第6怪 呪いの人形編③
夜が更けるにつれ、昼間に玄関先で感じたあの「ねっとりとした不快感」は、逃げ場のない霧のように家全体を侵食していった。
それはまるで、この家の酸素が少しずつ、目に見えない悪意ある泥に置き換わっていくような感覚だ。
佐々木さんには、杏子さんの強い勧めで、いつも通り人形と一緒に寝室で休んでもらうことになった。
僕と杏子さんは、暗い子供部屋の隅に陣取り、息を潜めて「その時」が来るのを待つ。
カチ、カチ、カチ……
壁掛け時計の刻む音が、まるで時限爆弾のカウントダウンのように、僕の鼓動を不自然に早めていく。
隣に座る杏子さんは、暗闇の中でも獲物を待つ豹のように静かだ。
ーーそして、深夜二時。
僕は、暗闇でスマートフォンのバックライトを最小にし、杏子さんから頼まれていた「怪異の正体」を執拗に追い続けていた。
指が震え、画面の青白い光が僕の顔を不気味に浮かび上がらせる。そこで、僕は一つの、あまりにも状況に合致しすぎる13chのスレッドを見つけた。
『乳幼児突然死の真相を考察する件について』
「杏子さん……このスレ、見てください。もしかして、これ……」
僕が声を震わせながら画面を差し出そうとした、その時だった。
「……来たで。蓮、油断すんなよ」
杏子さんが突然、地を這うような低く鋭い声で言った。
直後、部屋の温度が肌を刺すほどに急降下した。
これまで感じていた「ねっとりとした不快感」が、今度は肺の奥まで突き刺さるような冷気に変わる。
次の瞬間だった。
隣の寝室にいたはずの西洋人形ーーアリスが、音もなく、物理法則を無視した軽やかさでベビーベッドの柵の上に降り立っていた。
(いつの間に!?)
驚く僕の目の前で、アリスが小さな指先を振った。
刹那、彼女の頭から溢れる金糸の髪が、ザワザワと生き物のように爆ぜて広がる。
それはまるで、意思を持つ光の奔流だ。金色の髪は赤ちゃんを包み込むように円を描いて旋回を始め、瞬く間に美しい球状の物体へと姿を変えた。
「人形が消えたわ!? えっ、嫌ぁぁ! やめて!!」
寝室での異変を察知し、半狂乱で飛び込んできた佐々木さんが叫ぶ。
彼女の目には、人形が赤ちゃんを飲み込もうとしているように映ったのだろう。杏子さんが、突進しようとする彼女を片手で制した。
「動いたらあかん! 邪魔したら死ぬで!」
「でも、あんな……髪が、あの子を飲み込もうとして……!」
「違う、よく見てください!」
僕の叫びに、佐々木さんの動きが止まった。
激しく旋回するアリスの髪は、赤ちゃんを締め付けているのではない。
赤ちゃんの柔らかな体から数センチの絶妙な距離を保ったまま、外界からの干渉を一切遮断する、完璧な守護の「繭」を作り上げていた。
つまり黄金の糸は、ただの一本も、赤ちゃんの肌には触れていない。
「……触れて、ない……?」
「せや。あれは攻撃やない。外側から来る『何か』から、あの子を守るための防壁や」
杏子さんが言い終わると同時、何かを引きちぎる音が部屋に響き渡った。
ブヂブヂブヂッ!!
何もない空中から、目に見えない「何か」がアリスの髪を激しく引きちぎり始めたのだ。まるで、見えない獣が強欲に赤ちゃんへ手を伸ばそうとしているかのようだ。
「くそ、全く姿が見えへん! どこから攻撃しとんねん! 蓮、どや!? 見えるか!?」
「杏子さん、すみません! 僕も、全く……!」
正体不明の怪異は、その輪郭すら僕たちの瞳に映さない。
ただ、アリスの金糸が強引にむしり取られ続け、火花のように宙に舞い散る光景だけが、そこに「絶対的な悪意」が実在することを証明していた。
黄金の守りが削り取られるたびに、隙間から赤ちゃんの無防備な寝顔が覗く。そのたびに、僕の心臓は握りつぶされるような痛みを覚えた。
「どりゃあ!」
杏子さんが防壁の前に飛び出し、空気を切り裂く鋭い手刀を繰り出した。しかし、彼女の必殺の一撃は虚しく空を切る。
「手応えがまるで無いわ! くそ、どないしたらええんや!?」
「杏子さん! 塩、塩はどうですか!?」
「やってみるか!」
杏子さんは事務所から持参していた清め塩の袋を破り、ベビーベッドの前へ激しく撒き散らした。だが、塩は虚しく床に落ちるだけで、敵を捉えることはできない。
「効いてんのかこれ!? 見えへんからさっぱり分からへん!」
僕も必死に御札を構え、闇を薙ぐように振るったが、手応えは皆無だ。
隣で腰を抜かした佐々木さんは、もはや震える声すら出せず、ただ涙を流して絶望に耐えていた。
怖い。姿形が分からないことが、これほどまでに恐ろしいとは。
自分が狙われている訳でもないのに、膝の震えが止まらない。こんなのを相手にただの人間が勝てるはずがないのだ。
今も、アリスの金糸は激しく散らばり続けている。彼女の瞳には、かつて見た嘲笑の面影はなく、ただ必死に大切なものを守ろうとする決意だけが宿っているように見えた。
もしこの髪の繭が消失した時、あの子は一体どうなってしまうのだろう。
「蓮、ビビるな! ビビったらあいつらの思うつぼや言うたやろ!!」
杏子さんの叱咤が、僕の思考を無理やり現実に繋ぎ止めた。彼女は決して諦めていなかった。鋭い眼光で周囲を睨みつけ、再度、残りの塩を力一杯に投げつけた。
指先から溢れた塩が、暗闇の中で扇状に広がって部屋の隅を白く染めた。
その直後。
嵐のような、あの髪を引きちぎる音が、嘘のようにピタリと止まった。
「……どうなったんや?」
「……」
杏子さんの問いに、僕は答えることができなかった。さっきまで部屋を支配していた、あの肺を焼くような殺気が、霧散していくのを感じたからだ。
部屋の隅、杏子さんが投げた塩が白く散らばった場所。
そこだけが、まるで異形の何かが通り過ぎた跡のように、不自然に塩が避けられ、フローリングの床が剥き出しになっていた。
そこには「何か」が、確実に立っていたのだ。
僕たちには決して姿を見せず、アリスの髪を無残に引きちぎるほどの圧倒的な力を持ち、何がなんでも赤ちゃんに危害を加えようとする邪悪な意思を持った「何か」が。
「……逃げたんか? それとも……」
杏子さんの呟きが、重苦しい静寂の中に消えていく。
床に残された「見えない跡」を、僕はただ、震えながら見つめることしかできなかった。




