第四話
二人は日の出前に家を離れた。
町の人間が見張っていることは分かっていたため、モルガナは魔法を使い、テオとともに町から少し離れた街道へ転移した。
転移には相応の魔力を消費するため、普段は滅多に使わない。それでも、見張りに気づかれず町を出るには、この方法が確実だった。
モルガナは転移を終えると小さく息をつき、テオを促して街道を歩き始めた。テオの頬の腫れを気にして、荷物を持とうとしたが、テオは自分で背負うと言い張った。
「無理をしないの」
「これくらいなら平気です」
「また大丈夫って言うつもり?」
「……本当に平気です」
モルガナはため息をつき、それでも荷物を取り上げることはしなかった。
朝霧の残る街を歩く時、テオは何度か振り返った。友人たちの家は見えなかったが、広場の方角だけは分かった。
「寂しい?」
モルガナが尋ねた。
「少し」
「そう」
「でも、また旅ができますね」
テオは笑顔で前を向いた。モルガナは何も言わず、彼の歩幅に合わせて歩き出した。
その横顔を見ながら、モルガナは彼の頬に残る痣を確かめた。男に殴られた瞬間のことを思い出すと、今でも腹が立った。自分が疑われたことより、テオが傷つけられたことの方が、ずっと許しがたかった。
あの男を殺してしまえばよかった。そんな考えが浮かんだが、すぐに打ち消した。
テオの目の前で騒ぎを大きくすれば、彼をさらに危険にさらすことになる。
モルガナは彼の頭を軽く撫で、街道の先へ目を向けた。
旅の生活に戻ると、モルガナはいつも通りに食事を再開しようとした。しかし、なぜか以前のようにはいかなかった。
最初の町では、酒場で出会った男を魅了しようとしたが、思うように気を引けなかった。男は彼女の美しさに見とれたものの、しばらく話したあと、連れの待つ席へ戻ってしまった。
モルガナは意外に思ったが、空腹で力が弱っているのだろうと考えた。
次の町では、一人の男を捕食することができた。しかし、食事を終えても、どこか物足りなさが残った。久しぶりの食事だったからだろうか。モルガナはわずかな違和感を覚えたものの、特に気に留めなかった。
テオは食事を終えて帰ってきたモルガナを見て、以前よりもほんの少し疲れが残っているように感じた。気のせいかもしれないと思うほどの、わずかな変化だった。
「姉様、今日はどうでしたか?」
「いつも通りよ。どうかした?」
「いいえ。ただ、少し疲れているように見えたので」
「長く食べていなかったからね。しばらくすれば元に戻るわ」
モルガナはそう言って笑った。テオも笑い返したが、以前より彼女の歩く速度が遅くなっていることには気づいていた。
その頃から、テオはモルガナが男を食べることについて、気付き始めていた。
モルガナと初めて出会った十歳の頃から三年が経ち、テオは十三歳になっていた。身体の成長とともに、以前は気にも留めなかったことが少しずつ理解できるようになった。酒場で男たちが彼女に向ける視線や、彼女が男たちに見せる微笑みの意味も、今では分かるようになっていた。
モルガナが食事に出かける夜、テオは宿の部屋で待ちながら、彼女がどこで誰と過ごしているのかを考えることがあった。
彼女が生きるためには必要なことだ。その考えは変わらなかった。相手の男が死ぬことについても、以前と同じように受け入れていた。
知らない男の命とモルガナの命を比べれば、テオにとって大切なのは彼女の方だった。
それなのに、彼女が男に向ける笑顔を思い出すと、胸の奥が落ち着かなくなることがあった。
ある夜、モルガナが出かける支度をしていると、テオは思わず尋ねた。
「姉様は、ああいう男の人たちが好きなんですか?」
モルガナは鏡の前で髪を整える手を止めた。
「ああいう男の人?」
「食事に選ぶ人たちです」
「好きかどうかなんて、考えたこともないわ」
彼女は不思議そうに振り返った。
「どうして?」
「……何でもありません」
「変な子ね」
モルガナは笑い、テオの頭を撫でて出かけていった。
テオはその手の感触が残る髪に触れ、しばらく扉を見つめていた。彼女が男たちを好きではないと聞いて安心したのか、それとも自分がそんなことを尋ねたのが恥ずかしかったのか、よく分からなかった。
それからのテオの成長は、目を見張るほど早かった。旅を続けるうちに背丈が伸び、身体つきも少年から青年へと少しずつ変わり始めていた。
ある朝、モルガナに呼ばれて返事をすると、思いがけず低い声が出た。
「テオ?」
「はい?」
今度は声が裏返り、モルガナが目を丸くした。
「あら、どうしたの?」
「分かりません。でも最近、変なんです」
「そうなの?」
テオがもう一度話そうとすると、また声が裏返った。モルガナはとうとう笑い出した。
「姉様、笑わないでください」
「ごめんなさい。でも、そんな声を出すんだもの」
「僕だって好きで出しているわけじゃありません」
「分かっているわ。声変わりでしょう?」
テオは少し不機嫌そうに口を閉じた。モルガナは彼の顔を覗き込み、楽しそうに微笑んだ。
「大きくなったのねえ」
その言葉に、テオは複雑な気持ちになった。
成長することは嬉しかった。以前はモルガナに任せきりだった荷物運びも、今では自分から引き受けられる。宿の主人と値段の交渉をすることも、馬車の手配をすることも覚えた。
しかし、大きくなるということは、最初の約束に近づくことでもある。モルガナはそんな彼の気持ちには気づかず、翌日、新しい衣服を買いに連れていった。
「これも、もう小さいわね」
彼女はテオの上着を見ながら言った。
「まだ着られます」
「袖が短いでしょう」
「少しくらいなら」
「駄目よ。ちゃんと合うものを着なさい」
モルガナは店に並んだ衣服を見比べ、テオの肩に当てて大きさを確かめた。
「僕は、こっちの色がいいと思いますよ。汚れも目立たないし」
「ずいぶん実用的なことを考えるのね」
モルガナは笑いながら、彼が選んだ上着を買った。
宿へ戻ると、テオは新しい服に着替え、鏡の前に立った。肩幅が少し広くなり、手足も長くなっている。以前より顔つきも変わってきた。
「似合っているわ」
背後からモルガナが声をかけた。
「ありがとうございます」
「本当に大きくなったわね。最初は、あんなに小さかったのに」
彼女はテオの肩に手を置き、懐かしそうに笑った。
テオは鏡越しに彼女を見た。自分が大きくなったことを、モルガナは喜んでいる。それが食糧として育っているからなのか、別の理由なのか、テオには分からなかった。ただ、彼女に喜んでもらえることは嬉しかった。
十四歳になる頃には、テオはすっかり背が伸び、体格もよくなっていた。
声も落ち着き、旅の荷物の大半を持てるようになった。宿を探すときには自分から先に立ち、モルガナが疲れていれば休憩を提案した。
彼女は時折、そんなテオを見て感心したように笑った。
「頼もしくなったわね」
「姉様のおかげです」
「そうだったかしら」
「そうですよ。最初は、何もできませんでしたから」
テオは笑った。モルガナも笑い返したが、すぐに小さく息をついた。
「少し休んでもいい?」
「もちろんです」
テオは近くの木陰を探し、彼女を座らせた。
最近、こうした休憩が増えていた。以前なら、モルガナがテオの疲れを気にして足を止めていた。今は、彼女の方が先に疲れることが多い。
「姉様、本当に大丈夫ですか?」
「ええ。少し休めば平気よ」
「食事は?」
「……なかなか、いい相手が見つからなくてね」
モルガナは笑って答えたが、その声には以前のような張りがなかった。テオは彼女の隣に腰を下ろした。
町で彼女を母と呼んだ日のことを、最近よく思い出していた。あのときは、彼女を守るために必要な言葉だった。それは間違いない。けれど、殴られても彼女の前から退きたくなかった理由を考えると、母親だという嘘をつかなければならなかったことが、今でも心に引っかかっていた。
実の母親のことも思い出した。母は病気で寝ていることが多く、テオはいつもその世話をしていた。母が笑ってくれると嬉しかったし、少しでも楽になってほしいと思っていた。
モルガナにも、元気でいてほしい。けれど、その気持ちが母に抱いていたものとは違うことを、テオはもうはっきりと自覚していた。
彼女に頭を撫でられると嬉しい。自分が役に立てると誇らしい。ほかの男に向ける笑顔を見ると、胸の奥が落ち着かなくなる。彼女が自分以外の誰かに微笑みかけることが、面白くなかった。それでも、彼女が生きるために男を捕食することをやめてほしいとは思わない。
何より、彼女と離れたくなかった。モルガナという一人の女性として、ずっとそばにいてほしかった。
「テオ?」
モルガナに呼ばれ、彼は顔を上げた。
「何を考えているの?」
「……姉様のことです」
「あら、私?」
「はい」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
モルガナはそう言って、テオの頬に触れた。
「あなたは自分のことを考えなさい。これから行きたい場所も、やってみたいことも、たくさんあるでしょう?」
「姉様と一緒なら、どこでもいいです」
テオが答えると、モルガナは困ったように笑った。彼女はそれ以上何も言わず、テオの髪を撫でた。
モルガナが自分を大切にしてくれていることは分かっている。けれど、彼女が今の自分に何かを求めているわけではないことも、薄々感じていた。
テオはその手を握り返すこともできず、ただ隣に座っていた。
モルガナの衰弱は、旅を続けるうちに少しずつ進んでいった。
ある夜、彼女は酒場で一人の男に声をかけた。
男は彼女の美しさに目を奪われ、しばらくは楽しそうに話していた。モルガナはいつものように微笑み、指先で男の手に触れた。以前なら、それだけで男の視線は彼女から離れなくなった。
しかし、その夜の男は少し戸惑ったように笑い、やがて席を立った。
「悪いな。明日も早いんだ」
モルガナは引き止めようとしたが、男は軽く手を振って去っていった。彼女はしばらくその背中を見つめていた。
魅了の力が、思うように働かない。別の男を探そうとしたが、立ち上がると軽い眩暈がした。モルガナは椅子に手をつき、しばらく動けなかった。
結局、その夜は何も得られずに宿へ戻った。テオはまだ起きていた。
「おかえりなさい、姉様」
「ただいま」
「今日は、どうでしたか?」
「……駄目だったわ」
モルガナは椅子に腰を下ろし、長く息をついた。テオは水を用意しようとしたが、彼女は首を振った。
「人間の飲み物では、どうにもならないのよ」
「分かっています。でも、喉は渇くでしょう?」
モルガナは少し驚いたようにテオを見た。それから、差し出された水を受け取った。
「ありがとう」
テオは彼女の向かいに座った。以前なら、食事を終えたモルガナは満ち足りた妖力をまとい、誰もが振り返るほど艶やかだった。今は顔色が悪く、指先にも力が入っていないように見えた。
「姉様、少し休みましょう」
「でも、食事をしないと」
「こんな状態で、今は食事どころではないでしょう」
「……そうね」
モルガナは水を一口飲み、微笑んだ。
「あなたも、ずいぶん私の世話を焼くようになったわね」
「姉様に教わりましたから」
「そうかしら?」
彼女はテオの顔を見つめた。
十歳の頃、空腹を我慢して歩き続け、倒れてしまった小さな少年の姿が思い浮かんだ。今では自分の食事も宿の手配もでき、彼女の体調を気遣うほどに成長している。そのことが、モルガナには嬉しかった。
「美味しくなってね、テオ」
いつもの言葉を口にすると、テオは少しだけ笑った。
「はい、姉様。 僕はいつでも……」
その返事を聞きながら、モルガナは彼の手が以前より大きくなっていることに気づいた。
目の前のテオは、まだ子供とはいえ、十分すぎるほどに成長していた。食糧としては申し分ないはずだった。
そう考えたはずなのに、彼を見ても、サキュバスとしての本能は少しも動かなかった。
翌朝、モルガナは寝台から起き上がるまでに、いつもより長い時間がかかった。テオは彼女を急かさず、荷物をまとめながら待っていた。
「今日は馬車にしましょう」
彼が言うと、モルガナは少し考えてからうなずいた。
「そうしてもらえると助かるわ」
テオは宿の主人に馬車の時刻を尋ね、二人分の席を手配した。出発までの間、彼はパンと温かいスープを食べ、モルガナの荷物も自分の鞄と一緒にまとめた。
「行きましょう、姉様」
モルガナは差し出された手を握り、ゆっくりと立ち上がった。
馬車の乗り場までの道を、二人は並んで歩いた。以前ならテオが彼女の歩幅に合わせてもらっていたが、今はモルガナが遅れないよう、テオが速度を落としていた。
馬車に乗り込むと、モルガナは窓際の席に身体を預けた。彼女が眠ってしまうと、テオはその肩に上着をかけた。
テオは窓の外へ視線を向けた。街道の両側には、収穫を終えた畑が広がっていた。馬車が揺れるたび、隣に座るモルガナの身体がわずかに傾く。テオは彼女が倒れないよう、そっと肩を支えた。
何としてでも、モルガナを助けたい。彼女が弱っていくのを、これ以上ただ見ているわけにはいかなかった。
今度は自分が、彼女を守る番だとテオは決意した。




