第5怪 呪いの人形編②
それは、誰にも言えない悩みや、泥のように溜まった日々の疲れの隙間から、音もなく這い出してくる。
最初はただの違和感。視界の端で何かが揺れたような、あるいは、部屋の隅の影がいつもより少しだけ濃くなったような、そんな些細な変化。
けれど、一度でも居なくなればいいと、そう思ってしまったら最後。
あなたの心がその「なにか」を肥大させ、見えない指がゆっくりと、愛しい子の首筋へと伸びていく。
どれだけ泣き叫んで助けを呼んでも、隣で寝ている誰かにさえ、その姿は見えない。
あなたの心が揺らぎ、恐怖に支配されている限り、それは誰にも触れることのできない「絶望」なのだから。
逃げ場のない泥濘の中で、あなたはただ、大切なものが侵食されていくのを眺めることしかできない。
そしてあなたは決して拭うことの出来ない、懺悔の涙を流し続けるだろう。誰も寝ていない空虚な揺り篭を揺らしながらーー
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「……ほな早速行きましょか。鉄は熱いうちに打て、怪異は勢いのあるうちに叩け、ですよ」
杏子さんは依頼人の女性ーー佐々木さんの話を聞き終えるなり、まだ火のついたタバコを灰皿の底へ力強く押し付けた。
その瞳には、先ほどまでの自堕落な影はない。迷いのない足取りで立ち上がる彼女に急かされるように、僕も慌てて事務所を飛び出した。
タクシーを飛ばして到着した住宅街の一軒家は、外観こそ手入れの行き届いた近代的な造りだった。しかし、玄関の扉を開けた瞬間に鼻を突く「重苦しい空気」が、僕たちを明確に拒絶した。
それは単なる掃除不足による生活臭や、湿気によるカビの匂いではない。
肺の奥にねっとりと絡みつくような不快感。形を持たない「悪意」が霧となって充満しているかのような、生理的な忌避感だ。
外はこれほど明るい日差しが降り注いでいるというのに、この家の廊下は、まるで光を吸い込む泥のように暗く、冷え切っていた。
杏子さんは無意識に胸ポケットからタバコの箱を取り出した。 慣れた手つきで一本を抜き出し、ジッポに指をかける。
愛煙家としての習慣もあるだろうが、彼女にとっての「煙」は、怪異の所在を特定するための重要なセンサーだ。 煙が何かに吸い寄せられ、あるいは不自然に避ける動きを見ることで、彼女は不可視の存在を「視る」。
しかし、その指先が動くより早く、控えめな声が響いた。
「……あ、あの。すみません、子供がいますので……室内は禁煙でお願いできますか?」
佐々木さんが申し訳なさそうに、けれど母親としての断固たる拒絶を込めた声で僕たちを制した。
杏子さんの指が、凍りついたように止まった。
彼女は一瞬、眉間に深いシワを寄せて「……あー」と、地を這うような呻き声を漏らした。
ジッポの熱が指先に伝わる寸前で、彼女はタバコを箱に戻し内ポケットに突っ込んだ。
「……せやね。すんません、職業病や」
杏子さんは不機嫌そうに唇を尖らせながらも、依頼人の言葉に従った。
「煙による探査」を封じられたストレスは、彼女の鋭敏な神経を苛立たせているようだった。
「蓮、今日は『煙』が使われへん。自分もしっかり観察しときや。助手やったら、鼻より目で情報を食うんやぞ」
「は、はい! 任せてください!」
僕は必死に周囲を見渡した。煙による可視化ができない以上、僕の「眼」が杏子さんの補助にならなければならない。
怪異が残す微かな「違和感」を、この真っ昼間の光の下で暴き出す必要があった。
寝室のドアを静かに開けると、そこにはベビーベッドの中で安らかな寝息を立てる赤ちゃんの姿があった。
一見すれば、どこにでもある幸せな家庭の、穏やかな日常の風景そのものだ。
しかし、杏子さんの目は、その平和な光景の裏側に潜む「歪み」を逃さなかった。
「ちょっと失礼」
杏子さんは子供部屋に入ると、それまでの不機嫌さを霧散させ、冷徹なまでの集中力を見せた。
彼女は膝をつき、天井の四隅、窓のサッシ、そして床を、まるで警察の鑑識官のように丹念に調べ始める。
「人形は、間違いなくご自身の寝室に置いてあるんですよね?」
「は、はい。それは間違いありません」
杏子さんは返事を聞き流すように、フローリングの溝を指先でなぞった。そして、何かを拾い上げる。
彼女の指先で光ったのは、日光を反射して金色に輝く、一本の長い髪の毛だった。 この家に、金髪の人間は一人もいない。ならば、その出所は自明だった。
「やっぱり、この人形が……自力でここに来とるのは間違いなさそうやな」
「お子さんは、夜中に起きたりはしないんですか?」
「いえ、夜泣きはよくあります。でも、それはアリスの髪の毛が絡まるようになる前からです」
「……ほう」
杏子さんの表情が、何かに引っ掛かっているように曇った。
「杏子さん、どうしました?」
「いや、この人形がホンマに子供を殺そうと、害したろと思ってるんなら、なんでこんな『とろい事』してるんかって思てな」
杏子さんの指摘に、僕は首を傾げた。
「動きが遅すぎる、ということですか?」
「せや。あのぬいぐるみの件を思い出しや。あいつ、挨拶抜きでいきなり自分を殺しに来たやろ」
確かに、あの時は隙あらば常に僕の命を狙っていた。 もし相手が、抵抗もできない赤ちゃんなら、危害を加えるチャンスなどいくらでもある。 なのに、なぜこの人形は毎夜、一線を越えようとしないのか。
「……不可解や。この目で直接見定める必要があるな」
杏子さんはそう言うと、佐々木さんに今夜の宿泊を申し出た。 夫が単身赴任で不在であるという佐々木さんは、すがるような表情でそれを快諾した。
佐々木さんが夕食の準備のためにリビングへ向かい、パタパタと足音が遠のいた瞬間、杏子さんが小さい声で僕に耳打ちをした。
「ちょっと調べといてや。人形以外で、赤ちゃんにまつわる不吉な都市伝説。そのなかで『危害を加える系』のやつをな」
僕はスマートフォンを取り出し、検索を開始した。
「子供 都市伝説」「怪異 危害」……
傍らで杏子さんは、手持ち無沙汰を紛らわせるように、胸ポケットから取り出したミントタブレットの容器を振った。
カシャカシャと乾いた音が、静まり返った子供部屋に響く。彼女は一粒を口に放り込み、奥歯で「バキリ」と、まるで骨を砕くような音を立てて噛み砕いた。
「……ええか、蓮。怪異っちゅーんはな、目的と手段が一致せんときが一番不気味なんや」
彼女の呟きが、まだ明るい昼の光の中でも、部屋の隅の影をより濃くしていくような気がした。
僕はネットの海に潜り込み気になるワード、「乳幼児突然死」と「怪異」にまつわる不気味な書き込みを一つずつ、慎重に追い始めた。




