12
サンダーソン伯爵邸の門前では続々と馬車が停まっては人を降ろし、また去っていくのが繰り返されていた。伯爵は交流の幅が広いため、招待客も多いのだ。セドリック達は時間に余裕をもって出発したはずだが、会場は雑談の声でいっぱいである。
セドリックとグレースがやって来るのを伯爵はいの一番に見つけて、声をかけてくれた。本日の主役であるサンダーソン伯爵が歓迎してくれた事で、二人の居場所は保たれた。
「セドリック、今日は彼女のそばにいなさいね」
サンダーソン伯爵はセドリックに囁いてから、念押しとばかりに肩を叩いた。セドリックも心得たと頷きを返す。
「あと、おめかしした妻をちゃんと褒めるんだぞ?」
「!?」
伯爵はセドリックが全く女性慣れしていない事を知っている。時折女性が色目を使ってきても、毛ほどの興味も示さなかった彼を、サンダーソン伯爵は何度も見てきた。だから結婚後の今はどうせ「夫とは妻にのみ一途であるべし」なんて、あの堅い頭で考えているはずだ……という具合で彼の事を正確に見抜いていたのである。
アドバイスが二割、からかいの気持ちが八割といった伯爵の発言に、セドリックはまんまと翻弄されるのだった。
「セドリック様、領主様は何と?」
「え……っと、だな。何と言っていいか……」
セドリックは妻を見下ろす。今夜の彼女はエイダの手によって普段以上に磨かれている。身に付けている宝石類は上質だが派手過ぎず、ドレスも品が良い。お化粧もグレースの童顔に似合うように施されている。
でもセドリックは女性の髪型やファッションについて、悲しいくらいに無知だった。何が良くて、何が悪いのか、さっぱりわからないのである。いつも可憐で今日も可憐としか思わない。だから褒めろと言われても、具体的に何をどう褒めれば良いのか、適切な言葉を選ぶことができなかった。
「もしかしてお仕事のお話でした?」
「……まあ、そんなところだ」
セドリックにとっては仕事よりも難しい案件だ。彼は咳払いで誤魔化し「何か腹に入れておくか」と話題を逸らすのだった。
用意されているのは軽食だが、ウィロウ家の食卓より遥かに豪華である。セドリックは適当につまみながら、横目でグレースが何を選ぶか眺めていた。甘い物が好きだと話していた通り、可愛らしいお菓子を好んで選んでいるらしかった。幸せそうに食べている様子は、セドリックを温かな気持ちにさせる。
「あら? グレース様。ごきげんよう。今夜はいらしていたのね」
「今回も素敵な靴ですこと」
「長いことお見かけしなかったものですから心配していましたのよ?」
グレースに声をかけてきたのは、いつぞやの令嬢達だった。彼女達はセドリックを見つけるや否や、声を一段高くした。彼女達の目に映るセドリックは唐変木などでなく、体格も声も男らしい硬派な青年である。既婚者と分かっていても、色めき立つのは無理もない。移り気な女性はそういうものだ。
片やセドリックは眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔をしていた。彼は三人組がグレースにした仕打ちを知らないので、別に怒っている訳ではなかった。知ったら当然怒り出すだろうが……ならばどうしてこんな顔つきなのかと言えば、エイダの頼み事がある所為だった。
出発前、エイダはグレースの目を盗んで近づいてきた。
「敵をしっかり牽制してきてください」
「敵、とは……?」
いきなり物騒な単語が出てきてセドリックは戸惑った。それがエイダには腑抜けた顔に見えたようで、彼女の目つきがより鋭くなった。
「グレース様は他人を悪く言わない方ですから……嫌味を言われても気付いていない場合もありますが。とにかく私が話を聞くだけでは誰が敵で味方か判別できません。査定が可能なのは当主様だけです」
「悪意から彼女を守るという事だな。承知した」
グレースは自分を捨てた父親に対してでさえ、恨みの言葉を吐かなかった。そんな彼女だからきっと、自分がどれだけ馬鹿にされても罵り返したりせず、じっと耐えてしまうのだろう。
ならばセドリックが守るしかない。エイダに太い釘を刺された彼は、敵を見極めるために表情を引き締めていた訳だ。引き締めすぎて仏頂面になっているが、真剣なあまり彼は気付いていない。
エイダの言葉を借りるなら近付いてくる女性を「査定」しなければいけないのだが、いかんせん新鮮なジャガイモを選別する方がまだ得意なセドリックには難題である。
「セドリック様、こちらは以前の舞踏会でお喋りした皆様です」
敵がいるだなんて露にも思わないグレースは、にこにこと三人組を紹介している。
「そう言えば弟さんはどちらに? 前回、多大なご迷惑をおかけしましたから、謝罪したいですわ」
一人の令嬢が顔を引きつらせるのを、セドリックは見逃さなかった。唐変木と言われる彼も、さすがに察する。この女性の弟やらがグレースを置き去りにした奴で。それを笑って見ていただろうこの女性も──敵だ。
セドリックの目つきが変わる。それはかつて彼がグレースに「君に求める役割は『お飾りの妻』だ」と言い放った時以上の威圧感であった。グレースには何の効果も無かったが、後ろめたい事がある令嬢達は震え上がった。
「……僕も挨拶させてほしいので、連れて来てもらえるか」
「いえっ! あ、あの、本日は都合がつかず、き、来ていないのです。わ、私から伝えておきますからっ」
令嬢は冷や汗をだらだら流しながら後ずさる。こうして三人組はそそくさと退散していったのだった。その挙動を見るに、セドリックは自身の直感が間違っていないと確信した。敵の顔は覚えた。牽制もできたはずだ。
「あ、音楽が……セドリック様、わたし達も行きましょう。舞踏会で踊らないのは無作法らしいですわ」
踊る、踊らないは個人の自由である。グレースに余計なことを吹き込んだのも連中かと、セドリックの顔がますます険しくなった。
「セドリック様と踊ることを想像しながら特訓していましたのに、この前は別の方と踊ることになってちょっと残念でしたわ。恥をかかせてしまうとわかっていても、わたしはセドリック様と踊ってみたかったんです。だから今夜が楽しみでしたの」
グレースの照れたような笑みは、混じり気のない本心を反映するものだ。できないことを理由にして逃げるのではなく、まっすぐに向き合う彼女の姿勢をセドリックは眩しく感じた。恐怖心を乗り越えて、楽しみと言える彼女は芯が強いのだ。
「僕も、君と踊りたかった」
二人は手をとり合い、ダンスフロアへと出て行くのだった。ところが……
「深呼吸だ、グレース。落ち着いてくれ」
「はい! 二歩、深呼吸ですね!」
「本当に落ち着け」
あれほど練習したのに。あんなに頑張っていたのに。何なら最後の方は辛うじてワルツと判別できるくらいには動けていたのに。いざ本場になったら、グレースの動きは著しく悪くなっていた。
途方もなく運動音痴な人間、という存在に初めて出会ったセドリックは困惑するばかりだ。どうしてこうなるのかわからないので、どうすることもできない。
いったんダンスを止めた二人は、邪魔にならない場所まで移動する。その最中、あちこちから失笑が聞こえたもののセドリックは無視した。グレースに至っては必死すぎて耳に入っていないようだった。
「落ち着いたか?」
「は、はい。すみません……!」
「練習通りに動けば大丈夫だ。焦ることはない」
「はい。頭ではわかっているつもりなのですが……音楽に合わせようとすると、こんがらがってしまって……」
「音楽か……」
言われてみれば特訓中に音楽は流れていなかった。つまりグレースは音楽に合わせて動こうとすると、練習したタイミングが狂ってしまい、混乱したということか。
「じゃあ……音楽は気にせず踊ろう」
「えっ? どういう事ですか?」
「今までやってきたように次の動作を口で言いいながら動く、という事だ」
「でも……」
ここでようやくグレースは自分達が笑われていることを察知した。自分が出来損ないなせいでセドリックまで──グレースにとってそれが一番辛いことだった。グレースだけが笑われるなら構わない。不出来なのは自己責任だから。自分のことならば「多少厳しい目に遭ったほうが発破をかけてもらえる」と考えを切り替えることもできる。でもグレースのそばにいた、ただそれだけの理由で一緒に貶される人達には、何の落ち度も無いのだ。
彼女は俯きかけた。だが完全に下を向いてしまうことはなかった。セドリックの言葉により、彼女は引き上げられたのである。
「楽しみにしてくれたんだろう?」
「セドリック様……!」
「だったらどんな風でも構わない。楽しく踊ろう。失敗は怖くないと言っていたじゃないか」
彼に手を引かれると、グレースの足は勝手に歩き出してしまう。
「努力することを諦めない君は立派だった。でも僕は……君が楽しそうに笑っている姿が一番好ましいと思う」
グレースの目が大きく見開かれる。彼は誠意のこもった優しさを、青い瞳に滲ませていた。握られた手は温かく、降り注ぐ声はどこまでも真摯であった。
「グレース」
「はい……っ」
「まずは右足から二歩だ」
不思議だった。先ほどまでグレースの耳は流れてくる音楽に囚われていたのに、今は彼の声だけがはっきり届く。すると練習した通りに、ちゃんと体が動いた。
しかし彼女の心中はまだ、まごついていたのである。じわじわと顔に灼熱感を覚え始めたグレースは、自分が今、みっともないほど真っ赤になっていたらどうしようと動転した。
「次はターンだ」
「っ、はい!」
溺れるような心地で、グレースは懸命に息を吸う。彼女が最も苦手とするワルツのターンだ。顔の熱さだとか、うるさい心臓だとかに気を取られている場合ではない。「幻滅などしない」と言ってくれた彼のために、何としても成功させたかった。
「左足を軸にするんですよね」
「うん、そうだ。いくぞ」
「はい!」
くるりと一緒にターンを決める。たどたどしくはあったものの、二人が知るなかで最も綺麗なターンだった。
セドリックが嬉しそうに笑っている。グレースの両眼には彼の笑みが映り込んでいた。ぱちりと瞬きをした彼女は、ゆっくりと満開の笑顔を咲かせるのであった。
「成功しました……! 成功ですよ! セドリック様」
「ああ。大成功だったな」
「まだまだ下手ですけれど、わたしはもうダンスが苦手とは思いませんわ! だってこんなに楽しいんですもの!」
彼に喜んでもらえた、その事実がグレースを幸せにした。彼女の頬は色付き、笑みは顔いっぱいに広がる。
セドリックは無言になって見入っていた。
「セドリック様、次は……」
不意にグレースの声が途切れ、ダンスも中断された。彼に抱きしめられていたからである。
「……っ、す、すまない!! 転びそうに見えたから咄嗟に手が出て……!?」
セドリックはまったく無意識のうちに、彼女を胸に引き寄せていた。だから、我にかえった時には腕の中にぽかんとするグレースがいた、という表現が正しい。言い訳がましいが、気が付いたら抱擁していただけで彼に疚しい気持ちは一切なかった。
「わたしが転ぶと自覚する前に助けてくださるなんて! セドリック様はすごいですね!」
まったくのデタラメが口をついて出たというのに、グレースは鵜呑みにしている。しかしおかげでセドリックは助かった。まさか自分がこんな大それた事をしでかすとは……彼は自分が恐ろしくなった。彼女のことになると抑えが効かなくなるので、よくよく注意しなければならない。セドリックは改めて表情を引き締めるのだった。
何とか無事に一曲踊り終えた二人は、飲み物をもらってひと息ついてから、再び踊った。グレースは終始楽しそうで、セドリックは彼女の笑顔が弾けるところを、飽きもせず見つめていた。黙って眺めるくらいは許されるだろうだなんて、誰にする訳でもない申し開きを考えながら。
帰りの馬車の中で、セドリックはとうとう告白した。
グレースが来た日に何故「お飾りの妻」になれなどと言ったのか、からに始まり。彼が「酷い夫」になろうとして、心ない台詞を吐いたことも併せて謝罪した。離婚するつもりは毛頭ない、今後は本物の夫婦として末永くやっていきたい旨も、彼なりの不器用な言葉で伝えたのである。
全てを聞き終えたグレースはというと……
「まあ……! では全部、わたしのために……っ!」
怒るどころか、たいそう感激していたのだった。彼女はかえって喜ぶだろうと想像はついたが、まったくその通りであった。
とにかくこれでセドリックの胸のつかえは完全に消えた。ここから再出発するのだと、気持ちを新たに迎えた次の日。
「セドリック様、おはようございます! 昨日はありがとうございました! わたし、もっと頑張りますね! それで、どこに出しても恥ずかしくないような『完璧なお飾りの妻』を目指しますわ!!」
「…………ゑ!?」
一体全体どうなっているんだ。グレースからは理解の範疇を超えた発言が飛び出し、セドリックからは言葉にならない変な音が漏れる。彼の頭は処理が追いつかず、束の間、思考を放棄するのであった。




