第10怪 呪いの人形編⑦
「……ようやく、面の皮を拝めたな」
杏子さんの低く、地を這うような声が室内の空気をビリビリと震わせた。
アリスが放つ黄金の残光に焼かれ、これまで僕たちの目から逃れ続けていた怪異ーー『アンブレス』が、ついにその醜悪な姿を現した。
それは真っ黒な靄を煮詰めたような質感で、無数の触手を生やした歪な胎児の形をしていた。
その顔には目も鼻も耳もなく、ただ巨大な「裂け目」のような口だけが、獲物を求めて細かく震えている。
13chのスレッドで読んだ『赤ん坊の呼吸を止める怪物』という記述が、最悪のリアリティを伴って僕の網膜に焼き付いた。
〈ギギッ、オギャア!!〉
正体を暴かれた怪異は、鼓膜を突き刺すような不快な産声のような声を上げて激昂した。
そして鞭のようにしなる数多の触手が空を切り、アリスが紡ぎ上げた黄金の檻を力任せに千切り、崩していく。
アンブレスは僕たちの接近を拒絶するように、ずるりと部屋の影へ潜り込もうと身をよじらせた。
その執拗な殺意は、未だ佐々木さんの赤ちゃんの喉元を、呼吸を、ねっとりとした悪意で執拗に狙い定めているのが分かった。
けれど、同じ怪異でもあるアリスには、その姑息な逃走経路も醜悪な意図も、すべてが手に取るように「視えて」いた。
『ーー逃がさないわ!』
アリスの怒りに呼応し、神々しい輝きを放つ彼女の髪が、意志を持つ鎖となって空間を駆けた。
それは物理的な法則を無視した速度で、アンブレスの四肢を、胴体を幾重にも縛り上げていく。
黄金の糸に絡め取られ、光に焼かれながら逃げ場を失った怪異の輪郭が、逃れようのない標的として室内に固定される。
その中心で、アリスは一歩も引かずに立ち続けていた。
僕は、その小さくも頼もしい背中に、かつて佐々木さんが彼女に注いだ愛情の強さを見た気がした。
「ええ加減諦めぇ。おまえはここで終わりや!」
杏子さんが、満を持してついに動いた。
襲いかかる黒い触手を無造作な手つきで払いのけ、アンブレスに一歩また一歩と歩み寄る。
その一歩ごとに、床が軋み、部屋の空気が圧縮されていくような凄まじい威圧感。
普段の競馬雑誌を読んでいた、あの自堕落な姿はどこにもない。そこにあるのは、人知を超えたものを屠るために研ぎ上げられた「覚悟」そのものだった。
杏子さんの両手には、事務所から持参した大量の清め塩と、御札が直接握りしめられていた。
理屈も概念も、ただの純粋な物理によって粉砕する。
彼女だけに許された、あまりにも強引で、あまりにも美しい「暴力」の極み。
「どらあああッ!!」
弓のように引き絞られた右腕、それをアリスによって固定され、身動きが取れないアンブレスに渾身の正拳突きとして叩き込んだ。
〈ギギャッ!? アアアアァアアアアン!〉
赤ん坊のように、甲高い声で泣くような悲鳴を上げるアンブレス。だけど今はそこに可哀想といった感情や同情は一切浮かんでこない。
「じゃかましい! 散々子供の命奪っといて、己の命奪われへんと思うなや!!」
杏子さんは、更に左腕を引き絞り、アンブレスをに左正拳突きをお見舞いする。
〈ギャウッ!!〉
「見えさえすれば、シバき回すのは赤子の手ぇ捻るようなもんや」
次は右正拳突き
「ギャブッ!」
「まだまぁ行くぞボケッ!」
左正拳突き、右正拳突き
「オラオラオラオラッ!!」
左正拳突き、右正拳突き、左正拳突き、右正拳突き、左正拳突き、右正拳突き、左正拳突き、右正拳突き
重機の高速ピストンのように交互に繰り出される正拳突きの嵐。
叩き込まれる拳の風圧で、握り締めた塩が零れていき弾け飛ぶ。それはまるで、熱を帯びた拳から立ち昇る白煙のようだった。
〈オギギュギュッ!?〉
「これで最後や、私がお前の『息の根』止めたる」
止めに、床を踏み抜く勢いで、しっかり踏み締めた渾身の右正拳突き。
「押忍ッ!!」
ーードォォォォンッ!!
住宅街の一軒家とは思えない、空気が爆ぜるような凄まじい衝撃音が響いた。
アンブレスの身体が、巨大な重機に打たれたかのように「く」の字に折れ曲がる。
〈ギャゥアあああアアあ!?〉
悲鳴とも断末魔ともつかない叫び。
壁に激突し、床へとずるりと崩れ落ちる怪異。もはやその輪郭を保つ力すら、杏子さんの一撃によって根こそぎ奪い去られていた。
〈オギ……ア、お、母さ……〉
最後にかすかな、けれど吐き気を催すほど幼く歪んだ声を残し、怪異は黒いインクが水に溶けるように、朝の光が差し込み始めた影の中へと沈んで消えた。
その直後。
部屋を支配していた、あの肺にまとわりつくような重苦しい不快感は、嘘のように霧散していった。
窓の外からは、夜明けを告げる鳥の声が聞こえてくる。
僕は、その場にへたり込んでしまった。
全身の力が抜け、心臓の鼓動だけが異常にうるさく耳に響く。
隣では、佐々木さんが涙を流しながら、ぐっすりと眠る赤ちゃんを、そしてボロボロになったアリスを、胸が張り裂けんばかりに抱きしめていた。
アリスは、もう動かなかった。
けれど、その小さな頬は朝日に照らされ、どこか満足げに微笑んでいるように見えた。
「……終わったな、蓮。えらい顔しとるで」
杏子さんが、気怠げな表情で僕を見下ろしていた。
拳に巻かれていた御札はボロボロに焼け落ち、彼女の周囲にはミントの香りが微かに漂っている。
「……はい。凄かったです、杏子さん。それと、アリスも」
僕は、アリスの金髪が朝露のようにキラキラと輝くのを眺めながら、ようやく深く、本当の呼吸をすることができた。
これが、僕が足を踏み入れてしまった怪異の世界。
そして、怪異探偵事務所としての、僕の最初の仕事の終わりだった。




