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 冬を待たずに結婚式を挙げることができる。それを知ったグレースの喜びようといったら! 花嫁姿は妻の象徴である。花嫁衣装を着ている時だけは、お飾りであるかどうかなんて忘れても許されるだろう。すぐに消える儚い幸せだとしても、彼女はその日を心待ちにしていた。

 実際はとっくに「お飾りの妻」なんかではなくなっているのだが、記憶がない彼女はいまだ「普通なお飾りの妻」を目標にして日々励んでいる。

 グレースの心情を写したかのように、空は素晴らしい快晴だった。生憎とセドリックは仕事でいないが、グレースはエイダと散歩するのも大好きだ。


「結婚式はこの町の教会で行うのよね?」

「古くて小さな教会でしたが、よろしいのですか? 隣町の教会は立派だそうですよ」

「古いのは長いこと皆から大切にされてきた証拠よ。それに海が見える教会なんて、とても素敵じゃない? わたしは嬉しいわ!」


 行き慣れた港へ向かうグレースの足取りは羽のように軽かった。エイダのさり気ない修正がなければ、方向音痴の彼女はあっという間に方角を見失うというのに、能天気なものである。だけどグレースは苦労知らずのお嬢様ではない。だからこそ笑顔を絶やそうとしない前向きな一面が際立つのだろう。

 気分良く歩いていた彼女が不意に足を止めた。


「……ねぇ、エイダ。様子が少しおかしくないかしら」

「本当ですね」


 港から大きな声が聞こえる。漁師達の威勢のいい声が響くのはいつもの事。でも今日は大声の質が違った。二人は急ぎ足になって声の出どころへ向かう。正確にはグレースが走り出したので、エイダは追わざるをえなかったのである。万が一、主人がドレスの裾を踏んづけるなどして転倒した時に備えなくてはいけない。


「だからよぉ! そんなモン渡されたって売れないよ! しつこいな!」


 エイダの懸念をよそに、グレースは転ぶことなく声音を辿ることができた。陽気で気前の良い漁師が、珍しく腹を立てて客を追い返そうとしている場面であった。その剣幕に普通の女性なら怯むところだが、グレースは逆に首を突っ込んでいくので、周りを冷や冷やさせる。


「こんにちは」

「あっ! わ、若奥様! これはどうも……見苦しいところをお見せして」


 彼女の姿を見るやいなや、漁師の男はたちどころに怒声を緩めた。


「お話中にごめんなさい。どうなさったのかと思って」

「それなんですがコイツ、金を持ってないのに野菜を全部売れって聞かないんですよ。俺も困っちまって……」


 男は漁師だが、彼の妻は畑で野菜を育てており、魚を売るついでに今朝収穫した野菜も並べていたのである。町の住人が集まる場所ゆえ、色んな物を売りに来ている人は多い。

 次いでグレースは客の方へ目を向けた。こちらも男性で日に焼けているところも同じだ。しかし服は擦り切れ、薄汚れていて、袖から伸びる手足は痩せて色艶も悪い。

 頑固な漁師にも、乱入してきたグレースにも苛立っていたその客は我慢できずに大声を出すのだった。


「金はないが代わりの物はあると言っている! 本当ならこの腕輪一つで、出ている商品みんな買えるんだ!」


 だが負けじと漁師も言い返す。


「そうやって詐欺師はオレ達を騙すんだろ! オレの親父はただの硝子玉に騙されたんだ! 親父は騙せても、オレは騙されないからな!」


 互いに喧嘩腰で、一触即発の雰囲気である。エイダは主人が巻き込まれないよう退散したかった。ところがグレースは呆れるほどににマイペースであった。


「わたしも宝石と硝子玉の見分けはつかないわ。どちらも綺麗ですものね」

「……さっきから何だ! この女」

「おい! 失礼な口の利き方をするなよ! この方はウィロウ家の若奥様なんだから!」

「お好きなように喋ってくださって構わないわ。わたしはグレース・ウィロウと申します。はじめまして」

「ど、どうも……」


 思いきり怪訝な視線をぶつけられてもなお、微笑みながら自己紹介するグレースを見て、男達の威勢は削がれてしまう。


「それにしてもたくさんお野菜がいるのですね。あなたはコックなのですか?」

「頭領の指示なんだ。ここで買い込んでおかないと船旅ができない」


 男性客の見た目、頭領という聞き慣れない単語。極めつけは船旅。漁師とエイダは似たような結論にたどり着く。


「グレース様! 離れてください! この男、賊かもしれません!」

「おっ、お前……! まさか海賊か!?」


 二人が青ざめる中、ひと拍子遅れてグレースは「海賊?」と小首を傾げた。

 いきなり容疑をかけられた相手は焦り始める。そういうところも怪しく、追及の視線は厳しくなる一方だった。


「違う! 法に触れることは断じてやっていない! 頭領ってのはその、言葉の綾というか……」

「我がマラキア国の貨幣も持っていないのに、この国の法律がわかるのですか?」


 エイダの鋭い指摘に、男はたじたじである。


「ぐっ……いやでも本当にただの船乗りなんだ。見てくれが怪しいのは認めるが、手配書だって出てない。確認すればいい」

「言い逃れの常套句にしか聞こえません」

「用が済めば出て行く。騒ぎにしないでくれ」

「先に大騒ぎしていたのは貴方ですが?」

「……」

「エイダ、そんなに責めなくても良いじゃない」


 大抵のことなら聞き分けるエイダも、今回ばかりは看過できない。


「グレース様は初対面の不審な人物を信用するのですか」

「そういうわけじゃないけれど、でもちょっと考えてみて? わたしがエイダにお買い物を頼んだとするでしょう。お目当てのものが買えなくてエイダが困っているのを見たら、わたしは悲しくなるわ。わたしの頼み事で、あなたに苦労をかけたのだから。頭領と呼ばれる方だって、わたしと同じ気持ちになるんじゃないかしら」


 グレースの澄んだ瞳に見つめられると、エイダも男も漁師も皆、黙り込んでしまう。


「この方は指示に対して従順だっただけでしょう? それは何も悪いことではないわ。あっ、そうだわ! お野菜がほしいならわたし達が買って、わけてあげましょうよ。わたし達も色んな方からお祝いとして、たくさん頂いてきたもの。親切は巡っていかなけばいけないわ」

「……グレース様が良いのであれば」


 そこからはもうグレースの領分であった。男達が何を言っても、優しい声と明るい笑顔に閉口させられてしまったのだ。あわや通報されるところだった男は、グレースから必要以上の野菜を渡され、困惑の表情のままどこかへ去っていった。


「若奥様には敵わないねぇ」

「本当ですよ」


 漁師とエイダにできたのは、苦笑いを浮かべることだけだ。


 散歩から戻ったグレースは、カイルお手製の焼き菓子を食べて休憩していた。ウィロウ家の懐事情が温かくなってからというもの、三時のおやつは確約されているのだ。


「それってマジで海賊だったんじゃ……」


 屋敷にはどうせ三人しかいないので、休憩は全員一緒だ。カイルは自分が作った菓子を、味見と言いながら遠慮なく食べている。


「今はほとんど見かけないと聞いたわ」

「そりゃあ俺も見たことないですけど、実在はしてますからね」

「でもお話した感じは普通の方だったわ。武器も持っていなかったし、眼帯だってしていなかったもの」

「グレース様、さすがに楽観的すぎます」

「眼帯が判断基準なんすか?」


 ここまで話した時、ちょうど来客を知らせるベルが鳴った。近頃、ウィロウ家に訪れる客人が増えたため、壊れて落ちたままになっていたドアベルを修理したのである。

 ドアを開けたエイダは驚いた。噂をすれば何とやら。つい先刻、港で野菜をわけた男が立っていたのである。しかも彼だけではなくもう一人、齢四十と思しき大男がいた。背丈はセドリックと大差ないが、眼光が鋭い上に、体の傷跡も多い。グレースの判断基準でいくと、眼帯はしていないので海賊ではないという事になるが、エイダはそんな楽観視はしない。むしろ警戒をいっそう強めるのだった。


「先程、私の配下がこちらの奥方に世話になったと聞いた。直にお礼を伝えたく、参上した次第だ」


 常に冷静なエイダでさえ少しの間、声が出なかった。確かに頭領と呼ばれるのも納得の風格だ。言っている事はまともだが、不気味な見た目の男が何をするか分かったものではない。このまま中へ通していいのか、追い返すべきか、エイダは逡巡する。


「……警戒はもっともだ。中へ入れたくないのなら、奥方を呼んではもらえないか。挨拶だけさせてほしい。長居はしない」

「……かしこまりました」


 呼ばれたグレースは警戒することもなく、のこのこと玄関までやってきた。


「貴女がグレース殿ですか?」

「はい、そうです。はじめまして」

「この者に親切にしてくださったそうで……大変助かりました」

「頭領さん、でしょうか? 困った時はお互い様と言いますもの。助けになれたのなら良かったですわ」

「私はヴァンと申します。貴女に感謝をお伝えしたかった」

「ヴァン様は船乗りなのですか?」

「ええ。海が好きで、ほとんどの時間を船の上で過ごしています」


 ますます怪しがるエイダとは対照的に、グレースは好奇心が刺激されてしまった。


「まあ! ぜひお話を聞かせていただきたいわ! わたしは船旅をしたことがないのです。よろしければ中へどうぞ。カイル、追加のお茶をお願いね」

「グレース様!」

「ちょっとマズいんじゃないですかね!?」

「まずくないわ。カイルのお菓子はとても美味しいから大丈夫よ」

「味の話じゃないっす!」

「当主様が留守の間に、他の男性を連れ込むのはよくないことです。グレース様」


 エイダの台詞は効果覿面であった。


「……それはそうね」


 しかし、グレースがしゅんとなったのは一瞬だけだった。


「あっ! じゃあセドリック様が帰っていらしたら大丈夫ね!」

「……グレース殿、我々は挨拶に来ただけですから」


 何故かヴァンまでグレースを止めようとする始末である。実は良識ある男なのかもしれない。


「ほとんど船の上で過ごされるということは、次はいつ、こちらに停泊するのか未定なのではありませんか?」

「そうですが……」

「でしたら今日は貴重な機会ですわ! 今日を逃したら、お話をお聞きする機会を失うかもしれませんもの」

「しかし他の皆を待たせているので……」

「お仲間がいらっしゃるのですか? では皆さんでいらしてください! 色んなお話が聞けそうですわ! ちょうど食器も増えたところなのです。大勢いらしても、お皿が足りなくなることはありませんわ」

「こんな格好では……」

「誰も気にしませんわ。わたしが保証いたします!」


 海賊紛いが相手であっても、グレースには敵わないらしい。根負けしたのはヴァンの方で、夜にまた来ることを約束させられたのだった。


 グレースが子犬ではなく海賊を招き入れた。そう聞かされたセドリックの心境は計り知れない。


「……何がどうなったらそうなるんだ」

「俺に聞かれても困るっす」


 帰ってみれば、食卓にずらりと皿が並べられており、何事かとカイルに聞いたらこれだ。


「どんな相手だ」

「いやー、見るからに怪しい感じでしたよ。この世から見放された的な?」

「……そういう相手に弱いんだろうな」

「えっ? なんすか?」

「こちらの話だ。気にするな」

「まあでも話は通じるっぽいんで、何とかなるんじゃないっすか。奥様に感謝してるのは、嘘じゃなさそうでしたし」

「君も随分と楽観的になったな」

「わりと元々じゃないですか? それに奥様見てると、まあいいかってなるんすよ」

「そうだな。約束してしまったものは仕方がない。せいぜい不興を買わないように努めよう」


 セドリックから小さな笑いが漏れた。


「……旦那様、なんかよく笑うようになりましたね」

「そうか?」

「俺、旦那様の顔は鉄製だって思ってましたから」

「……そんなにか?」


 もともとセドリックは表情豊かとは言い難かったが、父を亡くしてからは顕著だった。いつから自然に笑えるようになっていたのか、彼自身もわからなかった。一つだけ確かなのは、グレースのおかげという事である。


「にしても、十人分も用意するのなんか久しぶりすぎて、腕つりそうですよ」


 客人はヴァンを含めて八人。そこへセドリックとグレースの分も料理を作らなければならないので、カイルは大忙しだった。けれどもその横顔は、どことなく生き生きしていた。


「無理するなよ」

「大丈夫っすよ。思う存分やれるのって楽しいので」


 ウィロウ家始まって以来の豪華な夕食になりそうだ。


 定刻通りにやって来たヴァン達は、見るからに戸惑いの色を浮かべていた。セドリックも同様で、お互いに「どうしてこうなった」と顔に書いてある。謎の共感を覚えつつ、代表同士が握手を交わす。


「ご招待に感謝を……」

「妻が少々無理を言ったようで……」


 ヴァンが連れて来た配下の男達も、見てくれに反しておどおどしている。その様子からして、悪人と決めつけるのは早計な気がした。


「狭くて申し訳ないが、どうぞ中へ」

「失礼します」


 ほぼ全員がうろたえている中で、グレースだけは嬉しそうに笑っていた。


「お待ちしていました。来てくださってありがとうございます。さあ、お好きな席へどうぞ。皆様、苦手な食べ物はありますか? 先にお尋ねすべきでしたのに、うっかり忘れてしまって……今からでも間に合うので、教えてくださいね。飲み物は何がよろしいでしょうか。お酒や果実水もご用意していますわ」


 不思議なものでグレースが話しているうちに、客人達の緊張はほぐれていった。最初に口を開いたのは、港で出会った男だった。騒ぎ立てた事を恥じつつ「助かりました」と彼女にお礼を告げた。それを皮切りに、他の客人もぽつぽつと喋り始めるのだった。


「船旅はどれくらい続いているのですか?」

「もう二十年は経ちますね」

「まあ! ずっと海の上ですか」

「いやいや、食料が底を尽く前に、どこかの港で調達するんですよ」

「嵐の時はどうなさるの?」

「そりゃあ船が沈まないよう、寝ずに舵をとるんです。冬は濡れると辛いこと辛いこと」

「過酷な旅なのですね……! 冒険譚をお聞きしているみたいですわ! 皆様は本物の海賊をご覧になったことがありますか?」

「おいおい奥様、俺たちが本物の海賊だったらどうするんですか!」

「皆様は船乗りでしょう? 海賊じゃないとおっしゃっていたもの。本物はどんな感じなのですか?」

「ひどく荒っぽい連中だよ。数えきれないくらい襲われたさ」

「奴ら、奪った物を売るのが生業ですからね。まあ返り討ちにしてやりましたけど」

「船旅には腕っ節も必要ですのね」

「そうそう。海の男は強くないと」

「本物の海賊は眼帯をなさっていますか?」

「眼帯……? してる奴もいたかもしれませんが……ちょっと記憶にありませんね」

「やはり空想なのかしら……」

「取り締まりが強化されてからは少し減りましたけど、奥様も海に出る時は、ちゃんと護衛が配置されている船を選んだ方がいい」

「その時は皆様がいてくださったら心強いですわ。そういえばなぜ『頭領』とお呼びに? 船長ではありませんの?」

「あ、ああー……それ、誰が言い出したんだったか。ふざけて呼んでいるうちに定着しちゃって……ははっ」

「ちなみに船長は俺ですよ。頭領は舵を握らないですし、船も俺のなんです」

「頭領と船長は別なのですね! 勉強になります!」

「何の……?」


 和気藹々、という言葉がぴったりだった。グレース達が盛り上がる傍らで、静かにしているのがセドリックの常である。

 緩く微笑みながら彼女を眺めるセドリックへ、同じく静かに見守っていたヴァンが話しかけるのだった。


「愉快な奥方だ。こんなに笑う皆を見るのは久しぶりです」

「何故、過酷な船旅を続けているのか、お聞きしても?」

「ああ……構いませんよ。私は世の中の諸々に嫌気が差したんです。それで自由な海を気ままに流れようと思いました。要は現実逃避ですよ」

「そうでしたか。お気持ちは何となく……わかる気がします」

「苦しみは誰しもあるもの。私は耐えられなくなり海に逃げた、腰抜けです」


 船旅とて命がけだろう。腰が抜けていたら、嵐の時に船が転覆してしまう。何もかも自由というのは身軽であるぶん、それに伴う厳しさがある。セドリックはそう思うのだが、いかんせんグレースみたいに口が回らない。

 それにしてもヴァンと名乗る男には、何とも言えない風情があった。海賊かと言わればそう見えなくもないし、全然違った風にも見える。謎めいた人物だ。しかし悪い印象はちっとも受けないので、これもまた謎であった。


 ヴァン達が満腹になってお暇する頃には、エイダの認識も「悪さをしない海賊」程度には改善されていた。


「心が満たされるひと時を過ごしたのは本当に久々でした。温かなもてなしに、心からお礼申し上げます」

「ありがとうございます! ご馳走様でした!」


 八人もの男に頭を下げられるのは、なかなかに壮観だった。


「こちらこそ、貴重な話を聞かせてもらいました。妻の願いを叶えてくださり感謝します」

「ここの港に停泊なさった時は、立ち寄ってくださいね。お野菜もお裾分けしますわ」


 ヴァンは若い夫婦を見つめ、静かに問うた。


「……なぜ見ず知らずの我々に、親切にしてくださったのですか」


 この問いかけに答えたのはグレースだった。


「わたし自身、困った時にはたくさんの方々に助けていただきましたわ。でも、どなたも見返りも求めたりしませんでした。ですからわたしも、同じようにすべきだと思うのです」


 これを聞くとヴァンは微かに笑った。そして「感謝の印として受け取ってください」と、夫妻に小さなお守りを手渡すのであった。


「これは珊瑚ですか?」

「とっても素敵ですわ。でもお守りなら、旅をなさっているヴァン様こそお持ちになったほうが……」

「夫婦で持つお守りなので、独り身の私には無用なものです。ぜひあなた方に持っていてほしい」

「セドリック様とお揃い……ありがとうございます!」


 珊瑚のお守りは夫婦の証のように思えて、グレースは顔をほころばせた。喜色が広がる横顔を見たセドリックは照れ臭そうにしつつ、自身も似たような表情をするのだった。

 八人の後ろ姿を見送った後で、セドリックは妻への苦言を「初対面の相手を招く時は慎重に」と呈するだけに留めた。グレースは見捨てられたり、見放された相手を決して放っておかない事を、彼は知っているからである。

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