第4怪 呪いの人形編①
僕たちが奇妙な「雇用契約」を正式に交わした、まさにその直後のことだった。
人生の新しい一歩を踏み出したという実感に浸る間もなく、事務所の建て付けの悪い扉が、ひどく力ない音でノックされた。
コン、コン……
それは、扉を叩くものとしてはあまりにも弱々しく、まるで救いを求める誰かの指先が、最後の力を振り絞って木肌を撫でたような響きだった。
「……客やな。蓮、開けたって」
「あ、はい!」
杏子さんの指示に従い、僕は緊張で少し強張った手で扉を引いた。
そこに立っていたのは、三十代後半くらいに見える、一人の女性だった。
かつては丁寧に手入れされていたであろう髪は乱れ、肌は不健康に青白い。何より目を引いたのは、その瞳の下に刻まれた、墨を流したような深い隈だった。幾晩、まともに眠れぬ夜を過ごしたのだろうか。
彼女の両手には、まるで壊れ物を扱うように大切に、けれど同時に、得体の知れない爆弾を抱えるかのように恐る恐る、布に包まれた「何か」が握られていた。
「……あの、こちらで、その……幽霊とかの、おかしな相談に乗っていただけると聞いて……」
「ああ、うちは幽霊から呪いまで専門や。どうぞ、そちらのソファに掛けて下さい」
杏子さんの声は、先ほど僕を採用した時の悪戯っぽい響きを完全に消していた。
「蓮、お客様にお茶。さっそく仕事やで」
「はい!」
僕は指で示された狭い給湯室で急いでお茶の準備を整え、リビングへと戻る。
その時だった。
杏子さんが咥えタバコのまま、肺いっぱいに吸い込んだ煙を「ふーっ」と静かに吐き出した。
吐き出された煙は、通常なら空気の流れに沿って天井へと霧散していくはずだ。しかし、その煙はまるで独自の意思を持っているかのように、ゆらゆらと不自然な軌道を描き始めた。
そして、女性が膝の上に置いた布包みの方へと、吸い寄せられるように集まっていったのだ。
それは、前の「ひとりかくれんぼ」の人形の時のような、激しくのたうち回るような乱れではなかった。けれど、その静かな蠢きこそが、かえって異様な密度を感じさせる。
僕の背筋に、冷たい氷の刃を直接押し当てられたような戦慄が走る。
あの絶望的な夜、ファミレスで見た「怪異がそこに在る」ことを示す、決定的な合図。
「『示し』が出とるな。そのお人形さん、しっかり『憑いとる』わ」
杏子さんの言葉に、女性はびくりと肩を震わせた。
「亡くなった祖母の形見の人形……アリスという名前なのですが」
彼女が震える手で、大切そうに巻かれていた布の包みをゆっくりと解いていく。
中から現れたのは、気品あるレースの衣装を纏った、息を呑むほどに美しい西洋人形だった。
本来であれば、それはアンティークショップのショーケースで光を浴びているべき美術品のはずだ。
しかし、そのガラス細工の瞳を見た瞬間、僕は息が詰まった。
澄んだ色彩をしているはずの瞳が、どこかこちらを嘲笑っているような、あるいは底冷えするような暗い眼差しを湛えているように見えたからだ。
そして、かつては美しかったであろう金糸の髪は不自然に汚れ、絡まり、まるで生き物の毛髪のように不気味な光沢を放っていた。
「数日前から、髪が……夜な夜な、伸びているんです」
女性の声が、恐怖で上ずり震える。
「最初は気のせいだと思っていました。でも、ある朝起きたら、寝室に置いていたはずのアリスが、いつの間にか娘の部屋に移動していて……寝ている娘の首に、その長い金髪が……まるで絞め殺そうとするみたいに、幾重にも巻き付いていたんです……!」
娘を思う母親としての悲痛な叫びが、狭い事務所の空気を震わせた。
その瞬間、杏子さんの瞳から世俗的な色が完全に消えた。
競馬雑誌を読んでいた時のだらしない姿は微塵もなく、そこには冷徹な「狩人」のような光を宿した顔があった。
「なるほど、『髪が伸びる人形』か。怪談の鉄板やな……ええよ、面白そうやんか」
不敵に口角を上げた杏子さんの横顔を見て、僕は悟った。 これが怪異事件なのだ、と。
僕と杏子さん。
そして黄金の髪を持つ呪いの人形「アリス」との、奇妙で恐ろしい出会いだった。
「ようこそ。怪異探偵事務所へ」




