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 三泊四日と聞いた時は長いと感じたが、始まってみればあっという間に過ぎていった。ラインミュラー夫妻はこちらが退屈しないよう、細々と心を砕いてくれた。夕食をご馳走になるのは今夜が最後だと思うと、少々寂しい。


「こちらは珍しいお料理ですね。初めて見ます」

「わたくしの故郷の伝統料理なんです。お口に合うと嬉しいですわ」

「とても美味しいです! ニーナ様もお好きですか?」

「うん……すき」


 朗らかなグレースは侯爵夫人と、まるで旧くからの友人のように会話する仲になっていた。人見知りが激しいというニーナ嬢も、グレースが相手だともじもじすることもなく、控えめながら笑いかけている。セドリックには一度たりとも近寄ることはなかったが、それはさておき。


「ああ、そうそう。ようやく思い出したんだがね、グレース殿」


 お酒が入り、少し上機嫌になったラインミュラー侯爵が口火を切る。


「はい。何でしょうか?」

「だいぶ昔のことだが確か……バートルズ家には、フォルトナト侯爵家のご息女が嫁いだと記憶しているのだが……どうだったかな」


 セドリックは何気なく、隣に視線を落とした。だがその直後、息を飲む光景に直面するのだった。

 グレースの横顔からほんの一瞬、表情がごっそり抜け落ちるのを、彼は見たのである。そしてすぐに浮かべられた微笑が、何となく不自然であったことも見てとった。


「はい。そうです」

「おお、やはりそうだったか! するとグレース殿は侯爵の姪御さんになるのか」

「いいえ、違いますわ。フォルトナト侯爵はわたしの実父です」


 これにはセドリックだけでなく、侯爵夫妻も言葉を失ってしまった。

 フォルトナト家と言えば、ラインミュラー家よりも強い権力を持つ、名門貴族である。王族との関わりを持ち、王都はもちろんのこと、地方でも名を知らぬ者はいない。社交界で常に一目を置かれる家柄なのだ。

 グレースの知られざる出自に、一同は驚きが隠せなかった。


「五歳の時にわたしは養女として、バートルズ家に迎えられたのです。伯父様と伯母様には、子供がいなかったものですから」


 華々しいフォルトナト家とは対照的に、バートルズ家は地味で目立たない貴族だった。由緒正しい点以外、特筆することもない。子供が生まれなかったことも負い目に感じただろう。バートルズ家は徐々に社交界から遠ざかり、両家が縁戚関係にあることは忘れ去られつつある。

 現にセドリックも全く知らなかった。


「お子が……なるほど、そういう事情でしたか。セドリック殿はご存知なかったので?」

「……はい。初めて聞きました」


 今度はグレースが驚く番だった。


「えっ!? 領主様にはお伝えしたと、伯父様はおっしゃっていましたわ」

「僕は何も聞いていないが……」

「ううむ。何か行き違いがあったのかもしれませんな」


 セドリックは眉根を寄せた。彼女の出自がどうであったかは、特段気にならない。驚きはしたが、それだけだ。彼が気がかりだったのは、グレースが一瞬だけ見せた表情の意味である。


 その後ずっとセドリックは厳しい顔つきをしていたらしい。就寝する時になってグレースがおずおずと謝ってきた。


「セドリック様……隠していて申し訳ありませんでした」

「それは別に構わない。サンダーソン伯爵に話が通っていたのなら、何も問題はないだろう」


 しかし二人ともベッドに腰掛けるだけで、横になろうとしなかった。


「……大丈夫か?」

「えっ……?」

「先程から浮かない顔をしている、気がするが……本当は隠しておきたい事だっただろうか。もしそうならば、忘れる努力をしよう」


 セドリックがぎこちなく顔を覗き込めば、やはりグレースの表情に違和感を覚えた。様子がおかしいのは、彼の気のせいではない。


「いえ、セドリック様、わたしは……何と言いますか、その……」


 グレースが何か言葉を紡ごうとするので、セドリックは無言の相槌を打って根気強く待った。

 やがて彼女は唇を噛み締めた後、悲哀を帯びた微笑をたたえるのだった。


「わたし……お父様に、捨てられたんです」


 グレース・フォルトナトとして侯爵家に誕生してから、バートルズ家の養女となるまでの五年間。それはグレースにとって、思い出すのも辛い日々であった。


 フォルトナト侯爵は一族の繁栄に心血を注ぐ父親だった。グレースには兄や姉がいたが、皆、父親の高い期待に応える優秀な人間であった。兄弟の中でグレースだけが、ひどく落ちこぼれていたのである。

 グレースは今でも鈍臭く、不器用で、苦手とする事が多い。幼い頃はそれがより顕著で、何をやっても上手くできず、失敗ばかりだった。父が求める期待に応えることは到底できなかった。それでもグレースは何とかして父に認めてもらおうと、死に物狂いで努力した。まだ遊びたい盛りだったのに、彼女は遊びの時間も、昼寝の時間も、おやつの時間も返上して、勉強やレッスンに励んだ。けれど、何一つ上手くいかなかった。

 元々、フォルトナト侯爵は冷徹な男として知られていた。だから尚更、出来の悪い娘に向ける情など持ち合わせていなかった。どれだけグレースが努力したって、優秀な結果を残せなければ、侯爵にとってすべて無価値な事であった。

 グレースは父を喜ばせることができなかった。ただ冷ややかに幻滅されただけで、叱られることさえなかったのである。そして彼女はある日突然、何の説明もないまま馬車に乗せられ、バートルズ家の屋敷の前に降ろされた。雪の降る日だった。別れ際でさえ、父親は姿を見せなかった。門の外に置き去りにされ、ひどく寒い思いをしたのをグレースは覚えている。


「捨てられたとわかったのは偶然、お父様と家令の会話を耳にしたからです。お父様は『あれは出来損ないだ。我が家に置く価値はない』と話していました」


 セドリックは無意識のうちに拳を握りしめていた。無論、激しい怒りと嫌悪の感情からである。


「当時はあまり意味がわからなかったのですけど……わたしはお父様にとって要らない娘だというのは感じていました」

「そんな馬鹿なことがあるか!」


 気が付けば腹の底から唸り声が出ていた。出来損ないだの、価値がないだの、親が吐く台詞ではない。グレースがこんなに悲しげな顔をしているのに、彼は黙ってなどいられなかった。


「セドリック様、良いのですよ」

「何が良いんだ! 親には子を産んだ責任がある。出来ないことがあるから何だ!? それしきの事で君を捨てるなんて、あまりにも無責任だろう!」


 セドリックが怒りに震えるほど、グレースは悲しさを優しい笑みへと塗り替えていく。


「わたしはバートルズ家の娘になれた事を幸せに思っています。伯父様も伯母様も、わたしを実の娘も同然に育ててくださいましたわ。わたしが何度失敗しても見限ることなく、惜しみない愛情を注いでくださったのです。不幸だなんてことは決してありませんわ」


 バートルズ家の話をする時、グレースは幸せそうで、また誇らしげだった。


「とても良くしてくださったからこそ、不出来な自分が申し訳なくて……二十歳を過ぎても針仕事さえまともにできないんですもの。このままではどなたとも結婚できないと焦っていました。伯父様達はずっと家にいて良いんだよと言ってくださいましたが、養女が独身のままだなんて、恐ろしく世間体が悪いでしょう? わたしのせいでお二人の評判が落ちることになったらと思うと、すごく怖かったです」

「……」

「なので結婚のお話を聞いた時、本当に安心したんですよ。だからわたし、『お飾り』でも何でも構わないんです。本物の妻じゃなくても、妻と呼んでいただけるなら、それだけで充分なのです。欲張るつもりはありません」


 父親の期待に応えられなかった罪悪感。養父母の体裁を貶めるかもしれない絶望感。それらに囚われていたグレースは、何とかしようといつも必死だったのだ。

 話を聞いていたセドリックは胸がぎゅうと締め付けられた。彼女の前向きで明るい笑顔は、悲しい過去を乗り越えてきた証だった。


「……君の、母君はどうしていたんだ?」

「お母様はわたしを出産した後に、精神を病んでしまわれたそうです。実家に帰されて、そちらで衰弱して亡くなったと……わたしがその事を知ったのは、亡くなって随分経ってからでしたけれど……」

「なにっ……! 侯爵は君に教えなかったのか!?」


 グレースは再び悲しげな微笑を浮かべる。


「一度だけ尋ねたことがあるんです。その時、お父様は『お前の母はもういない』とだけ仰いました。お屋敷にはいないという意味を、わたしが勝手に天へ召されたのだと勘違いしてしまったのです」

「そんな言い方、誰だって勘違いする!」


 セドリックも再び大きな声が出てしまう。

 フォルトナト侯爵にとって家族とは、いつでも容赦なく捨てられる、その程度の存在に過ぎないのだろう。そうでなければ娘や妻を、残酷なまでに冷たく捨てることなどできない。人でなしの所業である。

 グレースはここまでされてもなお、父親を罵ろうとしなかった。恨んでいる素振りもない。恐らく、出来損ないだった自分が全部悪いと思っているからだ。それがセドリックは腹立たしいことこの上なかった。そんな風に彼女の考えを歪めた男が憎らしい。彼女の代わりに憎んでやりたいとセドリックは歯噛みした。


「ありがとうございます。セドリック様」

「……何がだ」

「伯父様と伯母様も、同じようにすごく怒ってくださいましたわ。それが嬉しいのです」

「……」

「セドリック様と結婚してから、嬉しいことの連続なんです。未だかつてない程みっともない失敗をしたわたしに、セドリック様は『幻滅などしない』と仰ってくださいましたね。あの晩は驚いてしまって、ちゃんとお伝えできなかったんですけど、すごく嬉しくて安心しました。わたしは『きっと、また捨てられるんだわ』って思い込んでいたので……改めて言わせてください、セドリック様。見捨てないでくださって、本当にありがとうございました」


 頬を染めてはにかむグレースは、まっすぐにセドリックを見つめるのだった。


「上手くできない事がたくさんありますが、わたしはまだ、セドリック様の妻でいてもよろしいでしょうか」


 グレースは捨てられることを今でも恐れている。その事がわかった今、セドリックの方針は定まった。


 離婚はしない。何があっても彼女を見捨てない。


 元よりセドリックが血迷ったことを言い出した理由は、この結婚が彼女にとって不幸にしかなり得ないと思ったからだ。でもそうではなかった。お金がなくて贅沢ができなくても、ボロ屋敷で雨風に困るとしても。ウィロウ家がグレースの安心できる場所だというのならば──ずっといてほしいと、切に願う。セドリックの胸に温かなものが、すとんと落ちてきた。


「もちろんだ。今後ともよろしく頼む」

「よろしく頼みたいのは、わたしのほうですわ! 寛大なお心に感謝します」


 セドリックは清々しい気持ちになった。もう「酷い夫」なんて演じなくていい。彼女に「お飾りの妻」を強要する理由もない。世界がひらけたような感覚、とでも言うのだろうか。

 年々、笑うことがなくなっていたセドリックが、そっと微笑む。鉄のような表情筋が久方ぶりにちゃんと動いた事を、彼はまだ自覚していない。

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