08 魔王、旅に出る
蒼い月明かりの下、忍び寄る魔族の群れを見下ろし、子猫の魔王はフンと鼻を鳴らした。
(あ奴らは……確かザグロだかザクロだかいう下級魔族の一味か。雑魚という言葉が服を着て歩いておるような連中だ)
トリスは子猫を持ち上げると、ガタガタと震える手で強く抱きしめた。
「ま……魔族だ! どうしよう、村のみんなに知らせないと……!」
だが恐怖で足がすくみ、一歩も動くことができない。
その間にも、魔族の一団は不気味に村へと迫っていく。
(動くな少年。あ奴らに真正面から戦う度胸などない。その代わり……)
直後、村の外れでパッと火の手が上がり、あっという間に炎が広がっていった。
「あっ……! 僕たちの麦畑が!!」
悲鳴とともに家々から飛び出してきた村人たちが、必死で火を消し始める。しかし魔族どもはゲラゲラと下品に笑いながら、さらに火を放った。
家へ、家畜小屋へ、食料庫へ。
炎が夜空を赤く染め、家畜の鳴き声と村人たちの怒号が響き渡る。
右往左往して水をかける人々を嘲笑うように、魔族たちは妖馬で村を駆け抜けると、夜の闇へと去っていった。
トリスは子猫を抱えたまま、丘の上で夜が明けるまで震えていることしかできなかった。
朝日が昇る頃になって、ようやく火は消えた。少年は硬直した足を一歩ずつ動かし、村へと降りていった。
村では、服を濡らし煤にまみれた叔父が、必死でトリスを捜していた。
「叔父さん!」
「トリス! 無事だったか!!」
太い腕でトリスをしっかりと抱きしめる叔父。その拍子に、二人に挟まれた子猫の悲鳴が上がる。
「にぎゃあああッ!?(潰れる!)」
「あ、ごめん! 叔母さんは無事!?」
「ああ、無事だ。……だが……」
叔父が目線を向けた家畜小屋の中には、ヤギの姿は一頭も残っていなかった。
(おのれ下級魔族ども……! 余の朝食のミルクがぁぁぁ!!)
「ニャーーーッ!(許さん!)」
「叔母さんはどこ?」
「村の集会所で女衆たちと一緒にいる。心配していたから顔を出してやってくれ」
トリスが小径を走り集会所へ向かうと、血相を変えた叔母が駆け寄ってきた。
「トリス! 無事だったかい!」
「うん! 村のみんなは!?」
「人はみんな無事さ……家畜は一頭残らず奪われたけどね」
子猫の魔王はトリスの腕の中で鼻に皺を寄せた。
(食料を奪い、疲弊する様を見て楽しむ。くだらん。これでは人間のチンピラどもと同じではないか。魔族ならば強者と戦え。昔、余の配下から追放した奴だが、あの時、灰にしておくべきだったか)
トリスが抱く黒猫に気づいた村の女たちが、ヒソヒソと眉をひそめた。
「ちょっとあんた……最近その黒猫と一緒にいるけどさ、そいつが魔族を呼び寄せたんじゃないの?」
「黒い毛並みに金の瞳なんて……まるで伝説の魔王じゃないか」
(その通り! 余こそがかつて人間界を恐怖の底に陥れた伝説の魔王アルデルヴィオン様である! だが、あんな雑魚魔族と一緒にしてもらっては困る!!)
子猫はトリスの腕からパッと飛び降りると、耳と尻尾をピーンと立てて優雅に闊歩してみせた。
(ひれ伏せ愚民ども! 我こそは魔界の王なり!)
「にゃあ!(ドヤッ!)」
だが村人たちは猫など完全スルー。叔母が女たちに反論する。
「バカお言い! この猫が来る前から魔族は何度も襲ってきてたろ!」
「それはそうだけど……」
部屋の隅で疲弊した女が、毒のこもった声で呟いた。
「……じゃあ、その子は?」
指差されたのは、トリスだった。
「その子の元の村も魔族に襲われて滅んだんでしょ? その子がこの村に来てから、ここも襲われるようになったんじゃないの……?」
一斉に、冷たい視線がトリスへと集まる。
失われた故郷の光景が、脳裏を掠めた。
——燃え盛る炎の熱さ、泣き叫ぶ子供たちの声。
トリスの胸がドクンと激しく跳ねた。
「な、何言ってるのさ! この子は関係ないだろ!?」
激しい言い争いを始める大人たち。
子猫はトリスの足元で座り、じっと彼の顔を見上げた。唇を噛み締め、必死に涙を堪えている。
子猫はフンと息を吐き、尻尾を一度、大きく揺らした。
(くだらん。本気でこの少年に魔族を呼ぶ力があるなどと思っているのか。追い詰められると人間は途端に知性を失うな)
トリスはギュッと拳を握り締めると、顔を伏せたまま外へ飛び出していった。
(おい! 余をこのような不愉快な場に置いて行くなバカ者!)
「にゃーっ!(待てコラ!)」
村の中を走り、焦げた小屋の片付けをする叔父のもとへ駆け寄るトリス。追いついた子猫がトコトコと隣を歩く。
「……叔父さん。僕、村を出ます」
廃材を担ぐ叔父の手がピタリと止まった。
「なんだと? もう一度言ってみろ」
「僕、村を出ます」
「なぜだ。女衆に何か言われたか」
トリスは固く口を閉ざし、俯く。叔父は苦々しい顔でため息をついた。
「それが魔族のやり口だ。人間同士を疑わせ、信頼を失わせる。お前が前にいた村も、そうやって滅んだはずだ」
それでも黙り込む少年に、叔父は厳しい声をかける。
「外の世界は子供一人で生きていけるほど甘くないぞ」
トリスは顔を上げ、正面から叔父を見返した。
「魔族を見て震えているだけなんて嫌なんだ! 僕は……村を守れるくらい強くなりたい!」
「勇者にでもなって戦うつもりか! ばかばかしい!」
「何ができるかわからない。でも……外の世界を見てみたいんだよ!」
思いもかけない少年の力強い視線に、叔父は肩に担いでいた廃材を地面に置いた。
「……大人になってからでは駄目なのか?」
トリスは首を横に振った。
叔父はしばらく黙ってトリスを見つめていた。やがて、大きく息を吐く。
「……ハッ、本当にお前は父親そっくりだな。……わかった。だが出発は少し待て」
叔父は片付けを中断し、村の男たちと町へ向かった。
夕刻、帰ってきた彼らの肩にはたくさんの食料が担がれていた。村の女たちがその食料で温かい粥を作り、村人たちに配った。
焚き火の傍ら、叔父がトリスの隣に腰掛けた。
「悪いが、あの金貨は村のために使わせてもらった。……これは少しだが、残りだ」
トリスの手の中にチャリンと数枚の硬貨が落とされ、使い込まれた布製の背負い袋が手渡された。
「中に食料と当面の旅道具が入っている」
「叔父さん……」
「気をつけて行けよ。……辛くなったら、いつでも帰ってこい」
◇
翌朝。朝靄の中をトリスは歩き出した。
村を離れるにつれ、靄は晴れ、視界は開けていった。
目の前には草原が広がり、細い土の道が遥か先へと伸びている。
その道を歩く少年の背負い袋の隙間からは、黒い子猫の頭がちょこんと可愛らしく飛び出ていた。
次回、第09話 「魔王、検索される」 10月15日(木)19:15更新予定




