第三話
テオが十二歳になった頃、二人は街道沿いの比較的大きな町を訪れた。
石畳の通りには商店が並び、朝から荷馬車が行き交っていた。広場では市が開かれ、近隣の村から農作物や家畜を売りに来る者も多い。旅人が珍しくない土地柄で、モルガナのように美しい女性が歩いていれば人目を引くものの、よそ者というだけで警戒されることはなかった。
いつものように一週間ほど滞在してから次の町へ向かうつもりだったが、テオは到着した翌日、広場で同じ年頃の少年たちと知り合った。きっかけは、露店で買った焼き菓子だった。
「それ、どこの店で買ったんだ?」
広場の端で菓子を食べていたテオに、荷車の陰から少年が声をかけてきた。日に焼けた顔をした、テオより少し背の高い少年だった。
「あそこの角の店」
「うまいか?」
「う……うん。外が硬くて、中に蜂蜜が入ってる」
「へえ。新しいやつかな? ちょっと見せて」
テオが残りを差し出すと、少年は遠慮なく覗き込み、後ろにいた友人を呼んだ。二人は菓子の値段を聞いて顔を見合わせ、結局、三人で店まで行くことになった。
それからテオは、町に滞在している間、彼らと遊ぶようになった。少年たちは近くの職人の家の子供で、仕事の手伝いが終わると広場に集まっていた。テオも午前中にモルガナとの用事を済ませ、午後になると彼らに混じって町を歩いた。川沿いの道で石を投げたり、裏通りの店で売られている菓子の値段を比べたり、誰が一番遠くまで走れるか競ったりした。
テオは、同じ年頃の子供たちとこれほど長く過ごしたことがなかった。父のいる家では、遊びに出かけることなど考えられなかった。母が生きていた頃も、病気の母を一人にするのが心配で、用事が済めばすぐに帰っていた。旅を始めてからは、同年代の子供と知り合っても、親しくなる前に町を離れていた。
だから、翌日も同じ場所へ行けば友人が待っているということが、テオには新鮮だった。
「今日は何をしてきたの?」
宿へ戻ると、モルガナは決まってそう尋ねた。
「川で遊んでました。向こう岸まで石を投げられるか競争したんです」
「それで、勝てたの?」
「……いいえ、あんまり上手くなくて。でも楽しかった」
「あら、そう」
モルガナは話を聞きながら、テオの夕食を用意した。自分は食べる必要がないので、食卓につくのはいつもテオだけだったが、彼が食べ終わるまで向かいの椅子に座り、テオは友人たちの名前や、町で見つけた面白いものを次々に話した。
そんな日が続くうちに、出発の予定が近づいてきた。テオは荷物を整理しながら、何度も窓の外を見た。翌日も広場で会おうと誘われていたが、その頃にはもう町を離れているはずだった。
「テオ。何か言いたいことがあるんじゃない?」
「え? 何ですか、姉様。何もないですよ」
「そう?」
モルガナは彼の鞄に目をやり、それから窓の外を見た。
「この町、気に入ったんじゃない?」
「……少しだけ」
「だったら、もう少しいましょうか」
テオは手にしていた衣服を落としかけた。
「でも、姉様のお食事は……」
「少しくらいなら平気よ。それに、毎日同じ場所に帰ってくるのも悪くなさそうだわ」
「本当に、いいんですか?」
「ただし、前に頂いたお金だと、二ヶ月くらいしかもたないわ。贅沢はできない。それだけは覚えておいてね」
「ええ……ええ……わかりました」
テオは目を輝かせて、何度もうなずいた。モルガナはその様子を見て笑い、荷造りをやめるように言った。
結局、二人は宿を引き払い、町外れの小さな家を借りることになった。
家は居間と寝室が二つあるだけの簡素な造りだったが、台所には小さな竈があり、裏には洗濯物を干せる庭もあった。
テオは自分の寝室を与えられたことを喜び、窓辺に鞄を置くと、早速部屋の掃除を始めた。モルガナは家主から受け取った鍵を机に置き、台所の棚を開けて中を確かめていた。
「食器が足りないわね。あとで買いに行きましょう」
「僕、一人でも行けますよ」
「そうね。もう道も覚えたものね」
モルガナは財布から硬貨を取り出し、テオに渡した。
「でも、余ったお金でお菓子ばかり買わないこと」
「そんなことしません」
「じゃあ、昨日のはなんだったのかしら?」
「……昨日は、少しだけ」
モルガナが笑うと、テオもつられて笑った。
町での暮らしが始まると、二人の生活には自然と決まった時間ができた。朝、テオはパン屋へ行き、焼きたてのパンを買って帰る。昼間は友人たちと遊び、夕方になると家に戻って夕食を取る。モルガナは時折外出したが、以前のように何日も続けて町を移動する必要がないため、家にいる時間が長くなった。
テオが帰ってくる頃には、彼女が居間で本を読んでいることもあった。
「ただいま、姉様」
「おかえりなさい。手を洗っていらっしゃい」
そんなやり取りが、いつの間にか当たり前になっていた。
モルガナにとっても、人間の子供が毎日どこかへ出かけ、夕方には帰ってくる生活は初めてだった。テオが友人の家で食事を済ませてくると言えば、帰宅時間を確かめた。雨が降りそうな日は上着を持たせ、靴が泥だらけになっていれば脱いでから家に入るよう注意した。
テオがいない昼間、彼女は時折、何もすることがない自分に気づいた。以前なら獲物を探しに出かけていた時間だった。しかし、同じ町に長く留まる以上、むやみに男を捕食するわけにはいかない。
最初のうちは、それほど問題にはならなかった。多少空腹を感じても、魔力を節約していれば動けたし、魅了の力も失われていなかった。何より、テオが毎日楽しそうに帰ってくるので、もう少し滞在を延ばしてもよいと思えた。
だが、やがて身体に重さを感じるようになった。朝になっても起き上がる気になれず、長く歩くと疲れが残る。鏡を見ると、以前より顔色が冴えないように思えた。
モルガナは空腹のせいだと考えた。この町での生活を終えれば、また以前のように食事を取ればいい。それまでは少し我慢すれば済むことだった。
「姉様、今日は疲れているんですか?」
ある夕方、テオが尋ねた。
「どうして?」
「いつもより、元気がないように見えたので」
「お腹が空いているだけよ」
「……僕がここにいたいと言ったからですか?」
モルガナは椅子から身を起こした。
「違うわ。私がそうしたいと思ったから、ここにいるの」
「でも……」
「心配しないで。そろそろ獲物も見つけたのよ。自分のことは自分で何とかするわ」
モルガナはテオの頭を撫で、夕食の支度をするように促した。
翌朝、町で男が不審な死を遂げた。男は乱暴者として知られ、町の人々からもあまり好かれていなかったという。目立った傷はなく、眠るように死んでいたそうだ。
最初に話を聞いたのは、テオがパンを買いに行った朝だった。テオはその話を聞きながら、パンを受け取った。昨日のモルガナの話を思い出したが、特に驚きはしなかった。彼女が男の人を食べることも、食べられた男が死ぬことも、最初から知っている。
ただ、以前と違って、今はこの町に友人がいた。男の死を怖がっている人もいれば、家族を心配している人もいる。テオはその話題になると、黙って聞いていた。
やがて、町の人々の関心は死んだ男から、最近越してきた美しい女へと移っていった。モルガナは町に来た頃から人目を引いていた。落ち着いた服装をしていても、その美貌は隠しようがなく、男たちが振り返ることも珍しくない。彼女と話したことのある男が、妙に上機嫌になっていたという噂まで広がり始めた。
最初は単なる好奇心だったものが、不審死の話と結びつくまでに時間はかからなかった。
「お前の母ちゃん、すごく綺麗だよな」
広場で遊んでいたとき、友人の一人が言った。
「うん」
「うちの父ちゃんも言ってた。あんな綺麗な人、見たことないって」
「そうなんだ」
「でも、変な噂もあるんだって」
テオは石を拾う手を止めた。
「どんな?」
「知らない。大人が話してたけど、俺が来たら黙っちゃった」
友人はそれ以上気にする様子もなく、別の話を始めた。
テオはその日の遊びを早めに切り上げ、家へ戻った。モルガナは居間の窓を開け、外の風を入れていた。頬には血色が戻り、立ち居振る舞いにも以前のような軽やかさがあった。
「おかえりなさい。今日は早いのね」
「姉様、町の人たちが……」
そこまで言って、テオは口を閉じた。モルガナは彼の顔を見て、窓を閉めた。
「何か聞いたの?」
「姉様のことを、噂しているみたいです」
「そう」
「大丈夫でしょうか」
「まあ……噂だけなら、どうということはないわ」
モルガナはそう答えたが、その日の夕食後、しばらく窓の外を見ていた。テオは彼女の横顔を見ながら、また旅に出ることになるのだろうかと考えた。
友人たちと別れるのは嫌だった。しかし、モルガナに何かあってからでは遅い。彼は自分から荷物をまとめ始めた。
「どうしたの?」
「そろそろ出発した方がいいと思って」
モルガナはテオの鞄を見た。
「お友達は?」
「また、どこかで会えるかもしれません」
「そうね」
彼女は少し考え、それから言った。
「明日には出ましょう。お友達とお別れできないのは残念だけれど、ごめんなさいね」
「気にしないでください」
テオは荷物をまとめる手を止めなかった。
しかし、その日の夜中、町の人々が家を訪ねてきた。最初に戸を叩いたのは、近所に住む男だった。
テオが外に薪を取りに行って帰ってきたこの時には、家の前に数人の男が集まっていた。見覚えのある顔もあったが、誰も普段のように挨拶を返さなかった。
「何か、ご用ですか?」
テオが尋ねると、一人が振り返った。
「お前の母親は中にいるな?」
「少し話を聞きたいだけだ」
矢継ぎ早に男たちは話すと、すでに戸は開けられ、ほかの者たちが家の中へ入っていた。
テオは慌てて後を追った。居間では、モルガナが男たちと向かい合っていた。
「だから、私は何も知らないと言っているでしょう」
彼女の声は落ち着いていたが、いつもの柔らかさはなかった。
「町で男が死んでいる。あんたが来てからだ」
「それだけで私を疑うの?」
「お前と話した男が、翌日から様子がおかしかったという話もある」
「男の人が私に親切なのは、私のせいかしら」
モルガナが微笑むと、男の一人が顔をしかめた。
「そうやって男を惑わすんだろう」
「何を言っているのか分からないわ」
「とにかく、役所まで来てもらう。そこで話を聞く」
男が一歩近づき、モルガナの腕をつかもうとした。その瞬間、テオは二人の間に飛び込んだ。
「母に何をする!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。男たちは一斉にテオを見た。
「子供は引っ込んでいろ」
「母さんは何もしていません!」
「お前には関係ない」
「あります! 僕の母です!」
テオは両腕を広げ、モルガナの前に立った。男の一人が苛立ったように舌打ちした。
「どけと言っているだろう」
肩を押されたが、テオは退かなかった。もう一度押されても踏みとどまり、男を睨み返した。
次の瞬間、頬に強い衝撃が走った。視界が揺れ、テオは床に倒れた。口の中に血の味が広がり、頬が熱を持って痛んだ。
「テオ!」
モルガナの声が響いた。彼女は男たちを押しのけ、テオのそばに膝をついた。頬に触れようとした手が一瞬止まり、傷を確かめるようにそっと顔を上げさせる。
「何をするの、この子に!」
テオはその声を聞いて、慌てて身体を起こした。
「姉……母さん、大丈夫だから」
「大丈夫なわけがないでしょう!」
モルガナは男たちを睨みつけた。その表情を見て、テオは彼女が本気で怒っていることを知った。普段なら相手を軽くあしらうように笑う彼女が、今は少しも笑っていなかった。
男たちも気圧されたように黙ったが、すぐに一人が口を開いた。
「こっちだって、子供に邪魔されちゃ困るんだ」
「だからって殴ることはないでしょう」
「なら、素直に来てもらおうか」
男が再び近づこうとした。テオはモルガナの手を振りほどき、彼女の前に立った。
「待ってください!」
声を張り上げると、頬が痛んだ。それでも、テオは男たちを見回した。
「母さんがサキュバスだって、疑っているんでしょう?」
居間が静かになった。男たちは互いに顔を見合わせた。
「……誰がそんなことを言った」
「町で噂になってるのくらい、僕でも知ってますよ!でも、違います」
テオは息を整えた。
「子供がいるサキュバスなんて、聞いたことないでしょう?」
男たちの表情が変わった。
サキュバスは男を惑わし、生気を奪う魔族だ。子供を育てる存在として語られることはない。テオはそのことを、旅の途中で聞いた話から知っていた。
「僕は小さい頃から身体が弱くて、母さんはずっと面倒を見てくれています。遠い土地の、田舎の空気がいいところへ行こうとしていたんです」
「だったら、どうしてこの町に長くいた?」
「僕の体調がよかったから! 少し休ませてもらっていました」
テオは自分の細い腕を見せた。
「僕が病気になると、母さんはいつも心配します。そんな人が、サキュバスなわけないでしょう」
男たちは返事をしなかった。テオの言葉は嘘だった。身体が弱いというのも、田舎へ向かうというのも、この町に留まった理由も、すべてその場で考えたことだった。
けれど、モルガナが自分の世話をしてくれたことだけは、本当だった。
「母さんを連れていかないでください」
テオは頭を下げた。
「僕には、母さんしかいないんです」
男たちの間に、気まずい沈黙が流れた。やがて、最初に話しかけてきた男が口を開いた。
「……今日は帰る」
「でも」
「証拠もないのに、子供の前で騒ぎを起こすわけにはいかないだろう」
男はほかの者たちを促し、戸口へ向かった。
「ただし、疑いが晴れたわけじゃない。しばらくは町を出ないでもらいたい」
そう言い残し、男たちは去っていった。戸が閉まると、テオはようやく肩の力を抜いた。モルガナは彼を見つめていた。
「……姉様?」
「座りなさい」
「でも、もう大丈夫です」
「座りなさい、テオ」
いつもより低い声だった。テオは逆らわず、椅子に腰を下ろした。モルガナは水を用意し、清潔な布を濡らしてテオの頬に当てた。
「痛い?」
「痛くないです」
「嘘をつかないの」
「……痛いです」
「そうでしょうね」
彼女は布を替えながら、腫れた頬を何度も確かめた。口の中に傷がないか尋ね、唇の端に残った血を拭き取った。
「どうして、あんなことをしたの」
「姉様を連れていこうとしていたから」
「だからって、あんな無茶をして」
「でも、止めなかったら……」
「私のことは私が何とかするわ」
モルガナは言いかけて、口を閉じた。テオは彼女の手元を見た。布を絞る指先が、わずかに震えていた。
「姉様、僕は大丈夫です」
「さっきもそう言ったわね」
「本当に、大したことありません」
「あなたはいつもそう」
モルガナは布を置き、テオの顔を両手で包んだ。
「痛いなら痛いと言いなさい。怖かったなら、怖かったと言っていいの。あなたが我慢しても、私は嬉しくないわ」
テオは返事に困った。旅を始めた頃、空腹や疲れを隠していたときにも、似たようなことを言われた。
あの頃のモルガナは、健康な食糧を育てるために必要なのだと説明していた。けれど、今の彼女はそんな話をしなかった。
「……姉様が連れていかれる方が、怖かったです」
ようやくそう答えると、モルガナは目を伏せた。
「そう」
モルガナはそれ以上尋ねず、手当てを終えるとテオの頬に軽く触れた。
「今すぐ、町を出ましょう」
テオはうなずいた。
あの時、男たちのから姉様を守ったことに後悔はなかった。ただ、とっさに口をついて出た「母さん」という言葉が、今も心のどこかで引っかかっていた。
建前上、人前で母さんと呼ぶことには慣れているはずなのに、あの瞬間だけは、いつもと何かが違っていた。なぜそう感じるのか、自分でもよく分からない。けれど、今はそれを考えている場合ではなかった。
彼女を守るためなら、友人たちと別れることくらい我慢できる。テオは鞄を開き、友人からもらった小さな木彫りの駒を取り出した。それを、何度も指でなぞってから、壊れないように衣服の間へしまった。




