15 魔王、起こされる
灯りを掲げて入ってきたのは、この村の村長——エリスの父だった。
エリスは満面の笑みを浮かべ、ベッドから足を下ろす。
「お父さん、見て! フェルクが『生命の宝珠』を取ってきてくれたのよ!」
「『生命の宝珠』だと……? まさか、そんな……」
「嘘じゃないわ、ほら! 咳も全然出ないの!」
エリスは両手を広げ、軽やかに立ち上がってみせた。
「ねえ、お父さんからもお礼を言ってあげて!」
「……あ、ああ」
だが、村長は険しい顔で口を閉ざしたままだった。しばらくして、ようやく重い口を開く。
「フェルク。少し、下へ来てくれるか」
「私も一緒に——」
「エリスは、まだ寝ていろ」
フェルクの強い口調に、エリスは渋々ベッドへ戻った。
階下、テーブルを挟んでふたりは向き合った。
村長は座ったまま、再び固く口を閉ざした。フェルクが卓上の蝋燭を見つめていると、村長の口からポツリと言葉が漏れる。
「お前が、こっそりエリスと会っていたことは知っていたよ。皆が伝染る病だと恐れていたのに、お前だけが足を運んでくれた」
村長は固く拳を握りしめた。
その顔には、喜びよりも戸惑いが浮かんでいた。
「すまんな。エリスが治ったのは心から嬉しい……じゃが、魔族の宝というのが……」
「迷惑だったか? あのままエリスを死なせた方がよかったってのか?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ——」
そこへ、エリスが階段を下りてきた。
だが、その可憐な笑顔に、フェルクはかすかな違和感を覚える。
「お父さん、ちゃんとフェルクにお礼を言わなきゃダメじゃない。私はもう……病に苦しむことはないんだから。もう二度と——」
その瞬間、エリスの愛らしい口元が耳まで裂けた。可憐な笑みは、一瞬にして恐ろしい妖魔の嘲笑へと変わり果てる。
「……エリス……!?」
呆然と立ち尽くすふたりを置き去りに、エリスは甲高い高笑いを残して家を飛び出した。
「ほら、見て。私、こんなに走れるのよ!」
裸足のまま駆けるエリスの足は、寝たきりだった人間とは思えぬほど軽やかだった。
追って外へ出ると、空の裂け目から双頭の大鳥が舞い降りてくる。不快な鳴き声を上げながらエリスの身体を両脚で掴むと、夜空へ向かって羽ばたいた。
「待て! エリスをどこへ連れて行く!!」
高笑いが夜の静寂に溶けていった。
「エリス!」
村長の悲痛な声が、フェルクの鼓膜を震わせた。
ふたりはただ、星の瞬く空を見上げるしかなかった。
◇
フェルクが重い足取りで小屋へ戻ると、トリスはベッドで泥のように眠っていた。掛け布をめくると、その隣で子猫が腹を上に、大の字になって爆睡している。
フェルクの胸に、理不尽な苛立ちが込み上げた。
「この……チビのくせに人間様と同じスペース取りやがって……!」
寝ている子猫の首根っこをつまみ上げると、そのまま玄関の外へポイと放り投げた。
子猫は見事に四つ足で着地すると、尻尾を太く膨らませた。
(貴様! 尊き余の安眠を妨げるとは何事だ!)
「シャーッ!(激怒)」
フェルクは無言のまま、怒り狂う子猫の横に腰を下ろした。膝に肘をつき、月のない空を仰ぐ。
「……あの坊主の言った通りだった」
沈み込む顔を、子猫は見上げた。
「魔族の宝なんて信用するんじゃなかった。エリスが……妖魔になっちまった」
子猫の耳がピクリと跳ねる。
「……でもさ、妖魔になると分かってたとしても、俺はやっぱり使ったと思う。勝手なもんだよな。——猫にこんなこと言ってもしょうがないけど……」
フェルクは顔を覆い、声を押し殺して泣いた。
子猫の魔王はその傍らで身体を伏せた。
冷たい星の光だけが、空に瞬いていた。
——翌朝。
事情を聞かされたトリスの前に、旅装束に身を包んだフェルクが現れた。
「俺も王都へ行く。魔界へ行く方法を知りたいんだ。魔界へ行って、エリスをあんな姿にした奴をぶっ飛ばしてやる!」
トリスとともに、フェルクも王都へ向けて歩き出した。その胸に執念の炎を燃やしながら。
◇
その頃、魔王城では、セルヴェディオが娘のオルネシアを自室へ呼びつけていた。
「お父様、なんのご用かしら?」
足音ひとつ立てずに、オルネシアは優雅に父の傍らへ歩み寄った。だが、セルヴェディオの背後に佇む女の姿に気づき、眉をひそめた。
セルヴェディオは顔色一つ変えず、背後の女を振り返る。——妖魔と化したエリスだった。
「こやつを、お前にやろう」
「ええっ? これ、元は人間だった妖魔じゃない」
「好きにするがいい。こやつは『生命の宝珠』を使ったようだ。以前、儂が仕掛けたダンジョンから宝珠を持ち出す者が現れたと見える」
オルネシアは眉を上げた。
「あの宝珠を? ふうん、大した人間もいたものね」
「魔王様は人間に関わるなと仰るが……あのような下等生物、放っておけばいくらでも増殖する。まるで薄汚いネズミのように」
押し付けられたエリスを引き連れ、オルネシアは長い廊下を歩きながら溜息をついた。エリスは無言のまま、影のように後をついてくる。
「人間だった妖魔って本当に面倒なのよね。『こんなはずじゃなかった』なんて、いつまでもグズグズ泣き言ばかり……」
ふと足を止めたオルネシアは、くるりと振り返ってエリスを見つめた。
「そうだわ! あなた、猫になりなさいな。私が可愛がってあげる」
オルネシアが優雅に手をかざすと、エリスの体はみるみるうちに縮んでいく。あっという間に一匹の可憐な猫へと姿を変えた。
空中に浮かんだ小さな首輪を、オルネシアは手慣れた動作で猫の首へ嵌めると、ほっそりとした腕の中に抱き上げた。
「この首輪を着けていれば、自分が猫だと思い込むの。人間だったことなんて思い出さずに済むでしょう?」
猫を抱くオルネシアの赤い唇に、愛おしげな笑みが浮かんだ。
次回、第16話 「魔王、王都へ行く」 10月31日(土)11:00更新予定




