第86話
「待ってください!そのことについて、私から提案があるのですが、良いでしょうか?」
私が声を上げると、神藤さんは訝しげに私を見つめた。
母親は不安そうな目で私を見つめる。
「……すみません、少し席を外します。すぐ戻ってきますので」
神藤さんはそう言って、私を連れてまた病室から出た。
病室を出るやいなや、神藤さんの怒りのこもった声が降ってくる。
「どういうことだ?悪いが、事態は一刻を争う。簡潔にまとめてくれ」
「分かりました。えっと、能力の限界が分かれば、あのお母さんとお子さんを離れ離れにさせずにすむんじゃないかと思って……」
私の言葉に、神藤さんは眉をひそめる。
「それをするにはリスクが高いと、君も分かっているだろう。下手にあの赤ん坊が母親の心臓の音を聞きたいとでも思ったらどうする。その瞬間、あの母親は死ぬぞ」
確かにその通りだ。
しかし、赤ん坊の思考は単純ではないだろうか?基本、ミルクほしいとか、そういうことな気がする。
であれば、制御は可能だ。
「赤ん坊がミルクを欲しがってそうなときにやれば、勝算はあります」
「なかなか危険な賭けだな。そうまでして子供を母親から引き離したくないのはなぜだ」
「なぜって……」
私はそんなことを聞かれるとは思わず、戸惑う。
いや、分かっていた。神藤さんは人の心を全く理解していない人なので、こういうことが普通にあるのだ。
「あの子にとっても、母親から引き離されて育つのは良くないでしょう。愛着障害という言葉をご存じないですか?」
「……まあ、筋は通っているな」
やった!
あの神藤さんを納得させた!
私って結構成長したのでは?と我ながら誇らしい気持ちになる。
神藤さんはため息をつきつつも、分かった、と言って再び病室の中に入った。
「それで、先ほどの話の続きですが、我々は一生あなたとお子さんを引き離すつもりはありません。大体半月ほど預からせてもらうだけで良いんです。どうか、協力していただけませんか?」
すると、その話を聞いた母親は、わずかに表情を和らげた。
良かった。半月程度なら、子供への影響も少ないだろう。それでも、何もなしというわけではないだろうが。
私はホッとして胸をなで下ろした。
「それなら、良いです。あの、それで、引き取るのはいつから……?」
「できれば今日から……と言いたいところですが、赤ん坊の健康のことも考えて、病院と相談して決めようかと」
「分かりました。私もその話し合いの場には同席できますよね?」
「もちろんです」
話はまとまったようだ。母親は安堵した様子で微笑んでいる。
神藤さんは医者を呼びに病室を出た。
私も一緒に出ようとすると、母親に呼び止められる。
「ちょっと待ってください」
「え?はい」
私は立ち止まって後ろを振り返った。
母親は私を手招きする。神藤さんはどうせ私がいなくても大丈夫だろうし、私は大人しく母親の側に歩み寄る。
母親は赤ん坊に哺乳瓶でミルクをあげていた。先ほどまで泣いていた赤ん坊も、今はすっかりミルクに夢中だ。
「えっと、お名前を伺っても?」
「三浦史詩夏です」
「あ!あの、有名な」
え。私は思わず固まった。
だってここは埼玉だ。北海道と違って、私のことを知っている人も少ないと思っていたのに。
それに、最近私には忌々しいデマ事件があった。有名というのも良い意味かは怪しい。
「そ、それは……良い意味で、でしょうか?」
「もちろんですよ。私の旦那が戦闘隊員で、三浦さんっていうすごい期待の新人がいると聞いていたんです」
「なるほど……」
その言葉にホッとした。と、同時に、赤ん坊が能力者である理由にも合点がいった。
母親の方は特に超人にも見えないので、不思議だったのだ。だが、なるほど、旦那さんの方が超人なのか。
「それで、ええと、感謝を伝えたくて」
母親は慈愛の目を私に向けて言った。
私はその姿に思わず戸惑う。
「感謝ですか?私は何もしてませんが……」
私がそう言うと、母親はぱちりと目を瞬かせる。
「でも、私たちが離れ離れにならないようにしてくれたでしょう?外での会話、聞こえてましたよ」
「えっ」
わ、私たち、そんなにうるさかったかな……バレてないと思ったのに。
てことは、神藤さんが私をフォローした台詞も聞かれてたのか……?
私は恥ずかしさといたたまれなさを感じて目を伏せた。勝手にやったことなのに、それで感謝されるなんて、変な感じだ。
それに、あの会話を聞いて怒らずにむしろ感謝するなんて、この人は心が広い。
「まだお若いのに、私たちのこともちゃんと気遣ってくれて……とっても素敵です」
「そ、そんな。私なんてまだまだ、未熟者です」
「謙遜しないで。この子の命を救ってくれて、ありがとうございます」
優しく微笑まれて、不意に、泣きそうになった。
普段、こうやって面と向かって感謝されることは稀だ。大抵、私たちは忙しくて民間人と話す機会はないし、向こうも混乱していたりしてそれどころではなかったりする。
時には罵声を浴びせられることもあるし、悲しい現場で嫌な役を任されることもある。
それでも、こうして感謝されると、頑張って良かった、とい・う気持ちになった。
「私は本当に何もしていないんです。この子が……能力を使って、自分でエミュレイターに立ち向かったんですよ」
私は思ったままに言った。
「そうなの?」
「はい。とっても偉い子です」
母親は赤ん坊をジッと見つめる。何かを問いかけるみたいな目。同時に、惜しみない愛情がそこから感じられる。
そのとき、病室の扉が開いて、医師らしき人と神藤さんがやってきた。
「では、話し合いましょう」
そこからは、順調に話し合いが行われた。
医師からは明日からなら問題ないと言われ、母親もそれで良いと言ったので、赤ん坊は明日から引き取られることになった。
全ての話が終わり、神藤さんが病室を出る。
私は母親と赤ん坊に微笑みかけて言った。
「この度は本当にありがとうございました。どうかお元気で」
「そちらこそ、頑張ってください」
互いに軽く礼をして、病室を出る。
思ったより時間がかかってしまったので、この後の任務は急いで終わらせなければ。
私は気合いを入れて、神藤さんの後を追った。




