第3怪 ようこそ怪異の世界へ
『ひとりかくれんぼ』という名の悪夢。
それがようやく終わりを告げた時、僕を包んだのは安堵ではなく、ただひたすらな虚脱感だった。
あの後杏子さんに行きつけだという居酒屋へ連行され、何を飲み、何を口にしたのかさえ記憶にないほど必死に祝杯を上げた後ーー僕は這うようにしてアパートへ帰り、玄関に倒れ込むようにして泥のような眠りに落ちた。
三日間、一睡もできずに死の気配に怯え続けた反動は、想像以上に凄まじかった。
次に目を覚ました時、窓の隙間から差し込む太陽の眩しさに、僕は思わず涙がこぼれそうになった。
ベッドから見ていた、いつもの見慣れたアパートの天井。それがこれほどまでに愛おしく、美しいものに見えたのは、生まれて初めてのことだ。
「……生きてる。僕、本当に、生きてるんだ」
這い上がって鏡の前に立つと、数日前までの、まるで死神に魅入られたような幽霊同然の形相はどこへやら、少しだけ人間に戻った顔があった。
シャワーを浴び、熱い湯で頭の中にこびりついていた恐怖の残滓を洗い流す。
その後で食べた、コンビニの幕の内弁当。安っぽいプラスチックの容器に入ったおかずのひとつひとつが、胃袋に、そして何より凍りついていた魂に、じわじわと染み渡っていくのが分かった。
ようやく、早鐘のようにうるさかった自分の鼓動が、自分自身のものであると確信できた。
肌を撫でる空気、日常という名の、何物にも代えがたい平穏。
それを取り戻した実感が湧いてくると、真っ先に脳裏に浮かんだのは、あの『怪異探偵事務所』の主、笹原杏子さんのことだった。
正直なところ、彼女という人間については、まだ何も分かっていない。
モデル顔負けの美貌と、着こなしたスーツ姿。
それとは裏腹に、素人目で見ても分かる圧倒的で苛烈な格闘術。
そして、そのスタイリッシュな外見を粉々に打ち砕くような、競馬とタバコと不規則な生活にまみれた、あまりにも自堕落そうな雰囲気。
でも、あの絶望的な状況で僕を救い出し、怪異をねじ伏せたのは、紛れもない事実だ。
僕はきちんとお礼を伝えるために。そして、「無事に自分を取り戻した」と彼女に報告するために、再びあの古びた雑居ビルへと足を運んだ。
コンコン、と控えめにノックをしてから建て付けの悪い扉を開ける。
「失礼します……杏子さん、あの、先日は本当にありがとうございました」
扉を開けた瞬間、肺の奥をくすぐるようなタバコの香りと、相変わらず部屋の隅々まで漂う煙が僕を出迎えた。
杏子さんは机の上に遠慮なく長身の足を投げ出し、先日も読んでいた『週刊馬鹿野郎』という、品のないタイトルの競馬雑誌を熱心に読み耽っている。
「なんや、自分か……ほう、えらい顔色ようなったやん。憑き物が落ちたってのは、まさにこのことやな」
杏子さんはこちらをチラリと横目で確認すると、心地よいリズムを持った低い関西弁で淡々と答えた。
僕は姿勢を正し、あの日感じたすべての感謝を込めて、もう一度深く、深く頭を下げた。
「あの時、杏子さんが助けてくれなかったら、僕は今頃……本当に、感謝してもしきれません。何と言ってお礼を言えばいいか……」
「ええよええよ、そんなん。いちいち重たいねん。私は仕事しただけやし、自分はお客さんやった。それだけのことや」
ひらひらと、面倒そうに片手を振る杏子さん。
「そうや、丁度よかったわ。これ、渡しとくな」
彼女が胸元から一枚の紙を取り出し、指に挟んで差し出したのは、一枚の簡素な紙ーーいわゆる、請求書だった。
そこに整然と並んだ、大学生の僕にとってはその数字を見た瞬間、僕の感動を喉元でカチリと凍りつかせるには充分だった。
『怪異退治・特別出張費・雑費含む:金拾五萬円也』
「……じゅ、じゅうごまん!? 杏子さん、これ……これって」
「ああ。渡し忘れててな。自分、名前しか言わんかったやろ。連絡先も分からへんかったから、このまま取りっぱぐれるかと思っとったんや。律儀に来てくれて助かったわ」
十五万。
一人暮らしの大学生にとって、それがどれほどの重みを持つか、彼女は理解しているのだろうか。
「……あの、あのですね、杏子さん。僕、今そんなに手持ちがありません。……というか、正直に言います、払え…ないです」
「……はぁ?」
杏子さんは手に持っていた雑誌をバサリと置き、新しいタバコに火を点けると、それまでの緩い雰囲気を一変させた。獲物を射抜くような鋭い視線が、僕の眉間を貫く。
「自分、命救ってもらっといて、金は要らんとでも思ってるんか? 学生や言うても、もう二十歳の大学生やろ。大人のルールくらいは知ってるやんか。この世にタダより高いもんはないんやで」
「……はい、重々承知してます! でも、事前に値段を全く聞いてなかったので、心の準備も、ましてや財布の準備も出来て無くて……!」
「大体なぁ……あれ、私、値段言うてなかった?」
「は、はい…」
杏子さんは記憶を手繰るように、煙がゆっくりと立ち昇る天井を少しの間眺める。
そして、当時あの狂ったぬいぐるみとの死闘、一刻を争う切迫した状況を完全に思い出したのだろう。
彼女の整った顔が、見る見るうちに青ざめ、崩れていく。
「あ……」
彼女は気まずそうに目を泳がせ、次の瞬間ーー
ガンッ!!
と、事務所全体が震えるような派手な音を立てて、机に自分の頭をぶつけた。
「そうか、私言うてなかったかぁ……! せやな、言うてないわ。思い出してきた、あのくそぬいぐるみ、いきなり襲いかかってきよるんやもん。説明する暇も、契約書書かせる余裕もなかったわ!」
「杏子さん……?」
「あ〜……やってしもた! これ、消費者契約法とかその辺のややこしい奴に抵触する奴ちゃうん!? 事前の説明なし、法外な請求……私の方が不当請求で訴えられるレベルやんか、ホンマにやらかしたわぁ……」
机に額を擦りつけたまま「あ〜……」と呻き続けている彼女の姿を見て、僕はすっかり毒気を抜かれてしまった。
あの夜、圧倒的な力で怪異をぶっ飛ばした、格好良かった女性はどこへ行ったのか。
でも、そんな彼女の、あまりにも人間臭く、そしてどこか抜けている一面を見てしまったことで、僕の心の中にあった「ある好奇心」がふつふつと湧き上がってきた。
恐怖を乗り越えた先にある、もっと知りたいという衝動。
「……あの、杏子さん。顔を上げてください」
「……無理無理かたつむりや。私はプロとしてあるまじき失態を犯した。これはもう切腹もんやで……今日、日本から一人の絶世の美女が消えてまう。日本の、いや世界の損失や……」
「切腹されては困りますよ。死なれたらお礼もできませんし……なので、提案なんですけど。その十五万、僕に「働いて」返させてくれませんか?」
「……は?」
杏子さんが、前髪をぐしゃぐしゃにかき乱したまま顔を上げる。
「自分、今なんて言うた?」
「助手として、ここで働かせてほしいんです。実は僕、昔からオカルトというか、都市伝説の類に興味があって。今回の『ひとりかくれんぼ』も、ただの遊びじゃなくて、自分なりの研究のつもりだったんです。それに……いや、何でもないです」
ーー杏子さんのことをもっと知りたい、という本音は、今はまだ言わないことにした。
すると杏子さんは呆気に取られたように僕を見つめ、それからニヤリと、面白い玩具を見つけた時のような、不敵で、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべる。
「……自分、ホンマもんの変わりもんやなぁ。怪異に殺されかけといて、自分からまた首突っ込むか。普通は二度と関わりたくないと思うもんやで」
彼女はトントンとタバコの箱を叩いて最後の一本を咥え、新しい火を灯すと、満足げに濃い煙をふーっと吐き出した。
「ええ度胸しとんな。気に入った、採用や。時給は十五万を完済するまで、しっかり天引きしたるからな……覚悟しときや、嬉野蓮」
「はい! よろしくお願いします、杏子さん!」




