第二話
旅を始めて三日目、テオは歩けなくなった。
本当は昨日から、もう足が痛かった。初日は夜中に家を出たため、明け方には眠くなっていたし、二日目は朝から歩き続けていたので、足の裏に水ぶくれができていた。
それでも、テオは何も言わなかった。モルガナは疲れた様子もなく歩いていた。日が暮れても足取りは変わらず、時折テオを振り返っては、ついてきていることを確かめるだけだった。テオは遅れないように小走りになった。
父の家では、疲れたからといって仕事を休むことはできなかった。モルガナも、歩けない子供を連れていては困るだろう。食糧になるまで育ててもらう約束をしたのだから、できるだけ迷惑をかけたくなかった。
だが、三日目の昼を過ぎた頃、とうとう足が前に出なくなった。
「テオ?」
モルガナが振り返った。テオは道端に立ち止まり、両膝に手をついていた。
「どうしたの?」
「……すみません」
「何が?」
「少し、休んでもいいですか」
モルガナは不思議そうに瞬きをした。
「疲れたの?」
「はい」
「そう。人間の子供って、そんなにすぐ疲れるものなのね」
テオは返事をしようとしたが、喉が渇いてうまく声が出なかった。モルガナはその様子を見て、さらに首を傾げた。
「お水が欲しい?」
テオは頷いた。
「そういえば、昨日からあまり飲んでいなかったわね」
モルガナがテオの空になった水筒に指先を向けると、中から水の湧く音がした。あっという間に水筒はいっぱいになった。テオが両手で受け取って飲み始めると、彼女はその勢いを見て目を丸くした。
「そんなに喉が渇いていたの?」
「……はい」
「どうして言わなかったの?」
「姉様の邪魔になると思って」
「ねっ? 姉様?」
テオは顔を上げた。
「駄目でしたか?」
「いいけど……どうしてそう呼ぶの?」
「モルガナ様とお名前で呼ぶのも、何だか失礼な気がして……。姉様ならいいかなと思ったんです」
モルガナはしばらくテオを見つめ、それから微笑んだ。
「いいわよ。好きにお呼びなさい」
「ありがとうございます、姉様」
「それより、そういえばあなた、最後に食事をしたのはいつ?」
テオは考えた。家を出る前に、台所に残っていたパンを少し食べた。それからは、モルガナが何も食べていなかったので、自分も食べなくてよいのだと思っていた。
「三日前です」
「ふぅん。三日前……人間って、そんなに食べなくても平気なの?」
「平気じゃないです」
テオは正直に答えた。
「お腹が空きました」
モルガナは少しの間、黙っていた。やがて、額に手を当てて大きく息を吐いた。
「そういうことは、もっと早く言いなさい」
「ごめんなさい」
「まぁ……私も気づかなかったのが悪いかもね」
モルガナは道の先を見た。次の町まではまだ距離がある。テオの足では、夕方までに着けるかどうかも分からなかった。
「仕方ないわね。少し戻りましょう」
「戻るんですか?」
「ええ。さっき小さな村があったでしょう。あそこなら何か食べられるものがあるはずよ」
「でも、姉様は……」
「私は食べなくても平気なの。少なくとも、あなたよりはね」
モルガナはテオの鞄を取り上げた。
「ほら。ゆっくり歩きましょう」
テオは慌てて手を伸ばした。
「自分で持てます」
「持てるのは分かっているわ。でも、足が痛いんでしょう?」
テオは驚いて顔を上げた。
「どうして分かったんですか?」
「さっきから変な歩き方をしているもの」
モルガナは当然のように答えた。
「あなたを育てるのは、思ったより大変そうね」
テオは俯いた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいわよ」
モルガナは少し考え、テオの頭を軽く撫でた。
「ちゃんと育ってもらわないと、私が困るのよ。だから、遠慮しないで言いなさい」
「……はい」
村へ戻ると、モルガナは食堂で温かいスープとパンを注文した。テオは席についた途端、食事を見つめたまま動かなくなった。
「どうしたの? 食べないの?」
「食べてもいいの?」
「あなたのために頼んだのよ」
「姉様は?」
「私はいらないわ」
テオは匙を持った。スープは野菜と豆を煮込んだだけの簡単なものだったが、三日ぶりの食事は驚くほど美味しかった。夢中で口に運んでいると、モルガナが向かいの席からじっと見ていることに気づいた。
「どうかしましたか?」
「人間の子供って、本当によく食べるのね」
「……食べすぎですか?」
「そんなことないわ。もっと食べなさい」
モルガナは追加のパンを注文した。テオはそれも残さず食べた。
食事を終える頃には眠気が強くなったのか、テオは椅子に座ったまま何度も欠伸をした。モルガナはそれを見て、今度は食堂の主人に宿の場所を尋ねた。その夜、テオは久しぶりに柔らかいベッドで眠った。
モルガナは窓辺の椅子に腰掛け、眠っているテオを眺めていた。人間の子供を育てるのは、思っていた以上に手間がかかるらしい。毎日食事を与え、水を飲ませ、夜になれば寝かせなければならない。長く歩けば疲れるし、靴が合わなければ足を痛める。
魔族である自分には、どれも馴染みのないことだった。
モルガナはベッドの上で丸くなっているテオを見た。痩せた頬に、ようやく少しだけ血色が戻っていた。
「本当に、手のかかる食糧ね」
小さく呟いたが、テオは目を覚まさなかった。
それからモルガナは、人間の旅人にならって食事や休憩、宿泊をし、長距離の移動には馬車も利用するようになった。
そして、テオが空腹や疲れを我慢していないかも、こまめに確かめた。
「お腹は?」
「まだ空いていません」
「足は?」
「痛くありません」
「眠くない?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当です、姉様」
テオは何を聞かれても「大丈夫」としか答えないので、モルガナはすっかりその返事を信用しなくなっていた。
ある日、テオが夕食を前に眠そうにしていると、彼女は食事を途中で切り上げさせ、宿へ連れ帰った。別の日には、靴擦れを隠していたことに気づき、新しい靴を買い与えた。
「痛いなら痛いと言いなさい」
「でも、まだ歩けます」
「歩けるかどうかを聞いているんじゃないの」
モルガナは店先でテオを椅子に座らせ、靴を履き替えさせた。
「あなたが無理をして倒れたら、私が困るでしょう?」
「……はい」
「だから、ちゃんと言って」
テオは新しい靴で何歩か歩いてみた。足の指が全く痛くなかった。
「どう?」
「歩きやすいです」
「そう」
モルガナは満足そうに頷いた。
その笑顔を見て、テオはようやく、自分が痛いと言っても怒られないのだとわかった。
旅の途中、モルガナはときどき一人で出かけた。その夜は、テオを宿に残していく。
「少し出かけるてくるわね」
「はい、姉様」
「遅くなるかもしれないけれど、先に寝ていていいのよ」
「待っています」
「そう?」
モルガナは笑い、テオの頭を撫でて出かけた。
今夜もまた、父と同じように男の人が死ぬのだろう。モルガナは路銀もそこで調達していると言っていた。
最初の頃は、彼女が帰ってくるまで起きていようとした。窓から通りを眺め、廊下の足音に耳を澄ませた。夜が深くなると眠気に負け、気づけばベッドで朝を迎えていることもあった。
そんなとき、モルガナは決まって近くにいた。
「おはよう、テオ」
「姉様。お帰りなさい」
「ただいま。よく眠れた?」
「はい」
「それならよかったわ。今日もすぐに旅立つから、支度をしておいてね」
食事を終えたモルガナは血色を取り戻し、いつにも増して艶やかな色香を漂わせていた。満ち足りた妖力がその身から溢れ、声や仕草にまで生気が宿っているようだった。
町で男が不審な死を遂げたという噂を耳にすることもあった。それでもテオにとっては、モルガナが元気に帰ってくることの方が大切だった。
モルガナが食事をしたあとは、決まってすぐ次の町へ移動する。
「あまり長くいると、面倒なことになるのよね。私みたいな女は、目立つから」
モルガナは鏡に映る自分の髪を櫛で整えた。
「綺麗なのも、こういうときは困りものね」
テオは少し考えた。
「姉様は、綺麗だと思います」
「あら。ありがとう」
モルガナは楽しそうに笑った。
「テオも大きくなったら、そんなことを女の人に言うようになるのかしら」
「言いません。姉様だけです」
「ふふ。どうかしらね」
モルガナはテオの鞄を手渡した。
「さあ、行きましょう」
テオは頷き、彼女のあとについて宿を出た。
こうして二人は、いくつもの町を通り過ぎた。
小さな村に泊まることもあれば、人で賑わう大きな町に滞在することもあった。市場では珍しい果物が売られ、広場では楽器を演奏する人がいた。川に架かった大きな橋や、遠くまで続く麦畑を見たこともあった。
テオにとって、そのどれもが初めての経験だった。父の家にいた頃は、近所の店へ買い物に行くことくらいしか許されなかった。母の看病もあったので、遠くへ出かけることなど考えたこともなかった。
モルガナは、テオが立ち止まって何かを見ていると、急かさずに待ってくれた。
「何が気になるの?」
「……あの」
ある町の市場で、テオは菓子屋の前に立ち止まった。店先には焼き菓子が並び、砂糖をまぶした小さな菓子から甘い匂いが漂っていた。
「食べたいの?」
モルガナが尋ねた。テオは慌てて首を振った。
「いえ、見ていただけです」
「そう? でも、美味しそうね」
モルガナは菓子屋を覗き込んだ。彼女は店主に声をかけ、菓子を一つ買った。
「はい」
「……いいのですか? 姉様は食べないのに」
「あなたが食べるのを見ているのは、結構楽しいのよ」
テオは菓子を受け取った。砂糖のついた表面を少しかじると、中は柔らかく、甘い果物の味がした。
「美味しい?」
「はい」
「そう」
テオは菓子を食べながら、店先に並んだほかの品を眺めた。
数日後、別の町の市場で、モルガナは似たような菓子を見つけた。
「あら、テオ。あなた、これが食べたいと言っていなかった?」
テオは目を丸くした。
「覚えていたんですか?」
「もちろん。あなたが言ったんでしょう」
モルガナは菓子を買い、テオに渡した。
テオは両手で受け取り、しばらく眺めてから口に運んだ。前の町で見たものとは少し違っていたが、甘くて美味しかった。
モルガナはその様子を見て、満足そうに微笑んだ。
それから、テオは少しずつ自分の希望を口にするようになった。
次の町へ向かう途中に川があれば、少しだけ見ていきたいと言った。市場で珍しいものを見つければ、何に使うのか尋ねた。宿の食事に好きな料理が出ると、また食べたいと話すようになった。
ある日、二人は小さな湖のそばを通った。
湖面には空が映り、岸辺には白い花が咲いていた。テオは足を止めた。
「姉様。少しだけ、ここにいてもいいですか?」
「いいわよ」
モルガナは道端の木陰を指さした。
「あそこで休みましょうか」
二人は湖を眺めながら腰を下ろした。
テオは鞄からパンを取り出した。朝、宿を出る前にモルガナが買ってくれたものだった。
「お腹が空いたの?」
「少し」
「そう」
テオはパンを半分に割った。
「姉様もいりますか?」
「私はいらないわ」
「そうですよね」
テオは少し笑い、自分の分を食べ始めた。
モルガナは湖を眺めていたが、やがてテオの方へ顔を向けた。
「ねえ、テオ」
「はい」
「旅は楽しい?」
テオはパンを飲み込んでから答えた。
「はい。楽しいです」
「そう」
「いろんなものが見られますし、美味しいものも食べられます。それに……」
「それに?」
テオはモルガナを見上げた。
「姉様と一緒ですから」
モルガナは一瞬、意外そうな顔をした。それから、いつものように笑った。
「まあ。嬉しいことを言ってくれるのね」
テオは少し照れくさくなり、残りのパンにかじりついた。
モルガナはその様子を眺めながら、彼の頭を撫でた。
「たくさん食べて、元気に育ちなさい」
「姉様」
「何?」
「僕、もっと大きくなります」
「ええ。そうしてちょうだい」
「たくさん食べて、ちゃんと寝て、元気になります」
「そうね」
モルガナは笑いながら頷いた。
「あなたはまだまだ大きくなるもの。今のままじゃ、まだ私を満足させられないわ」
テオは自分の細い腕を見た。
「もっと食べた方がいいですか?」
「そうねえ。でも、無理に食べなくてもいいのよ。お腹が空いたら、ちゃんと言いなさい」
「はい」
「疲れたら休むこと。痛いところがあったら、隠さずに教えること」
「分かりました」
「それから、欲しいものがあったら言いなさい。何でも買ってあげられるわけじゃないけれど、聞くくらいはできるもの」
テオは頷いた。モルガナは彼の返事に満足したように、もう一度頭を撫でた。
湖の向こうから風が吹き、岸辺の花が揺れた。
テオは残りのパンを食べ終えると、鞄から水筒を取り出した。水を飲み、空になった包み紙を畳んでしまう。
「姉様、もう少しだけ湖を見ていてもいいですか?」
「もちろん」
モルガナは隣に座ったまま、湖へ視線を戻した。テオも同じ方を向く。この時間が、できるだけ長く続けばいいなと願った。
モルガナはそんなテオの考えを知らず、湖面を眺めながら穏やかに微笑んでいた。
やがてテオが立ち上がると、彼女も腰を上げた。
「そろそろ行きましょうか」
「はい、姉様」
テオは鞄を背負い、モルガナの隣に並んだ。彼女はテオの歩幅に合わせて歩いてくれる。次の町への期待に足取りを弾ませる少年を見て、モルガナは満足そうにその頭を撫でた。順調に育っている証拠だと思った。
「美味しくなってね、テオ」
「はい!姉様」
テオは笑って答えた。




