第11怪 呪いの人形編⑧ 完
あの嵐のような戦いが終わり、部屋には窓から差し込む朝の光とともに、本来あるべき静寂が戻っていた。
杏子さんは、佐々木さんから手渡された依頼料の入った封筒を、淡々と受け取る。
「……これで一件落着や。まぁ今旦那さんが家におらへん中、お宅も大変やと思う。せやけどあんま無理はせんときな。私でよければ、いつでも相談には乗るわ」
その言葉に、佐々木さんは何度も、何度も深く頭を下げた。
彼女の腕には、安らかな寝息を立てる赤ちゃんと、ボロボロになりながらもその役目を果たし、今はもう物言わぬ人形に戻ったアリスがいた。
大切な宝物を扱うように二人を慈しみ、抱きしめる彼女の瞳には、昨夜までの怯えは微塵もなかった。
そこにあるのは、愛する者を守り抜く決意を固めた、一人の強い母親の瞳だ。
きっともう、この人は大丈夫。
僕はそう確信し、静かに微笑んだ。
「ありがとうございました。本当に……」
涙を拭いながら見送る佐々木さんの家を後にし、僕たちは短くも長かった夜を越え、日常へと続く眩しい家路についた。
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私を腕の中で大切に抱きしめる、かつての「小さな女の子」。
あの頃、私の髪を飽きることなく梳かしてくれた柔らかな指先は、今、自らの身を投げ出して新しい命を守り抜くほどに強く、逞しくなっていた。
その凛とした横顔は、もはや私など必要としない、立派な「お母さん」のそれ。
貴女は、守られるだけの、あの頃の子供じゃないのね。
この子にはこれから、怪異も、恐怖も、理不尽な悪意も届かない、穏やかで幸福な人生を歩んでほしい。
だからこそ、私はここに居てはいけない。私という「異物」が傍に在り続けることは、怪異との繋がりを残してしまうということ。そして彼女が自らの足で歩み、強くなる機会を私がまた奪ってしまうかもしれない。
本当は、分かっていた。
救っているつもりで、救われていたのは私の方だったのだ。私は、彼女が注いでくれる無垢な愛情に、その温もりに、ただ甘えて依存していただけだった。
「貴女はもう、立派なレディになったのね……」
誰にも聞こえないほど小さな、さよならの代わりに零れ落ちた言葉。
彼女が赤ちゃんーー友莉を寝かせるために、ほんの一瞬だけ私を置いて部屋を離れた隙に、私は音もなく部屋を抜け出し、開いた窓から外の世界へと身を踊らせる。
「私の大切な親友の絵里。私の小さな宝物の友莉、さよなら」
本当はずっと見守りたい、本当はずっと一緒に居たい。だけどこの子達を本当に想っているのならこうするべきなの。
「今まで楽しかったわ。本当に楽しかった。貴女達はずっとずっと、幸せにね」
風にさらわれたその声が、二人に届かないのは分かっている。
私は一度だけ、思い出の詰まった柔らかな朝の光に照らされる家を振り返ってしまった。
それからボロボロになった自らの髪をなびかせながら、人目に付かないよう路地の影へと進む。
雨なんて降りようのない、燦々《さんさん》とした晴天だというのに。
どうして、人形であるはずの私の頬が、こんなにも濡れているのかしら。
「ああ、そうよね。きっとさっき、絵里が泣きながら私を抱きしめたから。その時の涙が、私の頬にこびり付いて離れないだけ……そうよ、そうに決まってるじゃない」
理由なんて、知らないんだから。
知らないんだから。
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二日間にわたる極限状態、そしてあの『アンブレス』との死闘が明け、世界には白々とした、けれど力強い朝の光が満ちていた。
「タバコ♪ タバコ♪」
「あはは、そういえばずっと我慢してましたね」
佐々木さんの家を後にした僕たちは、開店したばかりの駅前の立ち食い蕎麦屋へ転がり込んだ。
「旨いなぁ、温まるなぁ」
「……美味しい」
早朝の澄んだ空気に混じる、立ち昇る湯気と濃いめの出汁の匂い。啜り込む熱が、徹夜明けのガタガタな身体に、ようやく自分が「日常」に戻ってきたという実感を運んできてくれた。
その後、僕たちは駅の裏手にある、朝風呂営業をしている古びた銭湯へと向かった。
「ほなまた後でな~」
杏子さんと番台の前で別れ、男湯の暖簾をくぐると、高い天井に響く桶の音と、立ち込める石鹸の香りが僕を包み込む。
熱い湯船に肩まで浸かると、毛穴のひとつひとつに染み付いていた、あの怪異のねばつくような冷気と恐怖が、じわじわと溶け出していくようだった。
銭湯のロビーに向かうと、杏子さんはすでにコーヒー牛乳を片手に、濡れた髪を無造作に拭いていた。湯上がりの少し上気した彼女の姿に、なぜか、心臓が少しだけ高鳴るのを感じた。
「ふぁ~、身体も頭もスッキリやわ。初仕事お疲れさん!」
「あっ、ありがとうございます。杏子さんも、お疲れ様でした」
銭湯を出ると、朝の柔らかな風が湯上がりの肌に心地よく吹き抜けた。
街はすっかり目を覚まし、駅へ向かう通勤客や、開店準備を始める商店の活気に満ち始めている。昨夜までの、肺に泥が詰まるような息苦しさが嘘のように、世界はひどく無機質で、それでいて眩しいほど「正常」に見えた。
「……さて。腹も膨れたし、ひとっ風呂浴びて厄落としも済んだ。帰って爆睡といきたいとこ……やけど」
前を歩いていた杏子さんが、不意に足を止めた。その視線は、眩い朝日が降り注ぐ表通りではなく、建物の隙間にひっそりと横たわる、陽の光さえ届かない薄暗い路地裏に向けられていた。
「……ちょっと寄り道するわ」
杏子さんはタバコに火を点けると、迷いなくその陰の中へ踏み込んでいった。
「杏子さん? どうしたんですか?」
慌てて後を追うと、湿ったコンクリートの匂いが鼻を突いた。ゴミ捨て場の隅、放置された段ボールの隣にーー彼女はいた。
アリスだ。
「……そんなところで、何をしてるんですか?」
絞り出すような僕の声に、アリスは答えなかった。
限界を超えて引き出した代償なのだろうか。
月明かりを吸い込んだようだったあの美しい金糸は、ボロボロに荒れ果て、かつての気品は見る影もない。
明るい朝日の影で見るその姿はあまりにも痛々しく、誇り高かったはずの彼女が「捨てられた物」のように佇んでいることに、僕は胸を締め付けられた。
杏子さんは煙をゆっくりと吐き出し、不器用な、けれど温かい笑みを浮かべてアリスを見下ろした。
「自分、なかなか根性ある人形やん。気に入ったわ」
杏子さんは腰を下ろし、アリスに話し掛ける。
「行き場ないんやったら、アンティーク家具として事務所に置いたるで」
「はぁ!? この高貴な私に向かってアンティーク家具だなんて、ふざけないでもらえるかしら?!」
アリスはたまらず声を荒げ、杏子さんに向かって小さな手をブンブン振り回しながら怒鳴った。
「不満か? せやけどな、そんなボッロボロの頭じゃ、どこに行ったって笑われるだけやぞ……その髪の毛、蓮にトリートメントで手入れさせたる。なぁ? 悪い話やないやろ?」
『トリートメント』という単語に、アリスの動きが止まった。
彼女は僕をちらりと見上げ、それから不満げに、けれどどこか照れ隠しのようにそっぽを向いた。僕もそっと膝をつき、地面に座り込む彼女に両手を差し出した。
「……行こう、アリス。その髪を僕に綺麗にさせてよ。その後で事務所に居るかどうか、考えても良いんじゃないかな?」
僕が差し出した両手を見つめ、アリスはしばしの間、じっと動かなかった。焦げたように傷んだ金糸の奥で、彼女の瞳が揺れる。
「……フン、そこまで言うなら、考えてあげなくもないわ」
アリスはふいっと顔を背け、これ以上ないほど不機嫌そうな声を絞り出した。
「勘違いしないでよね。あなたたちのしょぼい事務所とやらに、この私が華を添えてあげようって言ってるの。それと……その、トリートメントは、私に相応しい最上級のものを用意しなさい。分かったわね!」
「……はい。約束します」
僕が苦笑いしながら頷くと、彼女は僕の腕の中へ、すとんとその小さな体を預けてきた。
抱き上げると、想像していたよりもずっと軽かった。けれど、そこには佐々木さんとその赤ちゃんのことを命懸けで守り抜いた、重厚な『意志』が確かに宿っている。
「決まりやな。ほな、さっさと帰って寝よか……蓮、その『家具』落とさんようにしっかり抱えときや」
杏子さんは満足そうに鼻を鳴らして立ち上がると、朝の光が踊る大通りへと歩き出した。
「家具じゃないって言ってるでしょ! この品性の欠片もない暴力女!!」
腕の中でアリスがギャーギャーと騒ぎ立てる。その賑やかさが、かえって僕の心を解きほぐしてくれた。
振り返ると、路地裏の湿った闇の先、小さく見える佐々木さんの家が白く輝いているのが見える。
「……行こうか、アリス」
「……ええ。しっかりエスコートなさいよ。坊や」
朝の街に、僕たちの影が長く伸びる。
新しい『仲間』を抱えて歩く帰り道は、朝の空気に似て、どこまでも軽やかだった。




