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 セドリックはこれまでの自分の言動を振り返ってみる。

 初手は最悪だった。妻になってくれた女性へ言ってはならないことを言った。その後も彼女をわざと悲しませようと、非情な発言を繰り返した。手応えを感じたことは一度たりともなかったが。

 しかし彼女の生い立ちを知ったのを契機に考えを改めた。そして今日に至るまでの経緯を説明し、きちんと謝罪をした……はずだった。彼女もまた謝罪を受け入れ、感激していた……ように見えた。

 それなのにどうしてグレースはまだ「お飾りの妻」という単語を使ったのか。

 セドリックは振り返ってみても、一向に謎が解けなかった。久しぶりに目眩と頭痛が併発する。


「セドリック様? どうなさいましたか?」


 どうしたのかと問いたいのはセドリックの方である。


「ん? んんっ……? いや、あれ……?」


 頭の理解が全然追いつかないセドリックは、意味不明な呟きを繰り返すことしかできない。


「……グレース、昨日は……馬車で、あの事を……」

「馬車?」


 グレースは小首を傾げる。その仕草はてんで心当たりがなさそうな人間がやるものであった。セドリックの説明が悪かったのか。いやしかし、大切なことは誤魔化さずに伝えたはずだ。そうでなければ、昨晩の彼女の反応に説明がつかない。

 ここで何かを悟ったらしいエイダが、不自然なことを言い出した。


「グレース様。カイルさんが新作料理の味見を頼みたいそうです」

「えっ? 俺!?」

「お願いできますか」


 顔はグレースの方を向いていたが、最後の台詞は恐らくカイルに向けられたものだった。空気を読むのが上手い彼は、素っ頓狂な声を出しつつも同僚に調子を合わせる。


「そ、そうなんすよ。ちょっと甘い味付けなんで、ぜひ奥様にお願いしたいなぁって」

「味見役は初めてだけど、いいかしら?」

「全然オッケーです。ささ、行きましょう」


 カイルのファインプレーにより、この場からグレースを引き離すことに成功する。エイダは石像になってしまったセドリックに向き直った。「確認なのですが」と前置きした彼女は、何とも言えない渋い顔をしている。


「グレース様はお酒を召されませんでしたか?」


 動揺が治まらないセドリックだったが、真っ白になった頭の中から昨晩の記憶を掘り起こす。


「……最初のダンスが終わった後に、一杯だけ飲んだ」


 給仕役から白ワインをもらって二人で飲んだ覚えがある。でも小ぶりのグラスには、半分ほどしか注がれていなかったはずだ。飲んだ後も普通にダンスを続けていたし、足取りもしっかりしていた。


「……グレース様はお酒を飲むと記憶を綺麗さっぱり失うんです」

「なんだって!? たったあれだけの量で……!?」

「量は関係ありません。一口でも飲んでしまえば、お酒が抜けきるまでの記憶は残りません」


 自分の罪を告白し、謝ることは精神力の要ることだ。たとえグレースのような怒りの感情とは無縁に見える人間が相手でも……いや、真に大切な相手だからこそ、許してもらいたいと強く願う。セドリックは相当の、いや、待てる勇気を総動員して告白したのだ。それがまさか、綺麗さっぱり忘れ去られるとは! それにしても微塵も酔っているように見えなかったから逆に凄い。


「……申し訳ありません。伝え忘れた私に責任があります」

「いや……大事な話は酒が入った状態でするものではない。僕が良識を欠いたせいだ」

「私が代わりにグレース様へ説明いたしましょうか」


 セドリックに対して大概冷淡なエイダも、今回ばかりはさすがに同情的だった。今にも膝から崩れ落ちそうなセドリックであったが、それでも首を横に振った。


「自分の気持ちは、自分の口で伝えたい」

「……かしこまりました」

「ただ……力を蓄える時間がほしい」


 今日から普通の夫婦になるという意気込みが、跡形もなく砕け散ったのだ。彼が徒労から立ち直るには時間が必要だった。


 セドリックの心労をよそに、「完璧な」お飾りの妻を目指すグレースが、ダンスの次に挑戦したがったのは刺繍であった。


「ダンスのように楽しむことができたら、きっと苦手意識も変わりますわ!」


 彼女が抱える裁縫道具は立派な品だった。嫁入り道具としてバートルズ家の養父母が新調してくれたそうだ。持って来た荷物がやたら多かったのは、バートルズ夫妻がグレースを一人娘として可愛がっていた証なのだろう。思い返してみると、彼女の持ち物はどれも質がよく、普段着にしているドレスも高級感があった。


「見事、上達したらセドリック様に差し上げますね」

「ありがとう。嬉しいよ」


 しかし、またしてもセドリックは彼女の言う「下手」のレベルを見誤っていた。

 夕方になり帰宅したセドリックが見たのは、左手を傷だらけにしたグレースだった。持っている布には、点々と血痕が付いている。それもちょっとどころではなく、血痕で何らかの模様ができているほどだ。もしかしなくても、自分の手を刺しすぎである。


「あっ! お帰りなさいませ!」

「……ただいま」


 グレースの笑顔よりも、穴だらけと思われる左手に気を取られ、セドリックの返事はおざなりになった。

 不気味な紋様の浮かぶ布地を見られている、と気付いたグレースは頬を染めて恥じらう。


「白い布地ではなく、赤い布地を選べば良かったですね」

「そういうことじゃない」

「あっ、血の染みって目立ちますものね。赤色の布でも誤魔化しきれなかったかもしれません。浅はかでしたわ」

「そういうことでもない」


 グレースは幼少期の経験から、出来ない事に対して恐怖心があると思われる。上手に出来なければ、捨てられる。その恐れが焦りに繋がり、無茶な努力をしてしまうのだろう。並々ならぬ熱意の裏側には、彼女自身も知覚できていない、悲しい固定観念があるのだ。

 セドリックは傷だらけになった小さな左手に触れた。


「あの……セドリック様?」

「君が痛みを我慢して作ったハンカチだったら……僕は貰えても手放しで喜べない」


 壊れやすい美術品を扱うかのような触れ方だった。彼の大きくてゴツゴツした手を、グレースはじっと見つめる。


「完璧であることに拘る必要はないんだ。グレース」

「……わかりました。そういう事でしたら、わたし……『普通なお飾りの妻』を目指しますね!」

「どうしてそうなった……?」


 とはいえグレースも、彼が言いたかった事の半分くらいは正しく受け止めていた。次の日からは、まず針を安全に使うところから始めたのだと、エイダから報告があったのである。安全に気を取られすぎて、ひと針縫うのにものすごく時間がかかるのは、仕方のない代償だろう。


 貧乏生活を送ってきたセドリックは、実を言うと縫い物が割と得意だった。刺繍みたいに綺麗なモチーフを縫ったことはないが、ただ縫うだけなら長年やってきた。几帳面な性格は縫い方にも表れていて、セドリックが修繕した物はきちんとした仕上がりになる。

 というような事をカイルがこぼしたところ、グレースが食いついたのだった。


「セドリック様は針仕事がお上手なのね! ちょっとだけ見せていただけないかしら」

「なら一緒に作業したらいいんじゃないっすか? 明日は休暇だって言ってましたし」


 というやり取りを経て、セドリックは帰ってすぐ「一緒に刺繍しませんか?」と聞かれたのだが、経緯を知らない彼は「どうしてそうなった」と思うほかなかった。怪訝そうにしつつもセドリックがとりあえず頷いたので、彼女の裁縫道具がリビングルームの机に置かれた。長椅子に座らされたセドリックは次いで、針と糸を持たされる。


「刺繍はやったことがないんだが……」

「それでしたら、こちらをどうぞ!」


 グレースが差し出してきたのは、モチーフの縫い方が図解と共に書かれた本だった。未経験のセドリックでも理解できる程度なので、初心者向けだと思われる。


「君は何を縫っているんだ?」

「難しい図柄は危ないので、セドリック様の『C』を縫っています!」

「……なるほど?」


 残念ながらグレースが持っている布地に「C」の文字は見当たらない。あるのは三角形のような何かと、棒のような何かだ。「C」の曲線はどこにも存在していなかった。ペンで下書きをして、その上をなぞるように縫えばいいはずなのに、どうしてこうも壊滅的なのか。


「セドリック様は何を縫いますか?」

「そうだな……じゃあグレースの『G』にするよ」


 彼がそう言うと、グレースの表情がぱっと輝いた。


「『C』と『G』って似てますよね! お揃いみたいで嬉しいですわ!」


 喜びが抑えきれないグレースは、ご機嫌に鼻歌を歌い始める。刺繍の腕前が壊滅的でも、彼女が楽しそうならセドリックはそれで構わないのだ。何も問題はない。


「良い曲だな。何の歌だ?」

「舞踏会で一緒に踊った曲ですわ」

「……えっ」


 セドリックは手元が狂いそうになった。グレースの鼻歌は、彼女の言う曲目と全然違って聴こえたからである。もしや自分も酒で記憶がおかしくなっているのか、とセドリックを狼狽させるほどの相違だった。


「も、もう一度、歌ってくれないか?」

「あら、アンコールですか? もちろん、構いませんわ!」


 彼女は同じ曲を奏でているはずなのだが、不思議なことに別の曲をリクエストしたみたいになった。今し方歌った曲すら再現されないとは、いっそのこと清々しい。


「いかがでしたか?」


 セドリックの嫌な予感が正しければ、グレースは恐らく一級品の音痴だ。彼が返答に困っていると、背中に鋭利な視線を感じた。振り返って確認するまでもない。エイダであろう。自分が音痴であることを知らないグレースに、残酷な真実を突きつけるような真似をしたらどうなるか。セドリックはつとめて平静を装わなければならなかった。


「前衛的……いや違う、独創的……でもなくて、こちらの気分を明るくしてくれる感じが良かった」

「お褒めにあずかり光栄です!」


 謎の曲を歌っても、謎のモチーフを縫っても、グレースは笑顔である。期待には完璧に応えなければいけないという恐怖心からは、ひとまず脱却できたようだ。セドリックはほっと胸を撫で下ろす。後ろから刺さる視線も霧散して良いこと尽くめだ。何も問題はない。


 刺繍は未経験だったはずのセドリックのほうが、グレースよりも上手に縫い上げてみせた。それも彼女より早かった。作業速度も、出来栄えも、何もかも負けたグレースだったが、彼女は相手を賞賛するばかりである。


「セドリック様は刺繍の才能がありますわ!」

「そうだろうか」

「間違いありません!」


 セドリックが縫ったのは一文字のイニシャルで、お洒落でも何でもない。糸も布も練習用だし、よくよく見ると形がほんの少し歪んでいる。だがグレースの解読不能な文字に比べれば、素晴らしく上出来であろう。


「あの、そちらの布地、わたしがいただいても良いでしょうか?」

「これか? 構わないがこんなもの、どうするんだ?」

「セドリック様の刺繍を見ながらだったら、特訓をもっと頑張れると思うんです」


 グレースははにかんだ笑顔を浮かべる。セドリックは直視することができず、咄嗟に目を逸らしてしまう。後になって彼は、あのままだと心臓が握り潰されたから、自分の脳が警鐘を鳴らしたのだと思うのだった。

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