第一話
長く病に伏していた母が死んでから、家の中はずいぶん静かになった。
もともと静かな家だったが、母が生きていた頃は、母の部屋から咳き込む声や水を求める声が聞こえてきた。
十歳になったばかりのテオは、そのたびに母のもとへ行き、水を飲ませたり、寝具を整えたりしていた。母はそんなテオに、いつも申し訳なさそうに微笑んで礼を言った。
母が病気になった頃、父と母は寝室を分けるようになった。その母の部屋は、死んだ日のままになっていた。父は片づけるよう命じたが、テオは寝具を畳んだだけで、ほかのものには手をつけていない。窓辺に置かれた櫛も、読みかけの本も、母が最後に使った水差しもそのままだった。父が母の部屋に入ることはほとんどなかったので、それで困ることはなかった。
困ることがあるとすれば、父が家にいる時間が増えたことだった。
母が生きていた頃、父はよく外泊していた。帰ってきても酒の匂いをさせて寝室へ向かうだけで、テオと顔を合わせない日も珍しくなかった。母は父の帰りを待っていたが、テオは帰ってこない夜の方が好きだった。
父が外で何をしているのかは、近所の大人たちの話で何となく知っていた。母も知っていたと思う。ただ、母はテオの前で父の悪口を言わなかった。
「お父さんは、お仕事で疲れているのよ」
そう言って笑う母の顔は、いつも少し青白かった。
母が死んだあと、父は外で過ごす金が惜しくなったのか、それとも家に帰れば食事が用意されていると思っているのか、以前より頻繁に帰宅するようになった。食事を作るのはテオだった。母の看病をしながら覚えた簡単な料理しかできなかったが、父は料理の出来が悪ければ怒鳴り、食卓に何もなければ殴った。
その日も、テオは台所の隅で頬を押さえていた。父は皿に残った煮込みを匙でかき回し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「塩もまともに振れんのか。お前の母親もそうだった。まったく、何一つ満足にできん奴らだ」
テオは返事をしなかった。母のことを言われるのは嫌だったが、言い返しても何も変わらない。父が怒っているときは、黙っている方が早く終わることを知っていた。
「聞いているのか」
「……はい」
「だったら、さっさと片づけろ」
父は乱暴に匙を投げ出すと、酒瓶を持ってへ外へ出て行った。
テオは皿を下げ、残された煮込みを小さな器に移した。父が食べなかった分が、今夜の自分の夕食になる。底に残った汁をパンにつけて食べながら、ため息をついた。
母が生きていた頃は、食事を作るのもそれほど嫌ではなかった。母は何を出しても美味しいと言ってくれたし、テオが少し失敗しても、次はこうしてみようと教えてくれた。
今では、食事のことを考えるのさえ嫌になるほど、苦痛な時間になっていた。テオは味のしない食事をかき込むと、足早に母の部屋へ向かった。
母の部屋に入ってベッドの端へ腰掛ける。窓の外には夕暮れの空が広がっていた。母はここから見える景色を気に入っていた。具合のよい日には窓を開け、通りを歩く人たちを眺めていたものだった。
テオは枕に手を置いた。もう、母の匂いはほとんど残っていなかった。それでも寝具を替える気にはなれず、しばらくそのまま座っていた。
ドアの向こうで何かが倒れる音がした。父が帰ってきて、酒瓶でも落としたのだろうか。テオは立ち上がらなかった。
母が死んだとき、父は泣かなかった。葬儀の手配を面倒がり、金がかかると文句を言い、弔問に来た人たちの前でだけ悲しそうな顔をした。
テオはその顔を見ながら、父が死んでも泣くことはないだろうと思ったし、そのことに罪悪感もなかった。
母がいなくなった家で、これから何年も父と暮ららなければならない。大人になれば家を出られるかもしれないが、それまでの時間をどうやって過ごせばよいのか分からなかった。
テオは窓を閉め、母のベッドから離れた。
翌日も、その次の日も、嫌でたまらない日々が続いていく。テオはこれからもずっと、そんな毎日を耐えなければならないのだと思っていた。
その女が家に来たのは、母が死んでからひと月ほど経った夜だった。
父は夕方から出かけていた。帰宅したのは日付が変わる少し前で、いつものように酒の匂いをさせていたが、その夜は一人ではなかった。
玄関から女の笑い声が聞こえたとき、テオは母の部屋で眠っていた。
「本当に、こんな時間にお邪魔してもいいの?」
「構わんさ。女房はもういないんだ」
「まあ、そうなの。お気の毒に」
女の声は柔らかく、どこか楽しそうだった。テオは眠い目をこすりながら寝台を抜け出し、寝室の扉を少しだけ開けて、声のする方を覗いた。
父の腕に寄り添っていたのは、見たこともないほど美しい女だった。
長い黒髪が肩から背中へ流れ、白い肌は薄暗い玄関でも際立って見えた。整った顔立ちには大人の女性らしい落ち着きがあり、唇には穏やかな笑みが浮かんでいる。父は女の腰に手を回し、ひどく上機嫌だった。
女がテオに気づいた。
「あら」
父もこちらを見た途端、顔をしかめた。
「何をしている。さっさと寝ろ」
「……はい」
テオが引き下がろうとすると、女が父の腕に軽く触れた。
「お子さんがいらっしゃるのね」
「ああ。気にするな。邪魔はさせん」
女はもう一度テオを見た。その目が、ほんの一瞬だけ不思議そうに細められた。
「そう。おやすみなさい、坊や」
テオは頭を下げ、扉を閉めた。
父が女を連れてくるのは初めてではなかった。母が生きていた頃にも何度かあったし、そのたびに母は耐えるように寝室の隅で震えていた。テオは父の客に関わらないようにしていた。
ただ、今夜の女は少し変わっていた。父が女に話しかける声は、普段とはまるで違っていた。あんなに機嫌よく笑う父を、テオはほとんど見たことがない。
母にも、あんなふうに話してやればよかったのに。そう思いながら自分の部屋に入った。
夜中、テオは物音で目を覚ました。
最初は父が酔って暴れているのかと思った。耳を澄ませると、扉の向こうから低い呻き声が聞こえてくる。続いて、何か重いものが床に落ちる音がした。
しばらく待っても、父の怒鳴り声は聞こえてこなかった。不思議に思ったテオは寝台から降り、寝室の扉を静かに開けた。家の中は暗かったが、父の部屋からは灯りが漏れていた。テオは足音を忍ばせて暗闇を進み、半開きになった父の部屋の扉から、そっと中を覗いた。
父は床に倒れていた。服は乱れ、はだけた胸元から青白い肌が覗いていた。仰向けになった顔は血の気を失い、開いたままの目は天井を向いている。片腕が不自然に伸び、指先はぴくりとも動かなかった。
その傍らには、先ほどの女が一糸まとわぬ姿で立っていた。テオはそのあまりの美しさに目を奪われ、しばらく動くことができなかった。女はテオに気づくと、少し眉を上げた。
「あら。起こしてしまった?」
テオは答えなかった。父の胸は動かない。酒を飲みすぎて眠っているときとは違うことが、すぐに分かった。
「お父さん?」
呼んでみたが、返事はなかった。
女は父を一瞥し、特に隠そうともせずに言った。
「死んでいるわ」
テオは女を見上げた。
「あなたが、殺したの?」
「ええ」
あまりにも簡単な返事だった。女は膝を折り、テオと目線を合わせた。
「怖い?」
テオは父の顔を見た。昨日まで、あの口は母の悪口を言い、あの手は自分を殴っていた。
「……いいえ」
女は首を傾げた。
「そう?」
「はい」
テオは父から視線を外し、女の顔を見た。
「ありがとうございます」
女の笑みが止まった。
「何ですって?」
「父を殺してくれて、ありがとうございます」
テオはもう一度頭を下げた。
女はしばらく何も言わなかった。それから、喉の奥で小さく笑った。
「ふふ、変わった子ね。私はあなたのために殺したわけではないのよ」
「それでも、助かりました」
「私は食事をしただけ。あなたのお父さんが、ちょうどよかったの」
「食事?」
「そう。私は人間とは違うものを食べるの」
女は床に倒れた父を見下ろした。
「男の人から生気をもらうのよ。全部もらってしまうから、相手は死んでしまうけれど」
テオは少し考えた。
「父は、美味しかったですか?」
女は目を瞬かせたあと、声を立てて笑った。
「あははは!そんなことを聞かれたのは初めてだわ」
「すみません」
「謝らなくていいのよ。そうねえ、悪くはなかったわ。でも、お酒の飲みすぎだったみたい」
女は口元に指を当て、考えるような仕草をした。
「もっと若くて、元気な男の人の方が好きね」
テオは自分の手を見た。細い指だった。父に比べれば身体も小さく、腕にはほとんど力がない。食事を抜くことも多かったから、同じ年頃の子供より痩せているかもしれない。
「僕では、駄目ですか?」
「え?」
「食事です」
女はテオを見つめた。
「あなたを? まだ小さいじゃない」
「大きくなったら、食べられますか?」
女は笑うのをやめた。テオは真剣だった。
テオの胸は奇妙に高鳴っていた。目の前の女を見ていると頭がぼんやりして、父の死体を前にしても恐怖や悲しみが湧いてこない。女の放つ妖しい気配に惑わされているのか、理不尽な父から解放された喜びなのか、自分でも分からなかった。
この女は父を殺してくれた。それだけで十分に感謝していたし、先の見えない人生にも未練はなかった。彼女が自分を食べたいと言うのなら、喜んで差し出しても構わないと思った。
「それなら、大人になるまで待ってもらえませんか」
「何それ。それじゃ私は、あなたが大きくなるまで一緒に居ないといけないじゃない」
「はい。ちゃんと大きくなります」
「バカみたい。最後には食べられてしまうのよ?」
「分かっています」
「死ぬのよ」
「はい」
女はテオの顔を覗き込んだ。
「本当に怖くないの?」
テオは少し迷った。死ぬことがどんなことなのか、よく分からなかった。母が死んだとき、もう話すことも触れることもできなくなった。自分もそうなるのだろう。
けれど、それがいつか必ず起こることなら、今から怖がっても仕方がないと思った。
「あなたのお役に立てるなら、いいです」
女はテオの顔をじっと見つめ、しばらく考え込んだ。やがて、ゆっくりと口元を緩めた。
「面白い子ね。いいわ」
「本当ですか?」
「ええ。でも、育てるからには、ちゃんと大きくなってもらわないと困るわね」
テオの頬には父に殴られた痕がまだ残っていたが、女はそこを避けるように指先を滑らせた。
「私はモルガナ。サキュバスという魔族よ」
「サキュバス……」
「人間の男を食べて生きているの。だから、あなたも大人になるまではお預けね」
テオは頷いた。
「僕はテオです」
「テオ。可愛い名前ね」
モルガナが立ち上がると、テオはその姿をまともに見てしまい、慌てて顔を背けた。先ほどまでは何とも思わなかったのに、今になって彼女が何も身につけていないことが急に恥ずかしくなったのだ。
「どうしたの? 顔が赤いわよ」
「だ、だって、服を……」
「あら?」
モルガナはおかしそうに笑うと、指先を軽く鳴らした。すると、彼女の足元から黒い靄が立ちのぼり、身体を包み込んでいく。靄が晴れたときには、深い紫色のドレスがその身を覆っていた。
「これでいいかしら?」
テオがおそるおそる顔を上げると、モルガナはまだ笑っていた。
彼女はそのままテオに手を差し出した。
「それじゃあ、行きましょうか」
「今からですか?」
「ええ。ここに長居するわけにはいかないもの。あなたのお父さんが死んでいるのを、誰かに見つかる前にね」
テオは父を見た。床に倒れたままの父は、やはり動かなかった。
母の部屋に残してきたものが頭に浮かんだ。櫛も本も水差しも、置いていけば二度と手に取れないかもしれない。
「少しだけ、荷物を取ってきてもいいですか?」
「もちろん。でも早くしてね」
テオは駆け足に自分の衣服を数枚まとめ、母の部屋へ入る。部屋には母が読み聞かせてくれた本や思い出の品が残されていたが、旅に嵩張るものは持っていけない。
テオは窓辺に置かれた母の櫛を手に取り、しばらく眺めてから鞄の奥へしまった。
支度を終えて戻ると、モルガナの服装が変わっていた。先ほどの華やかなドレスではなく、落ち着いた色のブラウスに丈の長いスカートを合わせ、足元には歩きやすそうな革靴を履いている。街で見かける女性と変わらない装いだったが、その美しさだけは少しも隠せていなかった。
「あら、ずいぶん少ない荷物」
「これだけで大丈夫です」
「そう」
テオは靴を履き、差し出された手を取った。モルガナの手は温かかった。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。そうね、テオ」
「はい」
モルガナは楽しそうに微笑んだ。
「美味しくなってね」
テオは久しぶりに、誰かに自分の成長を楽しみにしてもらえた気がした。
「はい。頑張ります」
そう答えると、モルガナはまた笑った。




