最終話
それからも、旅を続けながら、モルガナは何度か食事を試みた。しかし、結果は変わらなかった。
以前なら三日歩いても平気だったモルガナが、今では少し長い距離を移動するだけで休みたがる。朝になっても起き上がらず、ベッドの上でぼんやりしていることも増えた。外出するときにはいつも丁寧に整えていた髪も、最近は簡単に結ぶだけになっていた。
その代わり、テオが引き受けることは増えていった。宿の手配も、買い物も、馬車の交渉も、今ではほとんど彼が行っていた。
旅を続けるためには金が必要だった。これまではモルガナが捕食した男たちから得た金で暮らしていたが、彼女が食事を取れなくなってからは、残された路銀も少しずつ減っていた。
テオは立ち寄った町で仕事を探すようになった。市場では荷運びを手伝い、宿屋では薪割りや掃除を引き受けた。農村では畑仕事を手伝い、馬車の御者に頼まれて荷物の積み下ろしをすることもあった。仕事によっては食事を出してもらえることもあり、そういう日は稼いだ金をすべて路銀に回すことができた。
初めのうちは慣れない作業に苦労したが、何度か働くうちに要領を覚え、仕事を頼まれることも増えていった。朝から夕方まで働いて宿へ戻る頃には、身体中が疲れていた。それでも、モルガナが安心して休める部屋を借り、次の町までの馬車代を用意できることが嬉しかった。
そうした生活を続けるうちに、テオの身体はますます逞しくなっていった。日焼けした顔つきにも幼い頃の面影は薄くなっていた。本人はただモルガナとの生活を守ろうと必死だったが、いつの間にか、彼女に手を引かれて旅をしていた少年は、自分の力で二人の旅を支えられるほどに成長していた。
「……ざまあないわね、私も」
「そんなこと言わないでください」
テオが笑うと、モルガナも笑った。しかし、彼女はそのあと小さく咳き込み、椅子の背にもたれた。
「姉様、横になってください」
「大丈夫よ」
「無理をしないで。今日はこのままそばにいます」
テオはベッドの掛布を整え、彼女が横になるのを手伝った。水差しを手の届く場所へ置き、窓を少し開けて風を入れる。
「あなたは? お昼は食べたの?」
「食べました」
「何を?」
「パンと、野菜の煮込みです」
「それだけ?」
モルガナは不満そうに眉を寄せた。
「もっとちゃんと食べなさい。育ち盛りなんだから」
「姉様こそ、食べないと」
「私はあなたとは違うでしょう?」
テオは返事をしなかった。買い物も仕事も覚え、以前よりずっと力もついた。それでも、モルガナが生きるために必要なものだけは、用意することができない。そのことが何より悔しかった。
やがて、二人は旅を続けることが難しくなった。
テオは町外れの森に近い場所に、小さな一軒家を借りた。人通りも少なく、周囲には木々が広がっている。古びた木造の家には寝室と小さな居間があり、台所には簡素なかまどが備え付けられていた。町までは少し距離があったが、買い物や仕事に通うことはできた。
テオは、ここが自分の最期の住処になると考えていた。
テオは明日、十五歳になる。初めて出会ったとき、自分はまだ十歳だった。
あの頃は、彼女に必要とされることが嬉しくて、自分の命がなくなることなど少しも惜しくなかった。
けれど、今は少し違う。まだ行ったことのない町も、見てみたい景色もある。これから経験したいことだって、たくさんあった。
何より、モルガナと一緒にいたかった。彼女が元気になったら、また二人で街道を歩き、次はどこへ行こうかと相談しながら旅を続けたかった。
だからこそ、テオは考えずにはいられなかった。本当は遅すぎたのかもしれない。それでも、決意を伝えるなら明日しかないと思った。
十五歳の誕生日を迎えた朝、テオはいつものように市場へ出かけた。
自分の誕生日なのだから特別な祝いをするつもりはなかった。モルガナが寝込むようになってから、日付を気にする余裕もなくなっていたし、何より彼女の食事のことが気がかりだった。
それでも、帰り道で小さな焼き菓子を見つけると、思わず足を止めた。蜂蜜の入った、丸い菓子だった。
十二歳の頃、友人たちと初めて遊ぶきっかけになったものによく似ていた。テオは一つ買い、紙に包んでもらった。
部屋へ戻ると、モルガナは起きていた。
「おかえりなさい」
「ただいま、姉様」
「今日は少し遅かったのね」
「市場が混んでいたんです」
テオは買ってきたものを机に並べた。パン、野菜、少しの肉、それから焼き菓子。モルガナは最後の包みに目を留めた。
「あら、それは?」
「昔、友達と食べたものに似ていたので」
「覚えているわ。あの町で買っていたお菓子でしょう?」
「はい」
モルガナは懐かしそうに笑った。
「あなた、あの頃は毎日楽しそうだったわね」
「姉様が長く滞在させてくれたからです」
「そうだったわね」
彼女はしばらくテオを見つめていた。
「そういえば、今日はあなたの誕生日じゃない?」
「……覚えていたんですか」
「当たり前でしょう」
モルガナはベッドから身を起こそうとしたが、途中で力が抜け、テオが慌てて支えた。
「ごめんなさいね。何も用意してあげられなくて」
「そんなこと、気にしないでください」
テオは彼女をベッドに戻し、枕を整えた。
「十五歳になったのね」
モルガナは彼の手を取った。その手は、もう彼女のものと変わらないほど大きかった。指も長くなり、手のひらには荷物を運ぶうちにできた硬い部分がある。
「最初は、あんなに小さかったのに」
彼女は嬉しそうに笑った。テオはその顔を見ながら、手を握り返した。
「姉様」
「なあに?」
「僕は、もう十分に大きくなりましたよね」
モルガナは不思議そうに首を傾げた。
「ええ。立派になったわ」
「……だから」
テオは一度言葉を切った。
ずっと考えていたことだった。それなのに、いざ口にしようとすると、喉が詰まる。
「姉様。僕を抱いて下さい」
モルガナの笑顔が消えた。テオは彼女の手を離さなかった。
「最初に約束したでしょう。僕は姉様の食糧です。」
「……テオ」
「もう子供じゃありません。身体だって大きくなったし、きっと姉様を満足させられます」
モルガナはゆっくりと首を振った。
「駄目よ」
「どうしてですか」
「あなたと寝るつもりはないわ」
「でも、姉様はこのままじゃ……」
テオは彼女の顔を見た。
「それでも……駄目よ」
モルガナの声は穏やかだった。テオはその落ち着いた声に、かえって腹が立った。
「でも!」
あまりの感情に言葉がつかえる。
「僕を……食べるために育てたんでしょう!」
声が大きくなった。
「最初からそういう約束だったじゃないですか! 僕はそのつもりで、ずっと姉様と一緒にいたんです!」
モルガナは黙っていた。
「姉様がその気がなくても、僕は姉様を抱けます!」
テオはそう言ったものの、その言葉が、自分のものとは思えなかった。
テオはモルガナを両手首を掴むとベッドに足をかけた。引き寄せたはずの身体は、拍子抜けするほど軽く、その両手首は思ったよりか細かった。
弱っているとはいえ、モルガナはサキュバスだった。至近距離にある首筋は、男なら食らいつきたくなるほど滑らかで、白い肌の下を流れる血の気配まで感じられるようだった。
しかし、テオはそのまま動けなかった。
灯りの影が、横たわるモルガナの顔にかかっていた。彼は初めて、モルガナを見下ろしていた。あの頃は、いつも自分が見上げていた。歩けなくなれば手を引かれ、眠くなれば抱き上げられた。その手が、今は自分の掌の中で、力を失って横たわっている。
強く言えばいいと思っていた。無理にでも頷かせれば、彼女は死なずに済むと思っていた。なのに、全く言葉が出なかった。握った手が震えたのは、モルガナではなく、彼の方だった。
モルガナは抵抗しなかった。暴れることも、彼の名を呼ぶこともなく、ただ静かに彼を見上げていた。そして、一呼吸おいて、冷静に言った。
「やめなさい」
テオは動かなかったが、返事も返さなかった。
「……僕は、姉様に死んでほしくないんです!」
ようやく言葉を絞り出すと、モルガナは目を伏せた。
「ありがとう、テオ」
テオは彼女の手を強く握った。
「僕が死ぬのが嫌なんでしょう。だったら、僕だってあなたが死ぬのは嫌だよ」
モルガナは何も答えなかった。
「僕だけ生き残って、どうしろっていうんですか。姉様がいなくなったら、僕は……」
言葉が続かなかった。モルガナが少し動こうとすると、手首は離された。そして手を伸ばし、彼の髪を撫で続けた。
「ほら、ここにきて。隣に」
テオは動かなかった。
「お願い」
モルガナは少しだけ身体をずらし、ベッドの端に場所を空けた。テオはその意味を理解したが、すぐには従えなかった。今、彼女の隣に横になれば、もう何もできなくなるような気がした。
けれど、モルガナは彼を待っていた。テオはゆっくりとモルガナの隣に横たわった。
モルガナは微笑んだ。
「抱きしめてくれる?」
もう大人になったつもりでいたのに、テオの涙は止まらなかった。それでも、唇を噛みしめて、声だけはどうにか押し殺していた。
テオは彼女の隣に横になり、痩せた身体をそっと抱き寄せた。モルガナは小さく息をつき、彼の胸元に顔を寄せた。
「あら……」
彼女は驚いたように笑った。
「こんなに大きくなっていたのね」
テオの呼吸が少しずつ落ち着くのを待ち、彼女はもう一度顔を上げた。
「テオ」
「……はい」
「顔を見せて」
テオは涙を拭い、彼女を見た。
モルガナは出会った時のように、微笑んだ。モルガナはテオの頬に手を添えた。
「あなた、とっても美味しそうね」
テオは息を止めた。そして、その指先が、ゆっくりと頬を滑り落ちた。
落ちていく指先は、水に溶けるように輪郭を失い、途中で淡く透けていった。
「……姉様?」
返事はなかった。
テオは彼女の手を取り、もう一度頬に当てた。その手には力がなく、掴んだはずなのに、水を掬うように指の間から存在だけが零れていく。
「姉様」
モルガナの目は、まだ彼を見つめていた。しかし、その瞳はもう動かなかった。水に一滴の墨を落としたように、その色がゆっくりと周囲へ滲み、薄れていく。
テオは彼女の消えゆく身体を抱き寄せた。
「……モルガナ」
初めて名前を呼んだ。返事はなかった。
彼女の身体は、まだ温かく感じた。けれど、その形は腕の中でふやけていった。体の線も、髪の流れも、水に溶けるように曖昧になり、重さだけが少しずつ抜けていく。テオはその温もりが失われていくのを、ただ抱きしめていた。
やがて、腕の中はからっぽになった。
テオは、しばらく動けなかった。モルガナを抱きしめていた腕は宙に浮いたままで、指先にはまだ彼女の肌の感触が残っていた。
やがて腕を下ろすと、全身から力が抜けた。
ベッドの端に仰向けになったまま、テオは自分の手を見つめた。荷運びで硬くなった掌も、太くなった腕も、何の役にも立たなかった。仕事を覚え、身体も大きくなり、ようやく彼女を支えられるようになったと思っていた。それなのに、最後までモルガナを満たすことさえできなかった。
何かを考えようとするたび、彼女の最後の声が耳の奥によみがえった。つい先ほどまで、自分の腕の中で話していたのだ。あのとき、もっと強く抱きしめていれば。何か別の言葉をかけていれば。そんな考えが浮かんでは消え、そのたびに、もう何をしても届かないのだと思い知らされた。
テオはモルガナを愛していた。彼女のためなら命を差し出すことさえ惜しくなかった。けれど、その想いに返されたのは、彼が望んだ形の愛ではなかった。自分が生きていることこそ、彼女が最後まで譲らなかった願いだった。それが分かるほど、胸の奥が締めつけられた。
ふと、机の上に置かれた櫛が目に入った。モルガナが毎朝、長い髪を梳かすのに使っていたものだった。立ち上がろうとしても膝に力が入らず、テオはベッドに手をついて、ようやく机まで歩いた。櫛を握ると、木の歯が掌に食い込んだ。
つい今朝も、彼女はこれを使っていたのだろうか。そう思ってベッドを振り返ったが、そこには乱れた寝具が残っているだけだった。
テオは荷物の中からもう一本の櫛を取り出した。幼い頃に亡くした、母の形見だった。
二本の櫛を並べた途端、喉の奥から声にならない息が漏れた。母の顔も、今では記憶の中でぼやけている。モルガナの声や手の温もりも、いつか同じように思い出せなくなるのだろうか。そう考えると、テオは二本の櫛を握りしめずにはいられなかった。
自分は結局、二人の母親に生かされたのだ。どうして、そこまでして生かしてくれたのだろう。二人が守ってくれた命で、自分はこれから何をすればいいのだろう。
今はまだ、何も分からなかった。ただ、いつかその意味を知りたかった。そうでも思わなければ、明日を迎える理由さえ見つけられそうになかった。
テオは二本の櫛を大切に荷物へしまった。目についた荷物を乱暴にまとめ、立ち上がると足元がふらついた。窓の外には、森へと続く道が見えていた。
テオは小さな家を出て、扉を閉めた。行き先も決めず、旅の準備も何ひとつ整えていなかった。
それでもテオは、森へ続く道を一人で歩きだしていた。




