04 魔王、人間界へ落とされる
双頭の大鳥の鋭い爪に囚われたまま、黒子猫の魔王は魔界の空を飛んでいた。
やがて、灰色の空に不気味な暗黒の穴がポカリと現れた。
大鳥がそこへ飛び込むと——視界が開けた。
頭上には、漆黒の夜空に黄色い満月がぽつんと浮かんでいた。
そこは、魔王にとって実に三百年ぶりの人間界だった。
吹きつける冷たい夜風に、小さな身体がガタガタと震える。
(確か、この空間の歪みは密林の大穴へ繋がっていたはず……)
遥か下を覗き込んでも、密林らしきものは見えない。ただ夜の闇が広がるばかりだった。
大鳥はセルヴェディオの命令通り、ひたすら夜空を飛び続けた。
やがて東の空が白み始めた頃、大鳥は森の上空で無造作に爪を離した。
「にゃあぁぁぁーーっ!?」
真っ逆さまに落下!
バサバサバサッと激しい音を立て、幾重もの枝葉に叩きつけられながら、奇跡的に一本のしなやかな枝へ腹が引っかかった。上下に揺さぶられた枝は、やがて動きを止めた。木の枝にだらんとぶら下がりながら、子猫の魔王は深いため息を吐いた。
(……危うく落ちるところであった……)
夜明けの光が差し始めると、魔王は幹に爪を立て、スルスルと地上へ降りていった。草地に降り立つと、今降りてきた大木をドヤ顔で見上げた。
(フッ……その辺にいる子猫なら、木から降りることすらままなるまい。さすが余である)
耳と尻尾をピンと立て、草むらを踏み分ける。朝露でヒゲが濡れ、ブルブルッと頭を振った。
小鳥のさえずりを聴きながら森を抜けると、そこには見渡す限りの荒れ地が広がっていた。
(ずいぶん遠くの僻地まで来たな。……だが、このあたりは見覚えがあるぞ)
かつては人間界の各地へ乗り込み、挑んでくる人間を返り討ちにしたものだった。この地でもまた——。
人間に干渉しなくなったのは、一言で言えば「飽きた」からだ。気まぐれに争い、気まぐれに手を引く。それが魔族というものだ。
子猫の魔王は、小さな四肢で懸命に荒れ地を歩いた。だが、倒木や窪地に阻まれなかなか進まなかった。
(黒豹や鷹への変化なら慣れておるが、子猫の身体とは不便なものよ。確かに猫になりたいとはいったが、なぜこのような愛くるしい姿になったのか)
子猫の魔王は足を止め、陽だまりで丸くなると、湿ったピンクの肉球をペロリと舐めた。ぽかぽかとした太陽の温もりに、強烈な眠気が襲ってきた。
(この荒れ地を越えれば人間の村があったはず。……まあ、その前にちょっとだけ仮眠を……)
パタパタと尻尾を揺らし、うとうとしかけたその時。
大きな影がサーッと日差しを遮った。眠そうに瞼を開けると——そこにいたのは、一羽の真っ黒いカラス。
(なんだ……ただのカラスか……)
再び目を閉じ、前足の上に顎を置いた瞬間。
カラスが「カーッ!」と鋭く鳴き、鋭いくちばしで魔王の頭をガツンとつついた!
(……痛っ!? こ、こやつ! カラスごときが余の頭をつつくだと……!?)
「にゃ、にゃあーっ!(無礼者!)」
さらに目を狙って容赦なく攻撃を仕掛けてくるカラス。子猫の魔王は「にゃあ!」と声を上げながら、荒れ地へと逃げ出した!
(覚えておれクソカラス! 元の姿に戻ったら一族郎党焼き鳥にしてくれるわ!!)
岩陰に隠れ、丈の高い草を掻き分け、必死に逃走する魔王。
だが、けたたましいカラスの鳴き声とともに、森から仲間のカラスたちが飛び立ち、子猫の上空へ集まってきた。
「にゃっ!?」
四肢をがむしゃらに動かして逃げるも、カラスはあっという間に追いついてくる。
息を切らし、小さな足を止めた瞬間、数羽のカラスが舞い降り魔王を完全に包囲した。
(くそっ……魔法さえ使えれば……っ!)
万事休す。
最後の力を振り絞り、逃げようとした、その時——。
「こらーっ! カラス! 子猫を虐めるなーっ!」
ドタドタと勢いよく駆け込んできた一人の少年が、長い棒を振り回してカラスの群れを豪快に蹴散らした。
カラスどもが騒がしく逃げ去っていくのを確認すると、少年はぐったりした黒子猫を抱き上げ、自分の温かい服の胸元にそっと収めた。
「よしよし、もう大丈夫だよ」
少年は優しく子猫の背中を撫でると、足早にその場を去っていった。
◇
一方その頃、魔界の火山。
グツグツと煮立った真っ赤なマグマを湛える火山の麓には、毒ガスと湯気が噴き出す地獄のような温泉場があった。ネヴィルは温泉の縁に静かに舞い降りた。
「やはり、ここにも魔王様はいらっしゃいませんね……」
ネヴィルが曇った眼鏡を拭いていると、温泉の底からザバァッと巨大な影が立ち上がった。
四大魔族の一人——筋肉隆々の豪傑ラグヴェルである。
「む? なんだネヴィルか。こんな所で何をしている?」
「いえ、魔王様がお疲れのようでしたので、温泉の下見に参りまして」
「ガハハ! ここはいいぞ! 湯がグラグラ煮立っていて最高の心地よさだ! 若干、頭がクラクラするがな!」
「ゆでダコになる一歩手前ですね。ラグヴェル様、よろしければこれをどうぞ」
ネヴィルは懐から『棺桶最中』を取り出した。
「試作品ですが、糖分補給にどうぞ」
「おお、気の利く奴だ! ……ム、こし餡か。俺は粒餡の歯ごたえが好きなんだが」
「あいにく粒餡は品切れでして」
ラグヴェルは最中を豪快に口に放り込み、モグモグと噛み砕いた。
「……うむ、上顎にめちゃくちゃ引っつく」
「温泉の湯でも飲んで流してください。では私はこれで」
「待てネヴィル。アルデルヴィオンは今何をしているのだ?」
振り返ると、煮立った湯の中で仁王立ちし、バキバキに割れた筋肉を誇示するラグヴェルの姿。
ネヴィルはスッと視線を横に逸らした。
「魔王城で……猫と戯れておられます」
「そうか。もう長いこと人間どもとの戦争もなく退屈でな」
「では、何か血みどろのイベントでも企画いたしましょうか?」
「おお、それはいいな! 盛大なやつを頼むぞ!」
穏やかな笑みを残し、ネヴィルは城へと飛び去った。
◇
城に戻ったネヴィルを出迎えたのは、パニック状態のイゼルナだった。
「ネヴィル様ー! あの猫ちゃんもどっか行っちゃいましたー!」
ネヴィルは無言で玉座へ向かい、残された魔王の気配を探った。
そのまま導かれるように廊下へ出ると、魔王の気配がプッツリと途切れ、代わりに別の魔族たちの気配が残されていた。
「……やはり、あの子猫が魔王様だったようですね」
「ええぇぇぇっ!? あのかわいい猫ちゃんが魔王様!? わたし……わたし、魔王様のお股をガッツリ見ちゃいましたよ!? 怒られる! 首を跳ねられる〜〜!!」
「今はお股どころの騒ぎではありません! 一刻も早く魔王様を捜さねば。あの状態では危険です」
イゼルナは首を傾げた。
「でも魔王様って、豹とか鳥に姿を変えたりしますよね? それとは違うんですか?」
「魔法で自分の姿を変えるのと、『猫にされてしまう』のは全くの別物です。あれでは魔法が使えません」
「うーん、よくわかりませんけど大変なんですね! 四大魔族の皆さんに緊急招集をかけますか!?」
「バカ言わないでください。魔王様が力を失い行方知れずと知れ渡れば、四大魔族の中で謀反が起きます。……これは内密に動きましょう」
ネヴィルは、いつもと変わらずどんよりと曇る魔界の空を見上げた。
次回、第05話 「魔王、少年に助けられる」 10月6日(火)19:15更新予定




