11
「ぜひまたお会いしましょう」と侯爵夫妻が言ってくれた言葉は、きっと社交辞令ではなかった。ラインミュラー侯爵はセドリックと固い握手を交わし、侯爵夫人はグレースを優しくハグすることで、温かな友情を示したのである。ニーナ嬢はまだ強面の大男に近寄れないらしいが「さようなら」だけはぽそりと喋ってくれた。これを進歩ととるのか、後退ととるかは本人次第である。
「心尽くしのもてなしに感謝いたします」
「とても楽しい三日間でしたわ! 皆様、お身体に気をつけてお過ごしください」
行きの馬車でセドリックは物思いに耽り、ほとんど喋らなかった。顔つきも強張っていた。だが帰りの馬車では雰囲気ががらり変わっていたのだ。グレースがにこにこしながらお喋りするのを、彼はこれまでも真面目に聞いていたが、今では心から楽しそうに耳を傾けている。
「それでニーナ様が本当に可愛いのですよ! グレースおねえさまって、呼んでくださったんです! 連れ帰って妹にしたい欲望が湧き上がりました」
「うん。そうか。だが誘拐はまずいな」
「はい! 我慢しましたわ!」
セドリックが甘く優しい眼差しでグレースを見つめている事に、エイダはすぐに気が付いた。二人が帰ってきた瞬間には気付いていた。彼女ほど目敏くないカイルでさえ、少し観察したら分かったので、堅物の変化は傍目にも明らかであった。心持ちが変わると、纏う空気にまで大きな影響を及ぼすようだ。
ウィロウ家に帰って来て早々、セドリックは厨房に顔を出した。それからカイルにあれこれと注文しだすのだった。
「今日からできる範囲で品数を増やしてくれ。代金については随時相談に乗る」
「えっ」
「菓子を作ったら、グレースには多めに出してあげてほしい」
「あの」
「彼女には好きなものをたくさん食べてもらいたい」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。どうしちゃったんすか? 旦那様」
「何がだ?」
「『酷い夫』になるのはどうなったんです? 記憶喪失ですか?」
「記憶はしっかりある。『酷い夫』は永遠に廃止だ。グレースは離婚を望んでいないことがわかったんだ。むしろ最悪の選択だった。だからやめる」
グレースの心境に配慮し、セドリックは詳細を省いて話した。そのためカイルにしてみれば、何もかもが急な変化だった。しかしこの料理人は幸いにも、細かいことを気にしない性分であった。
「そうっすか。やっと正気に戻ったんすね。おめでとうございます」
「うん? ありがとう……?」
カイルは順応が早い上に、遠慮もなかった。
「じゃあさっそくケーキでも焼きましょうか」
「なぜだ?」
時々面倒になるくらい真面目な主人のことだ。離婚しないで妻を大切にすると決めたなら、この家も安泰である。ピリピリしていた同僚も、これで多少は落ち着くだろう。むしろ落ち着いてくれなければ困る。
「そりゃ、めでたい日にはやっぱりケーキっすよ」
そう言いながらカイルは、すでに頭の中のレシピをめくっていたのだった。
三日間、屋敷を留守にしてわかったのは、住み馴れた場所は落ち着くという、何ともありきたりな事だった。いかに立派で広い屋敷でも他人の持ち物である以上、どこか窮屈さを感じるもの。朝早く目覚めたセドリックは、いつもの日課をいつものようにこなしていた。やはりこうでなくては、一日が始まった気がしない。
「おはようございます。当主様」
「ああ、おはよう」
洗濯を他人任せにする事は、いまだにちょっと躊躇う。だがセドリックは背後から声をかけられる程度では驚かなくなっていた。
「……」
「……? 僕の顔に何かついているか?」
エイダは査定するような厳しい目をセドリックに向けてくる。今日も今日とて鋭利な視線だ。
「……いいえ。なんでもありません」
セドリックは気が付かなかったけれども、エイダの声色はほんの少しだけ棘がとれていたのだった。
ウィロウ家が良い方向に動き始めた矢先。二度目となる舞踏会の招待状が届いた。実に三ヶ月ぶりである。これはひとえにサンダーソン伯爵の気遣いだった。前回、フロアの真ん中で大失敗してしまったグレースは、貴族達の噂話の中でいい笑い者になっていた。社交の場に出てくるたび、嘲笑されては誰だって傷付く。そう案じた伯爵により、ウィロウ夫妻はしばし社交から遠ざけられていたのである。
しかしいかに伯爵と言えども限界はある。その限界が三ヶ月だった訳だ。
「今度の会場はどちらです?」
「サンダーソン伯の屋敷だ。伯爵夫妻の結婚記念日だからな」
「素敵ですわね!」
舞踏会と聞いたグレースが、また不安な気持ちに駆られるのではと思ったが、案外そうでもなかった。
「……無理をしていないか?」
セドリックが尋ねると、彼女は「はい!」と明るく返した。
「わたし、閃いたんです」
「何を?」
「もし招待客の中にダンスが苦手な方がいらしたとしたら、わたしのダンスを見て勇気が出るかもしれないって……! だってわたしは自分よりダンスが下手な人を知らないんですもの!」
「そ、そうか……」
「それに、あれだけ酷い失敗って、そうそうありませんわ。この前、特大の失敗をしたのですから、多少の失敗はもう怖くありません!」
彼女の辞書には、へこたれるという言葉は存在しないようだ。それもこれも、彼が「幻滅などしない」と言ってくれたおかげである。
「ちゃんと特訓も続けますわ! 失敗しないに越した事はありませんものね」
「では僕も特訓に付き合わせてほしい」
「えっ!? それは嬉しいですけれど、セドリック様はきちんと踊れるのでは?」
「相手がいた方が君も練習しやすいだろう」
「でもセドリック様はいつも忙しく働いておられるのに……わたしの特訓にまで付き合ったら、疲れてしまいますわ」
「そんなにやわじゃないから心配いらない」
セドリックは優しく言い聞かせた。服の下の筋肉は本物である。セドリックはただ図体がデカいだけの男ではないのだ。転びそうになるグレースを咄嗟に支えることなど造作もない。一緒に練習すれば、彼女が額をぶつけることも、体に痣を作ることも防げるはずだ。
彼に遠慮してなかなか踏ん切りがつかなかったグレースも、一緒に練習できるという期待には勝てなかった。最後には瞳をきらきらさせて「ご指導よろしくお願いします!」と頼んでいたのである。
グレースが素直で正直であることは、セドリックも知っている。でも彼女の言う「ダンスが下手」は、多少の謙遜が入っていると思っていたのだ。ところがどっこい、グレースは嘘偽りなく「ダンスが下手」だった。
「えぇと、右足からこう。それで左……あっ、腕は下げずに顎は……?」
「グレース。一回、落ち着こうか」
ダンスの基礎は頭に入っているようだ。だが彼女の体がついていっていない。右足からと口では言いつつ、真っ先に出ていたのは左手だった。どういう事だ。一つも合っていない。本人が「悲惨」だと話していたのは誇張でも何でもなかった。
「すみませんっ、落ち着きます!」
「深呼吸だ」
「はい!」
返事と威勢だけは満点である。前途多難であるが、セドリックは辛抱強い男だったし、ひたむきな努力の尊さを知っていた。グレースがへこたれないのであれば、彼も決して諦めない。たとえ彼女が諦めてしまってもセドリックは見放さない、そう決めたのだ。
「……次の動作を口で言いいながら、その通りに動いてみよう」
「はい! わかりました!」
「じゃあ……右足から二歩歩くぞ。右足はそっちだ」
「はい! こっちの右足から二歩ですね!」
セドリックは指示を声に出しながら、軽くグレースを誘導する。こっちだ、と誘えば彼女は素直についてきた。かなりゆっくりではあるが。
「左に半歩ずれる」
「左に半歩ずれます!」
「戻って……」
「戻ります!」
「また二歩」
「二歩ですね!」
「そこで左足を止める」
「はい!」
「……逆だな」
「間違えました! こっちですね!」
「そう。左足を軸にして、ここでターンだ」
「はい! ターンします!」
グレースのターンは不安定で、とても危なっかしい。恐らくターンを練習した際に、よろけて物にぶつかっていたのだろう。しかし今はセドリックの逞しい両腕が彼女を支えている。
「すごいです! 転ばずにターンができるなんて!」
「……それは良かった」
「セドリック様のおかげです!」
あくまでも転ばなかっただけ。グレースの運動音痴は未知数である。それでも彼女はとても楽しそうに笑っていた。




