17
何の変哲もない一日になるはずだった。
セドリックはサンダーソン伯爵のところへ出掛けていき、グレースは刺繍の特訓をしてから、続けてダンスの復習、昼食を食べた後はエイダと散歩に行った。だから三時になるまでカイルは一人気ままな休憩時間だ。もちろん、彼のやる事といったら昼寝である。賑やかになったウィロウ家であるが、静かなこの時間は以前と変わらない。日当たりの良いところを熟知しているカイルは、薄い毛布を持ってきて横になろうとした。
突如、玄関の扉が開いた。それはウィロウ家の日常を壊す音であった。
ノックも無しに入って来るのは、この屋敷の住人だけだ。ここを訪れる客は皆、身分に関係なく礼儀正しい。無作法を働くとすれば泥棒くらいだが、白昼堂々が過ぎる。しかもカイルが見た壮年の男は、物盗りなんかする必要の無さそうな豪華な身なりをしていた。彼の身体が本能的に強張った。
「グレースという女主人はどこだ」
「えっと……どちら様でしょうか」
「聞こえなかったか。女主人を出せ」
これだけのやり取りでも、カイルは不快感を覚える。立場が上というだけで下っ端をぞんざいに扱う、カイルが最も嫌うタイプの人間だ。先日の船乗り達の方が、着ているものこそ粗末だったけれど、よほど人として好感が持てた。
「……奥様なら留守にしています」
「嘘ではあるまいな」
「本当です」
男は引き連れていた部下に「探せ」と命じる。無遠慮にも踏み込んできそうだったため、カイルは思わず「やめろ!」と怒鳴った。
「邪魔をするな」
冷酷な目をした男は、いきなりカイルの腹を殴った。うずくまる彼の横を、部下と思しき連中がすり抜けていく。屋敷にある部屋の扉を一つ一つ開けては、調べてまわっているらしい。カイルは以前のクソみたいな職場が思い出されて虫唾が走った。
「げほっ……いくら探していませんよ。とっととお帰りください」
「グレースはどこだ」
「教えるわけないでしょう」
「そうか」
男は容赦なかった。カイルは顔を殴られ、太ももを踏み付けられた。最後にもう一発、腹を蹴られた後、彼は意識を失ってしまったのだった。
いつも通りに出発したセドリックだったが、屋敷への道を大急ぎで走っていた。急遽、着替える必要が出てしまい、正装を取りに戻ってきたのだ。そういう事情が無ければ、カイルの発見はもっと遅れていただろう。
「カイル!? どうした!? おい、しっかりしろ!!」
暴力を受けたのは一目瞭然だった。幸いにも呼吸に異常はなく、カイルは程なくして薄目を開けた。
「あれ……旦那様……?」
「この怪我はどうした? 誰にやられたんだ!」
少し朦朧としていたカイルは、セドリックの声にハッとなる。
「そうだ奥様……っ」
「グレース?」
「まだ帰ってきてないっすか!?」
「動くな。酷い怪我だぞ」
「奥様を探してください!」
口の中が切れて痛んだが、カイルは懸命に訴えるのだった。
「誰だか知らないオッサンがいきなりきて、奥様はどこだって聞いてきたんです! あれは只者じゃなかったっす! 海賊よりヤバい感じでした!」
「グレースはどこに行ったんだ」
「港まで散歩です」
「わかった。君は傷を冷やして寝ていろ」
「言われてなくても動けないっすよ」
言い返す元気はあると判断したセドリックは、後ろ髪を引かれつつも屋敷を飛び出した。
グレースに何かあったら、そう考えると気が狂いそうだった。セドリックは港を目指して全速力で走る。恐怖で息が乱れ、心臓が苦しかった。だから亜麻色の小さな頭を見つけた瞬間、彼は泣きそうになったのだった。
「セドリック様?」
いつものグレースがそこにいた。安堵のあまり、両脚から力が抜けそうになったが堪える。セドリックは一度、大きく息を吐いてから、彼女の手をとった。
「説明は歩きながらする。急で悪いが帰るぞ」
「は、はい」
彼の鬼気迫る顔に、グレースは感じるものがあったようだ。手を引かれるまま、何も聞き返さずに歩き出した。
セドリックは言葉選びに迷った。グレースを狙う男が押し入った、なんて聞けば怯えさせてしまう。かと言って濁して話せばと危険が伝わらないかもしれない。
「何かあったのですか。まだお仕事中ですよね」
沈黙を破ったのはエイダだった。彼女の鋭い視線に誤魔化しは効かないだろう。セドリックは見た事をその通り伝えるしかなかった。
「……用があって戻ったら、カイルが倒れていたんだ。何者かに殴られたらしい」
「!」
「どうして……っ、カイルは無事ですか!? 誰がそんな酷いことを!」
エイダは目を見開き、グレースは悲痛な声を上げる。
「会話はしっかりできたから大事には至っていないだろう。犯人はわからない。ただ……カイルによれば、君を探していたと言う」
「えっ……? わ、わたしを?」
「犯人の正体も目的もわからない。まずは騎士団に通報しよう。怖がらなくていい。君のことは僕が守る」
「僕のそばから離れないように」と彼が告げると、グレースはこくこくと何度も頷いた。彼女の顔は真剣そのものではあったけれども、目の下がほんのり赤く染まっていた。
屋敷ではカイルが上半身だけ起こして自分で手当をしていた。しかし彼の性格なのか、痛くて上手くできないのか、やり方が大雑把である。問答無用でエイダが交代し、包帯をきっちり巻き直していく。彼が多少痛そうにしても容赦ない。
カイルの痛々しい姿を見て、グレースは憂慮に堪えなかった。話を聞く限り、彼はとばっちりを受けたことになる。
「ごめんなさい……謝って済むことではないけれど……」
「なんで奥様が謝るんですか。暴力を振るう奴が悪いに決まってます。奥様のせいじゃないですよ」
「お医者様に診てもらったほうがいいわ」
「俺、医者が苦手なんでお気持ちだけで結構っす」
「見た目にはわからなくても、骨や内臓が傷付いていたら大変よ」
「俺も一応男なんで、殴られた経験くらいありますよ、奥様。だから本気でマズい時は勘でわかります」
エイダは彼を一瞥したが、すぐに視線を手元に戻す。
「いいえ、やっぱりだめよ。こんなに赤黒くなって……」
「大丈夫じゃなかったら今頃ピクリとも動きませんて。それよりはやく騎士団に話をして、犯人を捕まえてもらわないと」
グレースが狙われたままでは、おちおち外も歩けない。カイルも治療どころではなかった。
「歩けるか、カイル」
「いけますよ。証拠である俺が行かなきゃ、話にならないですからね」
「辛いなら背負うぞ」
「いやー、そっちの方がちょっと辛いっす。俺の心が」
手当が終わるとすぐに四人は騎士団の詰所へ向かった。
たとえ辺境でも、町を守る騎士は配属されている。人数は多くないが、この町で起きた揉め事なら対処にあたってくれるはずだ。
ところが詰め所に着いた途端、セドリック達は騎士に包囲された。これではまるでセドリック達のほうが悪者のようである。困惑する彼らに待ち受けていたのは、さらなる混迷であった。
「昔から何をするにも遅いままだな、お前は。通報さえ迅速にできないのか」
騎士達が道をあける。そこを悠々と歩いてきたのは、カイルを痛めつけた犯人で──
「……お、お父様……っ!?」
グレースの実父であるフォルトナト侯爵だった。
彼女以外は初めて目にする人物である。セドリックとエイダは話に聞いただけで、顔は知らない。わざわざ見たいとも思わなかった。カイルに至ってはすべてが初耳だ。
「は……? 奥様の、父親?」
カイルは親娘を見比べようとしたが、すぐにそれどころでななくなる。グレースがみるみる青ざめ、表情を凍りつかせるのを目の当たりにしてしまったからだ。事情を知らないカイルでも、強烈に嫌な予感がした。
彼女の生い立ちを知るセドリックとエイダは、瞬時にグレースを守るような体勢をとった。二人とも敵意が剥き出しになっている。
しかしフォルトナト侯爵は敵意など意に介すこともなく、グレースにのみ話しかけるのだった。
「お前を迎えにきた。今のお前には価値がある。エバーハート家、ラインミュラー家と親交があるそうだな。とりわけ公爵家との繋がりは、我が一族の利益となろう」
「勝手なことを……! 彼女にした仕打ちも忘れて、今さら父親面をするのか!」
「どんな手管を使ったか知らんが、結果は結果だ。我が家名を名乗るに相応しいと認めてやる」
侯爵には反論など聞こえていないらしかった。視界にさえ入れようとしない徹底ぶりに、セドリックの憤怒の炎は燃え上がった。
彼に庇われるグレースは、体を硬直させながら父親を凝視していた。捨てられてから一度も会う事はなかったのに、父だとすぐ分かった。外見こそ年相応に老けていたけど、娘を見下ろす目は何も変わっていなかったからだ。冷たく、非情で、愛情の欠片さえ感じられない、恐ろしい目だった。
「フォルトナト家に戻れ、グレース。こんな田舎にいたところで、何一つ益は得られない。お前にはもっと価値のある縁談を用意してやろう。私の力をもってすれば、いかにお前が愚鈍でいまひとつの器量でも結婚させてやれる」
フォルトナト侯爵はあらゆる人間を価値があるか、それとも無価値かの二つに分類する。グレースはことごとく無価値な娘だった。何の才能も魅力ない子供なんぞ、ただの金食い虫。ゆえに捨てた。無価値なものに時間を割くほど、馬鹿げたことはない。
しかし無価値だった娘はいつの間にか、公爵家との繋がりを持つようになっていた。フォルトナト侯爵家をも上回る、指折りの貴族だ。それには大いに価値がある。グレースが既婚者であることなど、どうでもよかった。そんな事は金で解決できる話だからだ。
「彼女は僕の妻だ。他の縁談の話などするな。不愉快極まりない」
ここでようやっと侯爵はセドリックに目を向けた。その仕草はとても億劫そうで、見ている者の神経を逆撫でする。
「いくらほしい? ウィロウ子爵」
「要らない。二度と彼女の前に現れるな」
「強情を張ることはない。貴殿の懐事情は知っている」
「だからなんだ」
「持参金目当てで結婚したのであろう」
「馬鹿にするのも大概にしろ!! 金が目当てなのは貴様だろう!!」
セドリックが吠えた。グレースを叱った時の剣幕とは比べものにならない。怒りの種類が違うのだ。彼の体中を駆け巡る怒りは猛烈で、憎悪さえも渦巻いていた。
「もう一度言う。グレースは僕の妻だ! 引き離すというのならば、断固として抵抗する」
空気を震わす宣言に、グレースは胸元をぎゅっと握りしめていた。彼女の眼前には、父から自分を守るように立ちはだかる広い背中があった。
「やれやれ……お前の夫も頭が悪いな」
フォルトナト侯爵は呆れたように言うが、無表情のままだった。侯爵が合図を送ると、セドリック達を取り囲んでいた騎士達が一斉に剣を抜いた。金で買われた騎士達は、弱者の味方ではなくなっていた。
「グレースは傷つけるな。残りはどうなっても構わん」
「やめてください! お父様っ!」
グレースの悲鳴が号令であったかのように、誰よりも早くセドリックが動いた。
彼は振り下ろされる剣をかいくぐり、反撃の隙を与えずに相手を叩きのめす。尋常ではない剛腕だった。訓練を積んだはずの騎士達が一方的に倒されていく。
ここへきて初めてフォルトナト侯爵の顔色が変わった。侯爵とて、すんなり娘を連れ戻せるとは考えていなかった。セドリックが反対するところまでは想定内だった。しかし、妻を奪われまいと歯向かってくる彼の強さは、完全に想定外であったのだ。
一人、また一人と騎士が昏倒する。セドリックは丸腰で、しかも背中にグレースを庇いながらの戦いだ。圧倒的に不利なのはセドリックのはずなのに、その身ひとつで敵を完封していた。
「騎士への反逆は厳罰に問われるぞ」
「ならば彼女を連れ去ろうとする貴様は誘拐犯だ」
このままでは全員蹴散らされると予感した侯爵は、素早く側近に命令を飛ばした。そうして狙われたのは……カイルとエイダだった。エイダは主人を抱きしめるようにして守っていたが、突然に引き剥がされた。カイルはすでに拘束され、地面に押し付けてられている。
「エイダッ! カイルッ!」
グレースの叫び声がセドリックの耳朶を打つ。反射的に動きを止めた彼に向かって、今度はエイダが力の限り叫ぶのだった。
「そのままグレース様と逃げてください!!」
それが実行されればエイダ達は無事では済まない。しかしエイダは恐怖をひた隠して、表に出さなかった。
カイルも不恰好な笑みを作っていた。負傷した体を押さえつけられ、痛みで脂汗が滲んでいたが、彼は決して痛いと言わず、呻き声さえ漏らさなかった。すべてはグレースを逃すためだった。
二人の献身を無駄にしないために、やるべき事は一つ。ところがセドリックの体は動きを止めていた。
グレースが泣いていたのだ。大きく開かれた瞳から、大粒の涙が音もなくこぼれていたのである。そんな彼女の目の前で二人を見捨てていくことなど、セドリックにはできなかった。
「替えのきく使用人なんぞに同情してどうする。だからお前は愚かなのだ、グレース」
勝利を確信したフォルトナト侯爵は、わざとらしいほど鷹揚に娘へ語りかけた。
「力尽くで攫うのは簡単だが、後処理が手間だ。お前の意思でこちらへ来い。ウィロウ子爵は暴行罪で牢屋に入ることになるだろうが、お前が私に従うなら、罪を軽くしてやる」
「……」
「犯罪者の妻でいたいのか? お前はそこまで愚鈍か? 一度くらい親の役に立ってみたらどうだ」
グレースは泣き濡れた顔で父親を見上げた。ややあってから一歩、父の方へと足を踏み出すのだった。
「だめですグレース様っ! 私達のためにご自分を犠牲にしないでください!」
エイダの必死の制止も、グレースの歩みを止めることはできなかった。
グレースが侯爵の手に渡ってしまったら、二度と戻ってくることはない。もう二度と、幸せそうに笑う彼女を見られなくなってしまう。
「グレース……ッ!」
セドリックは無我夢中で彼女の背中に手を伸ばした──その瞬間。
「わたしはバートルズ家の娘でっ!! セドリック様の妻ですっ!!」
涙を振り払ったグレースが声高に表明する。
そしてなんと、フォルトナト侯爵の頬を平手打ちしたのである。
「これでわたしも暴行罪ですわ! 夫と一緒に、どうぞ牢屋行きにしてください!」
あのグレースが、人を叩いた。その衝撃たるや凄まじく、セドリック達はもとより、フォルトナト侯爵でさえも絶句するありさまであった。
セドリックと離れたくない。彼の妻でいたい。そのためならばグレースは喜んで共に牢屋に入る道を選ぶ。彼女の想いはそれほどまでに強く、一途であった。
きっとセドリックは父の前だったから「お飾りの」とは言わなかっただけ。建前上の妻なのはわかっている。父の言う通り、自分は愚鈍で器量もいまひとつだから。それでもグレースは悲しくなどなかった。束の間であっても本物の妻になれたみたいで嬉しかった。彼女の心は間違いなく幸せに震えたのだ。
「……良かろう。我が家から犯罪者が出たとあっては一生の恥」
馬鹿にしていた娘から、手痛い反撃を食らった侯爵は業腹だった。凍てつく目でグレースを見下ろした。だが彼女はもう、それしきで縮み上がったりしない。堂々と相手を睨み返していた。父の期待に応えられないからといって、彼女が恐怖を覚えることはもうないのである。
「フォルトナト家にグレースなどという娘は存在しなかった。お前を産んだ女も無駄死にだったわけだ」
最後の最後まで、この男はグレースの心を抉っていった。しかし彼女は傷付いた表情を見せなかった。
「お母様について語る資格なんて、わたしにも貴方にもありません」
「何を言うかと思えば下らん。ウィロウ夫妻を捕らえて牢屋に入れておけ。彼らの望み通りな」
「この私に楯突きおって……」そう吐き捨てた後、フォルトナト侯爵は撤収していった。
自由になったカイルとエイダの代わりに、今度はセドリックとグレースが捕まる。彼女に縄がかけられる寸前に、エイダが体を滑り込ませた。いつも落ち着いて淡々としているエイダは号泣していた。
「グレース様……! なんで手加減したんですか!? ああいう時は平手じゃなくて拳です!」
「泣くところ、そこっすか?」とカイルがすかさず呟くのだった。
「わたし、力いっぱい叩いたわ」
「全然足りません! 急所を蹴り上げるくらいやってください!」
「ふふっ、エイダったら」
グレースが縛られそうになると、エイダは自分が代わると言い張った。「経験者ですから」だなんて屁理屈を捏ねるが、今はグレースのほうが落ち着いていた。
「牢屋に入るって啖呵を切ったのはわたしよ。潔くお縄を受けるわ」
「あんな酷い場所にグレース様を行かせられません!」
「酷いかどうかは、行ってみないとわからないじゃない。それよりエイダ、カイルのことよろしくね。わたしじゃあ、エイダみたいに上手に手当てできないから」
エイダは泣く泣くグレースの頼みを聞き、引き下がるのだった。
手首と腕を胴体に固定されたグレースは、同じように縛られたセドリックのところへ歩いていく。まさしく罪人の姿だというのに彼女は緊張感が無く、まったくもっていつも通りであった。
「夫と一緒にと言いましたけど、男性と女性が同じ牢屋に入ることはできませんね」
「気にするところが違う」
「あっ、もしかして刑の重さも違うのでしょうか。だとすると一緒に帰ることができないかもしれません! 一大事です!」
「そうじゃなくてだな」
元凶はフォルトナト侯爵なのに、二人が牢屋送りになるのは理不尽だ。せめて彼女だけでも、とセドリックは思うのだが、グレース本人は牢屋へ入ることに乗り気である。常時であれば、彼も強く制止しただろう。しかし先程の「セドリックの妻」だという声明を聞いた後では、どうして彼女を止められようか。縛られていなければ、いつぞやみたいに彼女を抱き寄せていたに違いない。
「牢屋が別々なのは仕方ないにしても、刑期は同じにしてくださいって、お願いするだけなら構いませんよね?」
もっと他に心配するところがあるだろうに、グレースは的外れな質問をする。
「被告人にも意見を述べる権利はある。認められるかは別だが」
だが馬鹿真面目に答えるセドリックも、彼女と良い勝負であった。




