第9怪 呪いの人形編⑥
腕の中で抱きしめていたアリスの体が、生きている人間のような熱を帯び始めた。
ーードクン、ドクン
冷たいプラスチックや着ている服の質感だったはずの彼女から、私の心臓の音と重なるように、力強い鼓動が伝わってくる。
それは、長い時を経てようやく再び通じ合った、魂の共鳴のようだった。
私が「呪いの人形」だと恐れ、突き放してしまった彼女は、それでもずっと私を、そして私の愛しい子を守ってくれていた。
バチンッ!
まるで鞭が空気を切り裂いたような、凄まじい音が部屋に響き渡る。
私の喉を締め付け、心臓を凍りつかせ、呼吸を奪っていた「見えない何か」が、強引に引き剥がされる。
「はっ、……ごほっ! はぁはぁ……っ!!」
肺に冷たい、けれどこの上なく愛おしい空気が流れ込む。私は激しく咳き込みながら、涙で霞む視界を無理やりこじ開けた。
次の瞬間、アリスの瞳が、これまでとは違う、意志を持った鮮烈な光を放っていた。
それはもう、「曇ったガラス玉」ではない。邪悪を射抜く、高潔な『瞳』だ。
アリスの金髪が、我が子を害そうとした底知れぬ悪意に激昂するように逆立つ。
その一本一本が、この世の何よりも神々しい輝きを放ち、部屋の闇を白日の下に晒していく。
ボロボロに引きちぎられていたはずの髪が、瞬時に編み上げられ、収束していく。
そしてそれらが一本一本と絡み合い、鋭利な黄金の槍となって、私を苦しめていた空間の「何か」を正確に貫いた。
〈ギ、ギャアァァッ!!〉
虚空から、この世のものとは思えない、耳を劈く悲鳴が上がる。
ふと気づけば、小さな背中で私と赤ちゃんを庇うように立つアリスの姿があった。
黄金の髪を炎のように揺らめかせ、彼女は部屋の隅にうごめく「真っ黒な影」を、その鋭い眼光で射抜いている。
「……アリス……」
震える声でその名を呼ぶ。
私の掠れた声に応えるように、アリスがゆっくりと振り返った。
アリスは一度だけ、優しい微笑みを浮かべると、私の頬を伝う涙を金色の髪の先で、そっと、慈しむように拭ってくれた。
ああ……アリス。あなたは、あの日から、ずっと私を愛してくれていたのね。
再び敵へと向き直るアリスの背中は、誰よりもどんな背中よりも頼もしく思う。
アリスの小さな手が、虚空を掴み取るように突き出される。
刹那、部屋中に散らばっていた黄金の髪が、嵐のように渦を巻く。
彼女の意志に応えるように、散らばった金糸の髪一本一本が蛇のようにうごめき、未だ姿の見えない「怪物の体」に絡みついて、その輪郭を強引に縛り上げていく。
バヂバヂッ、と激しい火花が散り、部屋全体が震動する。
アリスの守護の力が、怪物の放つ冷気を焼き切り、力強く押し返していく。
昨夜までは一方的に削られるだけだったアリスの髪が、今は猛然たる攻勢に転じ、見えない怪物を部屋の隅へと追い詰めていた。
「よっしゃ! そのままそいつを封じ込めたれ!!」
背後から、あの探偵さんの鋭い激が飛ぶ。アリスは当然と言わんばかりに自らの髪を払う仕草を取ると、頷いた。
彼女が祈るように両手を合わせると、黄金の髪が怪物を完全に包み込み、巨大な光の檻を作り上げる。
その光が、部屋の隅でのたうち回っていた「何か」の正体を、残酷なまでに照らし出した。
そこにいたのは、真っ黒な靄、無数の触手を持つ歪な胎児のような輪郭。
我が子の、そして母親である私の絶望を喰らい、命の灯火を奪おうとしていたーーおぞましい怪物の真の姿だ。
実体化した怪物は、黄金の檻の中で断末魔のような叫びを上げている。
アリスの髪の毛一本一本が、キリキリと怪物の身体を締め上げ、その存在そのものを否定するように光り輝く。
「……ようやく、面の皮を拝めたな。臆病者」
背後でずっと静かに「その時」を待っていた探偵さんが、獰猛な笑みを浮かべて一歩前へ出た。
その手にはまるで凶器のように塩、そして御札が握られている。
アリスは自らの役割を果たしたというように、一度だけ力強く髪をなびかせると、怪物の動きを完全に封じ込めたまま、静かに私たちの前へと降り立った。
「落とし前は、きっちり付けさせてもらうで」
探偵さんはミントタブレットを口に放り込み、ゴキリ、と骨を砕くような音を立てて噛み砕いた。
彼女の視線の先には、黄金の檻の中で逃げ場を失い、怒りに震える怪物の姿。
私は、アリスが守ってくれた我が子を抱きしめ、祈るような心持ちで、彼女たちの背中を見つめ続ける。




