第8怪 呪いの人形編⑤
昨夜は本当に信じられない光景が、私を襲った。
「佐々木さん……この人形で、子供の頃に遊んでた時のことを思い出せますか?」
眠りから目覚めた後、助手さんからの静かな問いかけに、私は膝の上でボロボロになったアリスを見つめた。
金色の髪は引きちぎられ、かつての気品は見る影もない。
けれど、そのガラス細工の瞳をじっと見つめていると、心の奥底で凍りついていた何かが、ゆっくりと溶け出していくのを感じた。
この子は、おばあちゃんがくれた世界で一番大切な宝物であり、友達だった。
寂しい時も、泣いていた時も、いつだって私の隣にいてくれた。優しくて、物静かで、大好きな友達。
あの子が生まれてから、私は育児という終わりのない迷路で余裕をなくしていき、あんなに大切だったこの子を「不気味な呪いの人形」だなんて思い込んでしまった。
「アリスは、ずっと佐々木さんと、そのお子さんを守ろうとしてたんですよ。今も、自分の身を削りながら」
蓮くんの優しい声が、私の醜い心を洗い流していく。
視界が涙で滲む。おばあちゃんの温かい笑顔、アリスの柔らかな金髪を何度も梳かしてあげた記憶。
私は堪らなくなって、夢中でアリスを抱きしめた。
その瞬間、腕の中の小さな体が、一瞬だけ生きている人間のように熱を帯び、ドクンと鼓動したように感じたのは気のせいだったのだろうか。
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ーー運命の深夜二時。
今日は眠らずに、探偵さん達と一緒に子供を見守る。
静寂は、昨日よりもさらに鋭く、逃げ場のない殺意を連れてきた。
姿は見えない。けれど、確実に「それ」はそこにいる。
部屋の温度は氷点下まで叩き落とされたかのように凍りつき、肺の奥までねばつくような、どろりとした冷気が私を包み込む。
〈ギギギッギィ……〉
耳を塞ぎたくなるような、この世のものとは思えないおぞましい呻き声が、暗闇のあちこちから反響する。
次の瞬間、腕に抱いていたアリスが弾かれたように私から離れ、ベビーベッドへ飛び移った。
爆発するように広がった金色の髪が、我が子を守る光の繭になる。
けれど、目に見えない怪物の攻撃は、昨日とは比べものにならないほど苛烈だった。
バヂバヂッ!!
激しい音を立て、アリスの髪が引きちぎられていく。
何かに叩かれているかのようにアリスの体が震え、その瞳から絶望の色が漏れる。
守りの繭が、刻一刻と薄くなっていく。
「昨日よりも力が上がってるぞ! このままやと、じきにアリスの髪が持たへんなる!」
「塩も全く効きません! 杏子さん、どうすれば……!」
二人の叫び声が遠くに聞こえる。
あの子の喉元へ、空間を歪ませながら半透明のおぞましい「指のようなもの」が伸びるのが見えた。
数本の金色の髪の毛が、千切れそうになりながら必死に「それ」に絡み付き、進攻を止めている。
その時だった。私の脳裏に、あの日が鮮烈に蘇った。
公園でいじめられて、アリスを抱き締めながら泣きじゃくっていた幼い私。その目の前で、私をいじめていた男の子たちが、何もないところで何度も派手に転んだあの日。
あの時、転んだ子の足首に罠のように絡みついていたのは、今と同じように夕日に輝く金色の、細い髪の毛だった。
(……アリス。あの時からずっと、あなたは私を守ってくれていたんだね)
さらに、人生で一番幸せだった日の記憶が過った。
新しい命が宿ったことを知った日。誰より何よりも先に報告したのは、部屋の椅子に座っていたアリスだった。
『ねぇ、アリス聞いて! 私、お母さんになるのよ!』
興奮で震える手でアリスの小さな手を握り、私は夢中で語りかけた。
『あぁ、私がお母さんになるなんて信じられない! この子をちゃんと守ってあげられるか不安…うぅん、守り抜くの、私! アリスも私と一緒に、この子を守ってあげてね』
それは、喜びと不安の中で交わした、あの日のかけがえのない約束。
アリスは、私が忘れてしまっていたあの時からずっと、私との約束を、たった一人で守り続けてくれていたのだ。
「ごめんね、アリス……約束を忘れていたのは、私の方だった……!」
私は叫んでいた。喉が張り裂けるほどの声で。
「アリスは、呪いの人形なんかじゃないわ!! 私の大切な、たった一人の友達よ!!」
私は自分の身を投げ出すように、ベビーベッドに覆いかぶさった。
愛しい我が子と、ボロボロになった親友を、この体ですべて抱きしめるために。
その瞬間だった。
目に見えない冷たい「何か」が、私の喉を、心臓を、直接掴み取ったような感覚に襲われた。
「か、は……っ!?」
空気が吸えない。肺が酸素を求めて悲鳴を上げているのに、喉の奥を冷たい泥で塗り固められたように、一欠片の空気も入ってこない。
目の前が白く爆ぜ、意識が遠のいていく。
けれど、ここで私が退けば、あの子が殺される。アリスが壊される。
(……死なせない。この子も、アリスも……!)
薄れゆく意識の中で、私は必死に、腕の中の小さな二つの鼓動を強く抱きしめた。
私の涙が、アリスの頬にこぼれ落ちる。
その時だった。
『……本当に、世話の焼ける子なんだから』
腕の中からかすかな、けれど凛とした確かな声が聞こえた。
抱きしめていたアリスの体が、生きている人間のように熱を帯び、ドクン、ドクンと私の鼓動に共鳴し始めた。




