をお守りすること、それが私の役目だと思ってきました。しかし……そろそろ当主様にお譲りしなくてはいけないようです」
エイダの鋭い視線がセドリックを射抜く。彼は血迷ったことを言いながらも、最初からグレースのことを第一に考えていた。彼女が危ないことをすれば、真剣に叱ってくれた。フォルトナト侯爵と対峙した時だって、彼女にかすり傷一つ負わせることなく守り抜いた。
笑顔の彼女を見つめるセドリックの眼差しには、疑いようのない一途な愛情がある。認めるのは悔しいが、これがエイダの査定結果だった。
「ありがとう。その役目、一生涯を通じて遂行する」
「あくまでもお譲りするのは半分ですが」
「そうか」
「今の言い方はカイルに少し似ていたな」と彼が付け加えると、エイダはそっぽを向くのであった。
待ちに待った結婚式当日。
セドリックは先に教会へ行き、グレースの到着を待つ段取りになっている。花婿の衣装に着替えた彼を一目見て、グレースは頰を染めていた。素敵だ、格好いい、と繰り返し賛辞を受ければ、どんな堅物とて浮かれる。少し緩んだ顔のまま、彼は出発していった。
「さあ、あなたも支度して追いかけないと。花婿をあまり待たせるものではないですからね」
「はい。伯母様」
「すべてこの私にお任せを」
「ありがとう、エイダ」
伯母とエイダの手を借りて、グレースも花嫁衣装に着替える。化粧を施されたグレースは少女のようではなく、一人の立派な淑女であった。
「とても綺麗よ、グレース」
「伯母様。ありがとうございます。グレース・バートルズではなくなっても、わたしはいつまでも伯父様と伯母様の娘ですわ」
「ええ、もちろんです。あなたはずっと、わたくし達の自慢の娘です」
「あとであの人にも言ってあげなさいな」とイルマが言うと、溌剌とした返事が笑顔と共に返ってくるのだった。
港町の小さな教会ではセドリックと招待客が、花嫁の到着を待っていた。今日のために、知り合って間もない友人達が遠方から駆けつけてくれた。諸々の事情で参加を控えた面々からは、すでにお祝いの手紙をいただいている。サンダーソン伯爵の出席は言わずもがな。彼はセドリックの父親代わりとして親族席にいた。
小さな教会の扉がゆっくり開いていく。陽光に照らされながらグレースが一歩、また一歩と進んできた。最前部までの道を、彼女は育ててくれた両親と並んで歩いた。これはグレースが強く希望した事だった。そして両親の手を離れた彼女は、夫の手をとる。
セドリックとグレースは皆に見守られながら、結婚の誓いを宣言した。指輪を交換した後に待っているのは口付けだ。お互いに初めてであるため、緊張はひとしおだった。セドリックは心の中で「口唇同士を接触させるだけ」とひたすら念じる。目を閉じていたグレースには、彼の百面相など知る由もない。
セドリックは震えが止まらない手を、彼女の滑らかな頬に軽く添える──ここからセドリックの記憶は曖昧になっているが、身を屈めた彼はこの上なく慎重に唇を合わせていた。はたから見ても、優しすぎる口付けであった。
祝福の拍手に包まれ、グレースはおもむろに目を開ける。眼前には真っ赤になって、たくさん汗をかく彼がいた。グレースは衝動的に彼の胸元にもたれ、頭を預けていた。ややあって、ふんわりと抱きしめられたグレースは一瞬、涙がこみ上げてきて、喉の奥には痛みを感じた。でも辛いことなんて何も無い。幸せな痛みをやり過ごした彼女は、太陽の輝きにも負けない笑顔を浮かべるのだった。
教会から近い場所に、住民が集まりに使う会堂がある。披露宴はそこで行われた。
会堂には港町の住人の姿もあった。めでたい事は皆で共有すべきという風習もあるが、単純にお祝いしたいと願う人間がほとんどだった。交流のある漁師や農夫、またその家族、果てにはただ通りがかっただけの人まで途切れることなくやってくる。エイダは給仕に走りつつ、グレースのところにお酒が運ばれないよう、常に目を光らせている必要があった。
「カイルの作ってくれたケーキ、すごいですわ。飾りのお花が本物みたいですよ、セドリック様」
「こんなものも作れたんだな。見事な技術だ」
「約束を果たしてくれた事、あとでお礼を言わないといけませんわ」
「ついでに給料も上げてやらないとな」
「ではエイダの分もお願いします」
「……」
「セドリック様?」
「っ! ああ、うん。無論だ」
「何か悩み後ですか?」
「だ、大丈夫だ。その……何ていうか、君が……」
「わたしが?」
「う、う……美しいと、思って」
「まあ! 嬉しいですわ! 今日くらいは素敵なレディに、」
「今日だけじゃない! 君はいつも可憐で素敵だと思っている。所作だって上品だ。普段の何気ない動作を美しく行うには、長年の努力が必要だろう。努力を惜しまない気概は、君の素晴らしい美德だ」
「あ、ありがとうございます。そんなにたくさん褒めていただいて……感無量ですわ。わたしもお会いした日からずっと、セドリック様のことを格好良くて魅力的な方だと思っています! 容姿も素敵ですけれど、セドリック様は思いやり深くて、誠実で、何でも出来て、それなのに謙虚でいらっしゃるところとか、」
「グレースッ、もう大丈夫だ。ありがとう、そのくらいで……」
「わたしにはもったいないくらいの、」
「聞こえてくれ。頼む」
遠目にも分かるくらい赤面する二人を眺め、バートルズ夫妻は滲んだ涙を拭った。
「見てくださいな。グレースの嬉しそうなこと。良い方を紹介してくださったサンダーソン伯爵に、改めて感謝申し上げなくては」
「必要ない。奴は昔からいけ好かん」
「伯爵には人望があって、あなたには無かっただけでしょう。いい歳して僻むのはおやめください。長い付き合いでしょうに」
「僻んでなぞおらんわ! だが……人を見る目があることだけは、認めてやらんこともない」
「素直じゃありませんこと。あの子の爪の垢を煎じて飲むべきですわ。あなたのような捻くれ者のもとで、よくぞ素直に育ってくれましたよ」
「あの子は口が達者だが、お前みたいに嫌味ったらしくない。きっとお前を反面教師にしたんだ」
「あの子が育ての親にそんな失礼なことを考えるはずないでしょう」
「フン……私達の自慢の娘だからな」
「あらあら。いつもそこだけは意見が一致しますね」
ウィロウ夫妻の結婚式は、この場に集った全員が笑顔になるような式だった。そう、誰言うとなく語られていくのである。
義両親の手前、結婚式後は寝室を一緒にしようと、セドリック達はこそこそ打ち合わせをしていた。硬派なセドリックにしては大胆な提案である。出先で寝室を共にした経験があったからできた事だ。そうでなければ、彼の平常心は容易く崩壊していただろう。
打ち合わせ通り、セドリックとグレースは急きょ模様替えした空き部屋……もとい寝室へと向かう。
「エイダ。今日は本当にご苦労さま。疲れた顔をしているわ。はやめに休んで」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて今夜は失礼します」
「明日もゆっくりしていいのよ」
エイダは普段、どれだけ休憩を勧めても素直に頷かないのだが、さすがに今日は疲労困憊のようだ。大人しく下がっていった。カイルは全ての料理を作り終えてすぐ、本気の仮眠をとり、片付けを終えたら即、爆睡であった。
「あの二人ほどではありませんが、くたびれましたね」
「そうだな。僕達も休もう」
急いで整えたために、寝室は少々殺風景だ。だが、くたびれた今夜に限っては、ゆっくり休めるなら何でも良かった。柔らかな寝具があるだけでありがたい。グレースは吸い寄せられるようにベッドの方へ歩いていく。
ところが後ろから伸びてきたセドリックの手が、彼女の右腕を掴むのだった。
「……グレース。少しだけいいか。話したい事がある」
「はい。もちろんですわ」
彼から話があると言うのならば、きちんと聞きたい。グレースは彼と向き合うようにして立った。座ると途端に睡魔が襲ってきそうだったので、ぴっと背筋を伸ばす。
「僕が言った『お飾りの妻』についてだが……僕が間違っていた。本当に申し訳ない」
「えっ?」
ここに来てようやく、グレースは例の発言の真意を知ることとなった。
彼にとっては二度目の説明なのだが、一度目と同じように包み隠さず話し、再び謝罪した。グレースの受け取り方がどうだったにせよ、セドリックが「酷い夫」になろうとして、意図的に傷つけるような言動をとったのだ。彼としては何度謝っても足りない。
全てを聞き終えたグレースの反応はというと……
「まあ……! では全部、わたしのために……っ!」
一度目とそっくり同じであった。
そのためセドリックは一抹の不安に襲われた。だが今回はお酒を飲んでいないはずだ。セドリックとエイダの二人掛かりで見張っていたから間違いない。そう思いたい。
彼は気を取り直し、ポケットにしまっていたある物をグレースに差し出した。
「これは……セドリック様が縫ってくださったのですか?」
「ああ」
セドリックが彼女に渡したのは「G」のイニシャルと、鈴蘭の刺繍が入ったハンカチだった。めきめきと腕を上げたセドリックの刺繍は本職顔負けで、鈴蘭なんか絵のような美しさである。
ハンカチに見惚れるグレースだったが、ひと回り大きな掌に、両手を包まれたことで我にかえる。
「グレース。僕は君の夫として、この先の人生を歩んでいきたい。君はどうだろう。僕と同じ気持ちでいてくれるだろうか」
「本当に……っ、わたしで宜しいのですか?」
セドリックがしっかりと頷くのを見届けた瞬間──グレースの頰を涙が伝っていた。
彼はフォルトナト侯爵に向かって「グレースは僕の妻だ」と宣言してくれた。あの時だって偽りなく嬉しかった。だけど「お飾り」なんかじゃなくて、名実ともにセドリックの妻となる事の喜びに比べたら、どんなに嬉しかったことも霞んでしまう。
涙は一向に止まらず、しゃっくりまで出てしまうありさまだったが、グレースは途切れ途切れに返事を紡いだ。
「ふ、不束者ですが……っ、どうか末永く、よろしくお願いいたします……っ!」
感極まったグレースがあんまり泣くものだから、セドリックは困ったように眉を下げる。しかし彼の口元は、愛おしさの滲み出る微笑をたたえていたのだった。
翌朝。セドリックがいつもの時間に目を覚ますと、すぐ隣ではグレースが熟睡していた。涙を出し尽くした彼女は、ベッドに横たわった途端に寝入ってしまった。寝落ちする間際まで、彼女は貰ったハンカチを握りしめていたが、今もそのままになっている。今朝くらいは彼女と一緒に寝坊するのも悪くない、そう思ったセドリックは初めて日課をサボるのだった。
やがてカーテンの隙間から朝日が差し込んできた。眩しさを感じたグレースは、ゆっくりと目を開ける。
「おはよう」
「……おはようございます」
グレースの挨拶はまだふにゃふにゃしている。反射的に返しただけのようだ。でもセドリックには気掛かりな事があり、寝ぼけている彼女には申し訳ないが、確認をとらずにはいられなかった。
「グレース、昨日のことは……覚えているか?」
「昨日……」
ぼんやりとおうむ返しするグレースの目は、半分閉じかかっている。セドリックの脳裏に苦い記憶が過る。渾身の告白が綺麗さっぱり忘れ去られた、あの時の衝撃は頭と心にしっかり刻まれている。ひと味違うドキドキ感を味わいながら、彼はグレースの様子をうかがっていた。
するといきなり、彼女が飛び起きた。寝ぼけ眼はすっかり開眼している。
「わたし、正真正銘セドリック様の妻になったんですよね? 夢じゃないですよね?」
セドリックはひと安心した。それはもうホッとした。
「夢じゃない。君が持っているハンカチが証拠だ」
「ハンカチ……! ちゃんと触れます! 現実です!」
昨晩は大泣きしていたが、今朝のグレースは一転して大輪の笑顔である。
「セドリック様! ありがとうございます!」
喜色満面の彼女は、勢いよくセドリックに抱きついた。こういった愛情表現に縁が無かったセドリックは面映ゆい心地になる。
「僕のほうこそ、君と結婚できて幸せだ。感謝している」
抱き合っているために彼女の顔は見えなかったが、セドリックの背中に触れる両腕に、ぎゅっと力がこもった。
「……あんなに泣いたのに、また泣いてしまいそうですわ」
「我慢は良くないが、できる事なら君には笑っていてほしい」
笑っていてほしい、なんて言われたらグレースは破顔するしかない。
「今日から『本物の妻』として頑張ります! まずはハンカチのお返しからですわね! わたしも刺繍します!」
「楽しみだ」
「上手くいく保証はできませんけど、気持ちは目一杯こめますわ! 受け取っていただけますか?」
「もちろん。君が手がけてくれる事が嬉しい」
「セドリック様ったら、わたしを喜ばせるのが上手ですね!」
ここで終われば幸せな朝の一幕で終わっただろう。だがこの後に事件は起きた。とはいえ事件は勃発する前にカイルが食い止めたので、二人は知らないままである。
着替えのため、セドリックとグレースが各々の私室に戻った時。セドリックはさっさと一人で身支度を済ませて一階に下りていったが、グレースはそうもいかない。エイダが丁寧に髪を梳かし、今日の陽気に合うドレスを選び、化粧を施す一連の日課がある。ところが部屋に入ってきたグレースを見るなり、エイダは目をカッと見開いた。そしてこう言ったのである。
「……グレース様。申し訳ありませんが、少々お待ちください。一つ、仕事をし忘れておりました」
珍しいわね、と微笑むグレースを部屋に残し、エイダは真っ直ぐ厨房へ向かった。そこではカイルが朝食を作っているところだった。
「あ、おはようございま……何やってんすか!?」
こんな時間に珍しいな、と思いつつ振り返ったカイルは戦慄する。エイダの手にあったのは、鈍い光を放つ包丁だからだ。しかも解体用の大きい包丁である。
「……下半身の制御もできない男は、ちょん切って然るべきです」
「は!? ちょ、ちょっと落ち着いて……っ」
「どいてください。グレース様を泣かせた男に裁きの鉄槌を!」
「それ、ちょん切るどころじゃないっす! 命まで刈り取っちゃうヤツです!」
エイダは間違いなく見たのだ。グレースの目元が赤くなり、可哀想なくらい腫れてしまっているのを! 結婚式はもう済ませたからと浮かれ倒した男により、無体を働かれたに違いない。そう誤認したエイダは、心優しい主人に代わって制裁を加えようと言うのである。
説明が端的すぎてカイルは理解が追いつかなかった。しかし激昂している彼女を行かせたら「牢屋に入ることも辞さない」と話していた事が実現してしまう。おまけに、ちょん切られたらウィロウ家は断絶だ。最悪の事態を直感した彼は、懸命にエイダを抑えた。その苦労を知る者は、残念ながらいないのである。




