14
天気の良い昼下がりのこと。ウィロウ家の食卓に届け物が置かれた。
「グレース様、ご両親からです」
「伯父様達が? 中身は何かしら」
エイダの言う「ご両親」とは無論、バートルズ家の養父母のことである。エイダはグレースの実父について聞いて以来、絶対にフォルトナト侯爵を親とは呼ばないのだ。
包みを開くと出てきたのは、小さな瓶が二つ。グレースはそれが何かすぐにわかり、瞳がきらりと輝くのだった。
「ティーハニーよ! わたしの大好きな! 嬉しい! すぐにでも感謝のお手紙を書かなくちゃいけないわ!」
ティーハニーといっても種類があるが、紅茶に溶かして使うハチミツがグレースのお気に入りだ。しかも養父母が送ってくれたのは最高級品で、とびきりの美味しさなのである。
「お手紙を書くなら、味の感想もお伝えしなくてはいけませんね。紅茶をご用意いたします」
「ありがとう。お願いするわ」
グレースが一緒にと勧めてくれるこの紅茶がエイダも好きだった。すぐさま厨房へ行き、茶器を準備するエイダに、昼寝をしていたカイルが気が付く。
「やべ……寝過ごした……? すみません、もうお茶の時間でしたっけ?」
「グレース様のご所望です。あなたも一緒にいかがですか?」
「俺も? よくわかんないですけど、いいんすか?」
「グレース様はきっと、全員に振る舞うおつもりですよ」
美味しいものは独り占めしない、それがグレースの信条なのだ。
「あら、カイル。ちょうど良かったわ。呼んできてって、エイダに頼むのを忘れていたの」
「はあ……なんかあったんすか?」
「わたしの好きなティーハニーが送られてきたのよ。みんなで頂きましょう」
「ああ、奥様の大好物だっていうアレですか」
エイダが無駄のない手つきで紅茶を淹れ、そこへグレースが小さな匙を使ってティーハニーをとろりと落とす。あとは軽く混ぜれば完成だ。カイルには至って普通のはちみつ紅茶にしか見えないのだが、グレースの高揚感は普通ではない。
「どうぞ、召し上がれ」
「どうもっす。いただきます」
ひと口飲んでカイルは理解する。これは確かに虜になる美味さである。紅茶の風味を損なうことなく、上質な甘みが広がっていく瞬間は至福の一言。
「うっま……! これ、めちゃくちゃ美味しいっすね!」
「ふふっ、そうでしょう? わたしも大好きなの。でもすごいお値段だから、少しずつ楽しむことにしてるのよ」
「俺みたいな庶民ならともかく、奥様は貴族なんですから好きな時に買えばいいんじゃないっすか?」
「家がお金持ちでも、それはわたしが稼いだお金じゃないもの」
カイルはバートルズ家の事情を知らない。グレースが望めば養父母は何でも買ってくれるのに、彼女が遠慮して言おうとしないなんて、知らないのである。
「それにわたしが今すべきなのは節約よ。結婚式のためのお金を貯めるのが優先だもの。ハチミツがなくても紅茶は美味しく飲めるのだから、わざわざ買うこともないわ」
「……誤解はそのままになってましたね、そういえば」
余計な出費は控えるべき、という彼の発言をグレースは律儀に守ろうとしている。この場にセドリックがいたら、過去の失言に頭を抱えて悶えていたに違いない。
「ねぇ、カイル。セドリック様ははちみつ紅茶もお嫌いかしら? 甘い物はあまり得意ではないのでしょう?」
「んー……嫌いって訳じゃなさそうですけどね。お菓子も出せば普通に食べてましたし。紅茶なら何も問題ないと思いますよ」
「そう? セドリック様にも美味しいって思ってもらいたいわ」
「じゃあ奥様が淹れてあげたらどうです?」
「わたし? エイダのほうが絶対に上手よ」
「旦那様は奥様に淹れてもらえたほうが喜びますよ。味の感じ方は人それぞれですし、特に旦那様なら大丈夫です。俺が保証します」
「私もそう思います。お手伝いしますから、グレース様が淹れて差し上げては?」
しれっとエイダも便乗する。二人から後押しされたグレースは、すぐにやる気を漲らせるのだった。
ただ紅茶を淹れるだけなら難しいことではない。茶葉に湯を注げばできる。しかし美味しく淹れるにはコツがいるのだ。エイダが培ってきたテクニックを、グレースは教わることになった。
二人に厨房を明け渡したカイルは二度寝をしようと再び横になっていた。ところがまたしても、彼は物音で起こされるのだった。パリンと何かが割れる音がしたのである。
「大丈夫っすか?」
「カ、カイル……やってしまったわ。わたしったら……っ」
まあ何となく予想はついたが、グレースがティーポットを落として割ってしまったようだ。床には粉々になった破片が散乱していた。
「気にしないでください。すぐ片付けますんで」
「あ、あの……」
「怪我するといけないので、俺がやりますよ」
「もしかしてポットってこれだけかしら」
「……探せばどっかにありますよ、多分」
ウィロウ家には余分な物が一切ない。ティーポットも然りである。けれど本当の事を言えばグレースが気に病むと思い、カイルは優しい嘘をついた。
「わたし、急いで買ってくるわ!」
ところが青ざめたグレースには通用しなかった。慌ててしまい、あんまり聞いていないようだった。
「えっ!? だ、大丈夫っすよ、ポットくらい無くても何とかなりますから」
「長いこと大事に使ってきたポットでしょう? たとえ無くて困らないとしても、セドリック様に申し訳ないわ! 第一、物を壊したら弁償しないと!」
こうなったグレースは止められないことを熟知しているエイダはすぐに、お供する方針に切り替えるのだった。最も避けなければならないのは、グレースが一人で外出してしまうことである。極度の方向音痴を単独で外に出すなんて無謀極まりない。
辺境の田舎町にある店など、たかがしれている。住民達が困らない程度の日用品は売っていても、品数は少ないし、品質もそれなりだ。だが今はとにかく、割れたティーポットの代わりを見つけることが先決だった。
エイダの頭の中には、この町の地図がおおよそ記憶されている。日用雑貨を売っている店も知っていた。逆に、散歩好きでよく出歩くグレースが、なぜ道を覚えられないのかが不思議である。
「空模様が怪しくなってきましたね。急ぎましょう、グレース様」
「ええ、そうね」
屋敷を出た時は青空が見えていたのに、黒い雲が急速に空を覆い始めていた。これはひと雨来る可能性が高い。
雨が降り出す前に、どうにか店にたどり着いたグレース達だったが、様子がおかしい。
「お休み…….?」
「定休日ではなかったはずですが……」
食器を売ってくれる店は折悪しく閉じていた。店主の都合なのだろうか。何にせよグレースにとっては大変困ったことになった。
「すみません! どなたかいらっしゃいませんか?」
一縷の望みをかけてグレースはドアをノックするが、返ってくるのは虚しい静寂のみ。
「どうしましょう……エイダ、他にお店はないの?」
「ありますが、ここからだと相当な距離に……」
エイダが言い終わる前に、ぽつりと雨粒が額に落ちた。間もなく、ざあざあと本格的に降り始め、グレース達は近くの木の下へ避難する。葉の隙間から雨が落ちてくるが、何もないよりはマシだった。
「グレース様、寒くありませんか?」
「平気よ。早足で歩いて暑くなっていたところだから、ちょうど良いわ」
しかしティーポット探しは更に難しくなってしまった。こんな雨では動けないし、雨が止んでも道がぬかるんでいては、歩くのに倍以上の時間がかかる。店につく頃には夜になってしまうだろう。
「……そう気を落とされず。当主様はグレース様を責めたりしませんよ」
悲しげに雨を見つめるグレースを、エイダは慰めた。彼が唯一叱った事といえば、危険を省みずに川に入った事だけだ。ちょっとやそっとの失敗を怒るような人物でないことは、エイダも認めるところである。
「……そうね。セドリック様は誠実で優しいわ。至らないわたしと結婚してくださるんだもの。初めから知っていたけれど、知り合うほどに本当に素晴らしい方だと思うわ。エイダ、わたしね。セドリック様にわたしが妻で良かったって思ってもらえたら、どんなに幸せかしらって最近よく考えるの」
グレースは眉尻を少し下げる。いつもの天真爛漫な笑顔とは違う、甘酸っぱい色香が透ける笑みだった。
「望まれているのは『お飾りの妻』だから、そんな事を考えても仕方がないのはわかっているわ。でも幸せなことを想像するのは、別に罪ではないでしょう? セドリック様に妻として認められる自分を想像すると、いくらでも頑張れる気持ちになるのよ」
どれだけ努力しても成果が出ず、父親から捨てられたグレースは、役立たずのままでは再び捨てられると恐れていた。だからバートルズ家の養女となった後も、幻滅されて捨てられることないよう、内心で怯えながら努力した。
養父母の愛情に包まれたグレースは、不出来な娘でも頑張り続ければ捨てられないと思うようになった。だからこそますます努力を続けた。
そして今。グレースは自分が捨てられないためではなく、想われるために頑張りたいと願うことができるようになっていた。十年以上の月日を共にしてきたエイダは、グレースの変化がただただ喜ばしい。
「応援しております」
「ありがとう。いまの話はここだけの秘密にしてね?」
「はい。心得ておりますよ」
今だけでも健気なグレースを独り占めできると思えば、エイダは役得だった。
「雨が止んだら頑張って歩くわ。ぬかるんでいても、道はあるのだから」
グレースらしく明るく笑い、顔を上げる。そうですね、とエイダも微笑んだ。
その時、二人の背後から野太い声が聞こえた。勢いよく振り向いた二人の動きはまったく同じだった。
「アンタら、そこで何をしとるんかね」
雨を凌ぐことに気を取られ、鬱蒼とした葉の向こうにぽつんと家があることなど、彼女達の目に入っていなかった。小屋のような家の住人は、いかにも気難しそうな頑固親父といった風体で、窓からこちらを睨んでいる。
セドリックも強面の部類だが、この老人のほうがよほど厳つく見える。
だというのにグレースときたら、まったく臆することはなかった。穏やかに微笑みながら、これまた穏やかな口調で喋り出す。
「うるさくして申し訳ありません。突然、雨に降られてしまったものですから、雨宿りしていたんです。こちらはご主人の敷地だったでしょうか」
「そうだ」
「勝手に入ったことを謝罪いたします。ですがこの雨が通り過ぎるまで、しばしこちらをお借りできませんか? もううるさくしませんので、どうかお願いします」
老人は不躾な目でグレースをじろじろと眺めていた。装いは庶民のものではない。言葉遣いの端々からも育ちの良さを感じる。ましてやメイドを連れ回せる立場の人間となれば、だいたい察しがつく。
「迎えの馬車は来ないのかね」
「歩いてきましたので、馬車はないのです」
「……アンタ、どこの人間だ?」
「名乗りもせずに失礼いたしました。わたしはグレース・ウィロウと申します。お屋敷はあちらのほうにありますわ」
「グレース様、反対方向です」
「あら? すみません。こちらの道を進んだ先にあるお屋敷です」
老人は他人に興味がなく、隣近所にも無関心な人間だったので、ウィロウ家と聞いてもピンとこなかった。わざわざ尋ねたのは、自分の予想が正しいのか確認するためだ。思った通り、グレースはいわゆる良いところの人間だろう。方向感覚はどうかしているようだが。
「……まあいい。そんなところに立たれても目障りだからな。こっちへ来て入りなさい。雨宿りくらいならさせてやろう」
「まあ! ご親切にありがとうございます! とても助かりますわ!」
仮にも貴族を相手に無礼な物言いをしたのに、グレースは感謝するだけだった。老人はなんだか面食らってしまう。
「荒さんといてくれよ」
「はい! 端っこの方にいます!」
荒らすなと老人は言うが、小さな家の中はすでに散らかっている。荒らすまでもなく汚い。老人は二人を見張るわけでもなく、あふれかえった物の中で作業を再開させた。
「茶なんか出さんからな。雨が止んだら出てっとくれ」
「お気遣いなく。お茶を飲んでから走ったら、横腹が痛くなってしまいますもの」
「走る? 競争でもしてるのかね」
老人の問いに、グレースは雨宿りに至るまでの経緯を語った。彼女の唇は淀みなく動き、一区切りつくまで老人は口を挟むことができなかった。
「ふぅん……ティーポットをね」
「あ、そうですわ。ご主人は雑貨を売っているお店を、他にご存じありませんか? わたし達、こちらへ来てまだ日が浅いので、知らないお店があるかもしれません」
「……店は知らんが、ここにあるヤツなら売ってやってもいいぞ」
「えっ? ご主人はお店の方でしたの?」
「違う。ただの趣味だ。ポットならその辺の箱に入ってるだろ。好きなのを取っていけ。欲張るんじゃないぞ、一つだけだ」
言われるがまま、グレースは大きな箱を覗き込む。雑多な室内とは対照的に、箱の中身は整頓されていた。
「どれでも良いんですか? わたしはこういった物の価値がわからないのですが、手持ちの額で足りるでしょうか」
「値段は交渉してやるから、さっさと選ぶこった」
ティーポットはそこにあるだけで九個あった。それぞれ絵柄も違えば、形も違う。目利きができないグレースにも、高いのではと感じさせる逸品もある。
しかしグレースは大して迷うこともなく、真っ白なティーポットを選んだ。
「これにしますわ! ご主人、おいくらですか?」
「アンタな、それは……」
彼女が選んだのは九つの中でも最も安い……というか売り物にもならないポットだったのだ。
名乗りもしないこの老人は陶芸家であり、家の中の作品は全部彼が作成したものだ。そして白いティーポットは、初めて使う土の感触を掴み、発色を確認するために試作しただけで、作品とも呼べない代物であった。
「こちらはお気に入りでしたか?」
「そうじゃない。お前さんみたいな若い人は、そっちの華やかな柄のが良いんじゃないのかね」
「でもわたしはこれが良いんです。割ってしまったポットに似ていますし、セドリック様はシンプルなものがお好きそうなので……たぶんですけど」
「隣のヤツは売れば金になるぞ。それでもそのポットが良いのかい」
「はい! 売ってお金にしたいのではありませんから。むしろ今度は割らないように、大切にします!」
「……」
「それでおいくらでしょうか」
老人はじっとグレースを見ていた。かと思えば、初めてふっと口角を緩めたのだった。
「いいよ、そいつはやるよ。持っていきな」
「しかし……」
「作った人間が良いと言うんだ。持って帰りなさい」
「これはご主人が作ったのですか? それではなおのこと、お金をお支払いします」
「アンタ、顔に似合わず頑固だな」
「わたしは色々と不器用なものですから、素敵な作品を生み出す方々にぜひとも敬意を表したいのです。技術は研鑽を積まなければ磨かれません。このシンプルなポットにも、ご主人が積み上げてきた技術が込められていると、わたしは思います。ですのでこのお金は、言うなれば尊敬料ですわ!」
「……尊敬料か! はっはっは! そんな風に言われちゃ、受け取りたくなっちまうな。わかった、わかった。受け取っとくよ」
「ありがとうございます! 一安心ね、エイダ。夕食までに帰れるわ!」
こうしてグレースは持ってきたお金全部と引き換えに、真っ白いティーポットを手に入れたのだった。
雨が上がると二人は老人に暇を告げ、来た道を引き返した。水たまりに橙色の太陽が反射している。
「親切なご主人だったわね」
「顔つきからは想像できませんでしたが」
「そう? 初めに声をかけてくださったのだって、きっと雨の中で人が立っていたから心配になったのよ」
「わたしは邪魔者を見る目だと思いましたよ」
そんな会話をしながら歩いていると、前方からグレースを呼ぶ声が聞こえきた。
「セドリック様!?」
体の大きいセドリックは、遠目にも見つけやすかった。慌てたように走ってくる姿に、グレースは足を止める。焦っているのは彼の表情だけで、疾走していた割に呼吸は乱れていない。だが彼は傘を畳んだまま持っているだけだったので、ずぶ濡れだった。
「雨が降ったが濡れなかったか」
「はい。親切なご主人が雨宿りさせてくださったので……セドリック様こそ大丈夫ですか?」
「僕は雪山を歩いても風邪を引かない程度に頑丈だ。雨などどうと言うことはない」
「心配して探しに来てくださったのですか?」
「……カイルから事情は聞いた」
仕事を終えたばかりだったセドリックだが、グレースが出掛けていると聞かされ、すぐに飛び出してきたのだ。土砂降りの雨の中、ポットを探し回る彼女を想像したら、一刻も早く駆けつけなければと気が急いた。だから彼女の傘は持ったのに、自分のは忘れて濡れ鼠になったのである。それが気恥ずかしくて、セドリックは頭を掻いた。
「わたしがポットを割ってしまったせいで、セドリックが濡れてしまいましたね。申し訳ありません」
「大丈夫だ。気にするな。それより君が雨に打たれなくて良かった」
「……ありがとうございます」
グレースは少し申し訳なさそうに、でも嬉しそうにそっと笑う。夕日に照らされて分かりにくかったが、彼女の頬は薔薇色に染まっていた。
「急いで帰りましょう。いくらセドリック様が頑丈でも、濡れたままではいけませんわ。帰ったらすぐにこのティーポットで紅茶を淹れますね! 体も温まりますよ」
「ありがとう。だが安全第一で帰ろう」
「いえ、健康第一ですわ!」
セドリックは彼女の安全を願い、グレースは彼の健康を願いながら、屋敷に帰った。その願いが聞き届けられたのか、頑丈な彼はくしゃみの一つもしなかったし、運動音痴な彼女も転んで怪我をしたりしなかった。真っ白なティーポットから注がれる紅茶は格別に美味しかったそうだ。




